年表:平和教育(1974年)
06 | 01 | 第2回全国平和教育シンポジウム、広島市で開催。約600人が参加。-2日。 |
06 | 33 | 米オハイオ州で平和運動グループによる「ウィルミントン1975年8月会議」開催運動を展開。平和教育のカリキュラムや在米被爆者の認識、米国青年の原爆に対する拒否反応などについて討議する。 |
年表:平和教育(1974年)
06 | 01 | 第2回全国平和教育シンポジウム、広島市で開催。約600人が参加。-2日。 |
06 | 33 | 米オハイオ州で平和運動グループによる「ウィルミントン1975年8月会議」開催運動を展開。平和教育のカリキュラムや在米被爆者の認識、米国青年の原爆に対する拒否反応などについて討議する。 |
年表:平和教育(1973年)
06 | 26 | 広島県被爆教師の会、1973年度定期総会を広島市内で開催。石田原爆訴訟支援など1973年度活動方針を決定。 |
10 | 13 | 初の全国平和教育シンポジウム、広島女学院中で。-14日。300数十人が参加。 |
年表:平和教育(1972年)
月 | 日 | 事項 |
02 | 12 | 広島県原爆被爆教師の会、代表者会議を開催。「原爆犠牲国民学校教師と子どもの遺族会」の見舞金や遺族年金要求運動を全面協力することを申し合わせる。 |
06 | 01 | 広島平和教育研究所発足。広島市・教育会館で開所式。理事長に宅和純広島県教組委員長、研究会議長は今中次麿広島大名誉教授、事務局長に石田明広島県教組副委員長 |
71 | 01 | 09 | 広島県被爆教師の会(石田明会長)、中学生向け英語・平和教育教材「Let’s Cry for Peace」刊行 |
71 | 07 | 06 | 広島市教委、「平和教育の手引き」試案・小学校編を作成。市内全校に送り意見を求める |
71 | 07 | 06 | 東京都被爆教師の会結成 |
71 | 08 | 04 | 「原爆爆牲国民学校教節と子どもの碑」、広良市平和記念公園前緑地帯に完成。碑に納めた過去帳には子供七百七十四人(死亡推定二千人)、教師百三十一人(同二百人)記入 |
71 | 08 | 06 | 山田広島市長平和宣言。「すベての国家は、いっさいの軍備主権を人類連帯の世界機構に移譲し、解消すベきでおる。まず、すべての戦争の即時停止と核不使用協定の早急な実現を要請し、次の世代に戦争と平和の意義を正しく継承するための平和教育が |
71 | 10 | 09 | 埼玉県浦和市立高校、文化祭を開催。-11日。映画「ヒロシマ・ナガサキ-1945年8月」の上映や被爆資料の展示をおこなう。 |
71 | 10 | 17 | 原爆被爆教師の会全国連絡会結成。石田明会長。平和教育の全国的展開などをきめる. |
71 | 11 | 02 | 修学旅行で広島を訪れた埼玉県浦和市立高校の生徒30人、市内の宿舎で広島商業高校・広島女学院高校・廿日市高校3校の生徒13人と交流。 |
71 | 12 | 07 | 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会が追悼集「流灯」刊行 |
年表:平和教育(1961~1970)
年 | 月 | 日 | 事項 |
1967 | 06 | 20 | 広島女学院大学で学生対象に原爆特別講座始まる。テーマ「八月六日の意味するもの」。同大宗教委主催 |
1968 | 07 | 01 | 広島市教委、原爆・平和問題に関する特別授業実施を決める。8・6を中心に一時間程度 |
1969 | 03 | 26 | 広島県被爆教師の会結成。県内小、中、高校教員、退職教員などが参加。平和教育の推進が目的 |
69 | 04 | 20 | 東京都青梅市の都立農林高校定時制4年生50人、修学旅行で広島を訪問。同校は3年前から修学旅行で広島に来ているが、今回初めて被爆者を囲み懇談。 |
69 | 06 | 19 | 鳥取市での日教組三十六回定期大会、原爆教育推進を運動方針に掲げる |
69 | 07 | 05 | 広島県教組の原爆・平和教育教材「ひろしま」出版 |
69 | 07 | 16 | 広島県教委、原爆・平和教育指導指針をまとめ各学校に通知。「原爆の日の意義を理解させるとともに、いっそう平和を願う心情や態度を育てる」 |
69 | 07 | 19 | 広島市立荒神小学校で原爆・平和教育。被爆教師の体験と同校制作のスライドで |
69 | 07 | 28 | 広島県教組、同県被爆教師の会編集の被爆教師の体験記「未来を語りつづけて」出版 |
69 | 08 | 02 | 広島市、第2回平和を語る市民集会を開催。テーマ「被爆体験の継承と平和教育」。 |
69 | 10 | 18 | 吉川清、原爆慰霊碑前で東京電気大学高校工業科2年生340人に原爆の惨状などを話す。 |
1970 | 10 | 18 | 東京電気大学高校工業科2年生344人、修学旅行で広島市を訪問。今回が10回目。高橋昭博広島県被団協理事の話を聞く。 |
年表:平和教育(~1960)
年 | 月 | 日 | 事項 |
1950 | 10 | 26 | 三原市西小学校、修学旅行で広島を訪問。原爆孤児にと630円を中国新聞社に寄託。 |
1951 | 04 | 05 | 順宮・清宮、修学旅行の途次、広島入り。供養塔、原爆記念館、御便殿、ABCCなどを視察。[天皇] |
51 | 06 | 29? | 広島市教育委員会、市内小中学校在学中の孤児71人の境遇調査結果まとめる。原爆で父を失った者は、小学校25.8%・中学校32.9%、母を失った者小学校30.6%・中学校34.9%。 |
51 | 08 | 17? | 広島市教育委員会、5月に調査した市内小中学生の身体検査の結果を公表。被爆児童と非被爆児童の間に身長・体重・胸囲とも差がないことが判明。 |
51 | 11 | 02 | 長崎市立城山小学校子供会、第2回平和記念式を「あの子らの碑」前で開催。 |
51 | 11 | 22 | 広島市教育委員会、原爆犠牲学徒・教職員数を調査、犠牲者9505人と発表。 |
1952 | 02 | 25 | 長崎市立山里小学校、自主教育研究会に合わせて「永井博士と浦上の子ら」遺品展を開催。 |
52 | 03 | 04 | 長崎市立城山小学校、教育心理学専門家を招き、原爆学級編成について協議。 |
52 | 03 | 08 | 長崎市立城山小学校、同校入学予定児童の身体検査を実施。うち、原爆被災児童36名に対しては別個に知能検査を実施。 |
52 | 04 | 04 | 長崎市立城山小学校入学式。新入学児童259人(うち被爆児童40人)を対象に原爆学級2クラスを編成。 |
52 | 04 | 07 | 広島の原爆当日に生まれた3人、小学校に入学。 |
52 | 08 | 08 | 広島市の児童・生徒代表2人、長崎市平和祈年祭に出席のため長崎入り。 |
52 | 08 | 10 | 長崎市城山小学校で広島の生徒を迎えて被爆児童座談会を開催。 |
52 | 11 | 01 | 長崎市山里小学校、5年生以上の児童約600名で「あの子らの碑」第3回設立記念式を開催。 |
1953 | 02 | 26 | 長崎城山小学校、原爆学級開設(1952年4月)から1年間の研究発表会を開催。関係者約50名が参加。被爆児(183人)は知能が劣る、疲労回復が遅い、普通児より胸囲が小さい、などの結果が報告される(長崎日々) |
53 | 02 | 27 | 長崎市城山小学校教諭道口マチ子、冊子「原爆児の記録」をまとめる(長崎日々)。 |
53 | 03 | 05? | 長崎大学医学部小児科教室、城山小学校の原爆児の知能調査に関連し、4月から医学的調査を2年計画で実施することを決定。(長崎日々) |
53 | 08 | 05 | 広島市己斐小学校、「平和のつどい」を開催。4年生以上600名の児童が平和への誓いを新たにするとともに、校内72名の原爆孤児たちを慰める。 |
53 | 10 | 19 | 大阪府教育委員会、映画「ひろしま」を教育映画として推薦しないことを決める。 |
1954 | 11 | 02 | 長崎市山里小学校、「あの子らの碑」設立5周年記念式を開催。約1000人が参列。(長崎日々) |
1955 | 03 | 22 | 広島大学附属東千田中学校、1954年4月から実施したユネスコ実験教育「原爆と平和」の結果をまとめる。 |
55 | 06 | 16 | 広島市PTA連合会、本年度事業計画として原爆被害児童の健康管理実施など決定。 |
55 | 08 | 06 | 長崎市教組・県高教組、平和教育研究集会を国際文化会館で開催(~9日)。九州各県から約700人が参加。清水幾太郎が講演。(長崎日々) |
55 | 11 | 02 | 長崎市立山里小学校、あの子らの碑設立6周年平和祈念式を挙行。同校生徒約2000名が参列。平和の誓いを宣言。(長崎日々) |
1956 | 01 | 21 | 広島市・幟町中学校2年佐々木雅弘(禎子兄)、同1年万代紀子(禎子友人)、原爆症で死亡した佐々木禎子をテーマに県下中学校弁論大会に出場、それぞれ2位・1位に入選。(毎日新聞) |
56 | 04 | 18 | 修学旅行中の名古屋市の淑徳高校生徒10人、広島赤十字病院の原爆症患者を見舞う。(朝日新聞) |
56 | 05 | 30 | 平和を築く児童生徒の会、広島市での全国連合小学校長会で、原爆の子の像建設趣意書を配布し、協力を要請。(読売新聞) |
56 | 05 | 30 | 第8回全国連合小学校長会、広島市で開催(-31日)。 |
56 | 07 | 13 | 長崎市内小中学校長理事会、勝山小学校で開催。全校生徒に原水爆禁止世界大会のため白バラ募金に協力させることを申し合わせる。(長崎日々) |
56 | 07 | 14 | 「平和をきずく児童生徒の会」、総会開催(約100人参加)。原爆の子の像建設募金は150万円を達成。原爆障害者慰問などについて打ち合せ。(毎日新聞) |
56 | 08 | 06 | 名古屋市淑徳高校生徒、原爆症患者にと慰問品を寄贈。今年で3年目。(朝日新聞) |
56 | 11 | 07 | 広島女子商学園生徒、広島原爆病院を慰問。(読売新聞) |
1957 | 04 | 23 | 愛知淑徳高校の生徒代表4人,修学旅行の途中に広島原爆病院を慰問. |
57 | 07 | 05? | 長崎市城山小学校の原爆学級をテ-マとした教育映画「長崎の子」(共同映画社)、完成。 |
57 | 08 | 09 | 長崎市城山小学校、平和祈念式を挙行。 |
57 | 11 | 05 | 広島市内の私立崇徳高校の教員・生徒308名、九州一周旅行の帰途、長崎の原爆公園で犠牲者に献花し、誓いの言葉をささげる。 |
1958 | 02 | 15 | 核兵器禁止高校生連絡協議会、核兵器禁止高校生集会を東京神田・教育会館で開催。都内・神奈川・埼玉から約300人が参加。 |
58 | 03 | 02 | 巣立ちゆく原爆学級の子ら すくすく成長 普通の子より成績よい |
58 | 03 | 20 | 長崎県内の小学校で卒業式。長崎市城山小学校でも原爆の子ら36人が卒業。 |
58 | 03 | 30 | 兵庫県伊丹高校の修学旅行生、生徒から集めた被爆者への見舞金5,000円を長崎日日新聞社に届ける。 |
58 | 06 | 17 | 名古屋市の椙山高校3年生230人の女子学生、修学旅行で長崎入りし、原爆病院の入院患者を慰問。 |
58 | 10 | 22 | 高知大学教育学部附属中学校3年生の修学旅行生一行110人、長崎入り。平和公園の祈念像前で黙祷・「原爆許すまじ」合唱の後、被爆者の体験談を聞く。代表10人が原爆病院に折鶴を届ける。 |
58 | 11 | 03 | 京浜女子短期大学附属高校の生徒3人、修学旅行の途中、長崎日日新聞社に原爆病院入院患者あての千羽鶴を寄託。 |
1959 | 06 | 13 | 東京の私立大妻女子高校の修学旅行生約500人、広島市平和記念公園の「原爆の子の像」に千羽鶴を捧げる。 |
59 | 06 | 20 | 長崎県小長井中学1年2組の代表5人、原爆病院への千羽鶴5箱を西日本新聞諌早支局に寄託(「西日本」) |
59 | 07 | 07 | 広島県教組、広島市内で委員会を開催。-8日。8月6日に夏休暇中の児童・生徒を招集し、学校毎に「平和の祈り」を捧げることなどを協議。 |
59 | 07 | 25 | 長野大学附属小学校生徒ら5人、千羽鶴を広島市に送る。映画「千羽鶴」を見たのが契機。 |
59 | 08 | 09 | 長崎市城山小学校、校庭で慰霊祭を挙行。在校生1470人が参列。(「西日本」) |
59 | 08 | 09 | 長崎市純心女子学園演劇部30人、原爆リズム劇「白い雲のかげに」を同校講堂で上演(「西日本」) |
1960 | 04 | 30 | 宮崎西中学校修学旅行団(340人)、千羽鶴を長崎原爆病院の患者に届ける。 |
60 | 08 | 06 | 広島県三次市三次小学校の生徒約30人、広島市平和公園の「原爆の子の像」建立の契機になった佐々木禎子の墓(三次町の専法寺)に千羽鶴を捧げる。 |
67 | 06 | 20 | 広島女学院大学で学生対象に原爆特別講座始まる。テーマ「八月六日の意味するもの」。同大宗教委主催 |
『昭和史を学ぶ高校生たち』(亀井博編著、平和文化 、19900720)
目次
章 | ||
はじめに | ||
刊行によせて | ||
ヒロシマの心いつまでも-継続は力なり | 高橋昭博 | |
広島平和文化センター事業部長 | ||
いまヒロシマは-「ヒロシマ研究旅行」によせて | 植野浩 | |
ヒロシマ学習証言センター世話人代表 | ||
1990年のヒロシマ | 澤野重男 | |
安田女子高校教諭 | ||
1 | ヒロシマ研究旅行 | |
広島の感想/広島に行って感じたこと/広島研究旅行報告/「ヒロシマ」研究旅行を終えて/広島で考えたこと/広島研究旅行を終えて/広島との出会い/ヒロシマは生きている/広島研究旅行と私/広島を訪れて/広島旅行の後/「広島原爆の旅」を終えて/広島から帰って/研究旅行で学んだこと/広島旅行を終えて/「ヒロシマ」を感じて/平和を祈る/広島へ行って | ||
2 | 父母の戦争体験を聞く | |
戦争体験を間く/「戦時中の体験」を聞いて/父母の戦時中記/戦争体験を聞く/母の戦争体験を間く | ||
3 | 戦争加害を考える | |
横浜事件について/日本の戦争加害者としての側面を考える/戦争と女性/「三光」/「特別高等警察」について/朝鮮人強制連行/天皇制/「悪魔」の残した教訓/第七三一部隊について/国防婦人会にみる女性の戦争協力/「南京大虐殺」にみる日本/「大東亜共栄圏」という言葉による加害について/平頂山事件を知って/「沖縄戦」は人間性を奪った/戦争と女性 | ||
4 | 祖父母・父母、そして私の昭和史 | |
わが家の昭和史/私の昭和史/私の父の昭和史/私の祖父母たちの昭和史/私の父母の昭和史/私の祖母の昭和史/私の昭和史/父の昭和史/私の祖母の昭和史/わが家の昭和史/私の昭和史/私の父の昭和史/祖母の昭和史/私の昭和史 | ||
5 | 社会科特別講座「昭和の歴史」にとりくんで | 亀井博 |
5-1 | 学校の紹 | |
5-2 | なぜ「昭和の歴史」という講座を設けたのか | |
5-3 | 「昭和の歴史」講座の内容 | |
5-4 | 生徒の昭和史についての知識 | |
5-5 | なぜ、ヒロシマを選んだのか | |
5-6 | 「ヒロシマ研究旅行」の事前学習としての「原爆学習」 | |
5-7 | ヒロシマでの学習と活動 | |
5-8 | 日本(軍)の戦争加害の問題を考える | |
あとがき | ||
亀井博 | ||
法政大学女子高等学校教諭 |
『こだまするうた 第2集 ヒロシマを語りつぐ高校生』(安田女子高校・社会科学研究部編・刊、19810212 )
目次
はじめに 沢野重男(安田社研部顧問) | |
【詩】41年1月5日(名越操) | |
【連帯のことば 】「木の葉のように焼かれて」編集委員(名越操・久保美津子) | |
<グラビア>白島・いま・むかし | |
第1部 | 安田学園の被爆体験 |
*先生の手記 *先生の談話 *さんの手記 *先生の見た「八月六日」 |
|
第2部 | 「屍の街」の被爆体験 |
わしが「原爆の絵」を描いたわけ (*=東白島町内会長) 親父もおふくろも原爆で死んだ (*=西白島町内会長) 忘れるもんじゃね、苦しみを( **=白島九軒町内会長 ) 長寿園は兵隊さんの死体の山 ( **=白島北町内会長 ) 広島中が燃えてみんさい (*) 原爆で命ひろうてもその後が苦しかった (*) 戦争は絶対にしてはいけません (*) くげんを受けるとはああいうもの (*) |
|
第3部 | こだまするうた―生徒の声 |
「平和の尊さ」 (*) 文樹ちゃんは私たちです (*) 思い出(*) 原爆ドーム (*) 私の三年間(*) |
|
在校生の感想文 | |
第4部 | 資料 |
安田女子高等学校社会科学研究部の歩み | |
安田女子高等学校社会科学研究部こだま会発足について | |
安田女子高等学校社会科学研究部こだま会会則(案) | |
安田女子高等学校社会科学研究部卒業生(こだま会)・在校生名簿 | |
新聞に報道された社研活動の中から | |
あとがき | |
「こだまするうた」第1集目次 | |
<まえがき> 「こだまするうた」ができるまで | |
<聞きとり調査について> | |
<聞きがき> 白島の被爆者に聞く | |
1 Aさん 若い世代へ 2 Iさん まるで木の葉のように 3 K・Iさん 夫はいまも見つからない 4 T・Iさん 長寿園の黒い雨 5 Oさん これ以上私たちのような被爆者をつくらないで 6 Kさん 平和な生活がいちばん 7 S・Tさん 夫をさがしもとめた日々 8 Tさん 灰色の世界 9 Fさん 一日も早く援護法を 10 Hさん 今も原爆症の不安 11 Yさん 碑文の心のように 12 A・Yさん 家内は布団ごと飛ばされた |
|
<こだま―1976年のクラブ活動と社研部員の声> | |
<あとがきにかえて> 社研顧問のまとめ | |
『空白の学籍簿 1979』(翠町中生徒会報告書編集委員会編、広島市立翠町中学校生徒会、19800110)
目次
章節 | |
はじめに | |
「生徒会執行委員長」 | |
「学校長」 | |
1 | 学校の歴史から学ぶ |
1-1 | 軍都広島の歩みとともに |
1-2 | 祖先の人たちの生活 |
1-3 | 第三高等小学校の誕生 |
1-4 | 8月6日前後のようす |
1-5 | 満蒙開拓青少年義勇軍 |
2 | 慰霊塔と構内慰霊祭 |
2-1 | 第三国民学校慰霊塔 |
2-2 | 構内慰霊祭 |
3 | 第三国民学校の被爆実態を明らかにする運動 |
3-1 | 運動の起り |
3-2 | 昭和53年度の運動経過 |
3-3 | 昭和54年度の運動経過 |
4 | 被爆の実態 |
4-1 | 被爆当日の状況 |
4-2 | 生存者の証言 |
4-3 | 生存同期生の座談会 |
4-4 | 遺族の証言 |
4-5 | 市立第二高等女学校について |
4-6 | 韓国人生徒の犠牲について |
5 | 生徒の感想 |
5-1 | 昭和52年度生徒会長 |
5-2 | 本年度生の感想 |
第三国民学校被爆死生徒名簿 | |
第三国民学校被爆死職員名簿 | |
広島市立第二高等女学校被爆死生徒名簿 | |
広島市立第二高等女学校被爆死職員名簿 | |
おわりに 竹内***(第三国民学校の被爆実態を明らかにする運動推進委員会委員長) | |
報告書編集委員 生徒(4名氏名) | |
職員:坪井直・空辰男・切明春子・砂小田秀春・松島圭次郎・松井久治 |
『21世紀への平和と創造 摩擦を乗り越えて、若者へのメッセージ』(嶋矢志郎編著、溪水社、19980707)
目次
発刊に寄せて | 田中隆荘(広島市立大学学長) | ||
Ⅰ | 21世紀の平和と創造的多様性-摩擦を乗り越えて、若者へのメッセージ | ||
Ⅰ-1 | 基調講演:新しい「始まり」へ向けて―21世紀への助走 | ||
シモン・ペレス(イスラエル前首相) | |||
(1)日本の成功は未来への道標 (2)イスラエルと日本とロシアと (3)中東の和平構築への道 (4)新しい「始まり」へ教育投資を | |||
Ⅰ-2 | パネル・ディスカッション:創造的多様性を求めてー摩擦の克服へ | ||
(コーディネーター) | 嶋矢志郎嶋矢志郎(広島市立大学国際学部教授) | ||
(1)苦しみを知る国に希望 | 大江健三郎(作家) | ||
(2)憎悪を克服して核廃絶を | 平岡敬(広島市長) | ||
(3)核疑惑に抑止力効果を期待 | |||
(4)狂気を許さぬ正気の核管理を | |||
(5)力点を戦争から経済・教育へ | |||
Ⅰ-3 | 質疑応答 | ||
日本は中東和平へ経済と教育で貢献 | |||
(1)心の中にマンデラが生きている | |||
(2)政治と宗教は区別すべきもの | |||
(3)戦争を望む者は一人もいない | |||
(4)人の心の中に平和の砦を | |||
Ⅱ | 21 世紀の平和秩序を求めて一国連と日本の役割- | ||
Ⅱ-1 | 講演 | ||
前国連事務次長.広島市立大学広島平和研究所所長明石康 | |||
(1)過去への正しい評価と反省 | |||
(2)混沌の渦中で未来に期待 | |||
(3〕日本の国連.平和主義の壁 | |||
(4)増大するNGO の活躍の場 |
|||
(5)国連の強化で国際社会を進化 | |||
(6)総合安全保障へ多彩な創意 | |||
(7)文化相対主義の国際観を | |||
Ⅱ-2 | 質疑応答 | ||
国際社会が日本に期待する平和貢献の役割 | |||
(1)人権と人道、並行的に第三の道で | |||
(2)民主化支援は自力更生の手助け | |||
(3)世界連邦への土台づくりが先決 | |||
(4)アジアの信頼醸成は二一世紀の課題 | |||
(5)日本人の国際公務員採用枠は広き門 | |||
Ⅲ | 「平和」概念の位相とパラダイム転換 | ||
嶋矢志郎(広島市立大学教授) | |||
Ⅲ-1 | 「平和」概念の位相と変容 | ||
(1)失って初めて知る平和価値 | |||
(2)絶対平和と相対平和のはざま | |||
(3)改革と統一による平和の功罪 | |||
(4)軍縮による平和の限界 | |||
(5)道義による平和への期待 | |||
(6)東西で異なる語源の本義 | |||
(7)「神前法後」と「法前仏後」の違い | |||
Ⅲ-2 | 「平和」思想のパラダイム転換へ向けて | ||
(1〕生き残りへ基軸文明の転換を | |||
(2)人類を惑わした西欧型の平和観1 | |||
(3)無差別大量殺戮への麻痺 | |||
(4)進化しない世界恒久平和への歩み | |||
(5)世界に広がるバルカン化の風 | |||
(6)危機脱出へ地球的な統合と再生 | |||
Ⅳ | 付録 | ||
Ⅳ-1 | ペレス氏のスピーチ(英文) | ||
Ⅳ-2 | 用語解説 | ||
あとがき |