敗戦の記憶―身体・文化・物語

五十嵐惠邦 中央公論新社 2007.12.20

<「原爆文献2007


戦争体験と敗戦の衝撃がもたらした記憶が、戦後日本における各種の文化のなかでいかに表現され物語られ、同時に、受け入れやすいように修正され抑圧されていったのかを検証した、非常におもしろい学術本である。特に、日本人の「身体」にかかわる歴史の推移や大衆文化に見られる表象の解読の作業に、力点がおかれている。
原爆という未知のショックをうけ敗戦に至ったという傷の深さは、昭和天皇とマッカーサーが主演する日米合作の「メロ・ドラマ」のなかでどのように日本国民が納得のできる物語へと転換されていったのか、その「起源の物語」の成立事情の確認から本論が始まる。ついで、日本人の身体が戦時下の苛酷な統制から自由になったあと、戦後、しばし自己の「肉体」に直接的に向き合いその解放感を享受しようとしたが、しかし新たな「民主化」「医療化」の言説と制度のなかで再び特定の型(「清潔」な身体)にはめられていく過程を追跡していく。それから、加藤周一や丸山真男らによる、日本人の「雑種性」や「中間性」を強調する日本人論を再検討しながら、論者ごとの価値観は違うとしても、そこには戦後の日本と欧米の関係を、日本にとっての被害者であったアジアを抜きにして理論化(合理化)しようとする志向性がいずれにせよ存在していたことを指摘していく。これに関連して、小島信夫と大江健三郎の小説も分析される。
さらに、『君の名は』、『ゴジラ』、力道山、という、一世を風靡した映画やヒーロー(ヒロイン)たちに託されていた直近の戦争に対する評価をめぐるジレンマを問い直し、安保闘争と東京オリンピックにおける「東洋の魔女」たちの活躍による盛り上がりの背後にあった、戦時下の記憶の活性化と忘却の両面性を再発見し、そして、野坂昭如と三島由紀夫の文学が彼らの痛烈な戦争体験を、リアルに描こうとして、しかしおおよそ失敗していくという困難さを解読していく。敗戦のトラウマは、戦後日本の文化史において何度も見つめ直され、問題化されたのにもかかわらず、時がすぎ国民の生活が安定し「健康」になっていくのにしたがって、ますます身をもっては実感されがたくなっていったのであった。
最後に、小林よしのりの『戦争論』と加藤典洋の『敗戦後論』が批判的に言及され、戦争の経験(の記憶)が戦後社会において再編成されていった様をもっと具体的に考えておかないと、現代において戦争を適格に論じることはできないだろうと釘を刺す。本書でなされた微細な歴史社会学の成果を踏まえた上での堅実な批判なので、これはなかなか説得力があった。

http://book.asahi.com/review/TKY200802120158.html

書評

敗戦の記憶身体・文化・物語 19451970 []五十嵐惠邦

[掲載]20080210
[
評者]巽孝之(慶應大学教授・アメリカ文学)

編み出された「物語」と戦後

 著者は60年大阪生まれ、現在は米国バンダービルト大学歴史学部準教授。本書は2000年にプリンストン大学より出版された著書の邦訳。

 敗戦研究といえば、わが国でも加藤典洋らの仕事があるが、著者もまた、原爆投下と天皇制存続という不可能な取り合わせがいかに連動するに至ったのかを、膨大な史料をもとに再検討する。たしかに、原爆投下が日本にとって明らかな悪でも、アメリカにとっては平和をもたらす手段だったという国民的総意のちがいは、まず埋めがたい。にもかかわらず、戦後の歴史へ一定の連続性を与えようと、日米は力を合わせ、天皇の戦争責任を問わぬまま日本を民主国家へ改造するため、「天皇の聖断による終戦」という、誰にもわかりやすい「物語」を編み出した。その影響で、あるいはそれを批判しようと、戦後日本の文学や文化一般が物語られるようになったことを証明するのに、丸山真男や三島由紀夫、大江健三郎からゴジラまでが射程に入る。

 とりわけ、体育会系の著者らしいスポーツ論のうちでも、アメリカ製ゲームを再利用したプロレスラー力道山の必殺技「空手チョップ」をめぐる分析の切れ味は凄(すさ)まじく、誰もがノックアウトされることだろう。