『原爆被災資料総目録』第1集

原爆被災資料広島研究会、1969年8月6日

1969年8月6日刊

序文

 原爆被災の実態は、その様相そのもの、その体験そのものしか語り尽くすことはできない。しかし、そのことが不可能な限り、われわれはそれを関係賃料によって語り明かし、語りつぐほかはない。

 人類はあの阿修羅の所業をあえてしたにもかかわらず、なおその罪悪にはめざめていない。めざめていないばかりか、重ねてそうした恥辱行為をくり返すことによって、人類を自滅にみちびこうとさえしている。

 しかし、人類はその悪業にめざめなければならないし、その可能性を信じ合わなければならない。原爆被災資料はそうした人類への警告であり、戒律である。そうして、この資料こそは人類の栄誉と発展のために活用されなければならない貴重な経験財である。

 原爆被災の証しとして、その関係資料の収集と保存が二、三有志の手によって始められたのは被爆直後からであった。そのことがなかったなら平和記念資料館(原爆資料館)も各個人収蔵も成立しなかったに違いない。

 原爆被災資料広島研究会が結成されたのは昭和43年2月であるが、その準備活動はすで・に早くから進められていたのであって、その発足をいつと定めることは困難である。けれども、この研究会が結成されたことによって、最終的lこ原爆資料収蔵者と研究者の力を結集することができたのは大きな喜びであった。そうして、この研究会の事業としてここに刊行を企てられたのが、”原爆被災資料総目録・第1集”である。

 今回の目録は「慰霊碑」「遺跡」「遺品」「美術(絵画)」「文学」「放送(NHK)]の6部門にわたっているが、さらに第2集は「芸能」「放送(民間放送)」「写真」「手記」「原爆戦災誌(各種団体)」の5部門はやがてその日を期して刊行される予定であるが、なお第3集以下も続刊の用意がすすめられている。

 この目録の整備と作製のために、会員有志の被爆以来今日まで払ってきた労苦は筆舌に尽し難いものがある。ねがわくは、この目録が広島・長崎の原体験をかえりみるための無上の案内書となり、世界平和確立のための絶対の核力となることに力を分かっていただきたい。そのことを期待してやまない。

昭和44年8月

原爆被災資料広島研究会委員長 
田淵 実夫 


原爆慰霊碑

まえがき

 昭和20年8月6日広島へ原爆が投下されてからもう24年を経過した。市内の各学校各職場や各町々の生き残った被爆者達は吾が子、吾が親、吾が友垣らへの忘れ得ぬ悲しみの為めに、ゆかりの各所に慰霊碑が年々建てられている。本会はこれらの碑を調査し、そこに眠れる霊を慰める為めに毎年遺族の有志と共に市内慰霊碑巡礼を行っている。

 各慰霊碑に刻まれている碑文は広島市民がこの尊い犠牲を無にしない為めに、世界の人々への悲痛な訴えであると共に、世界平和への祈りである。

原爆資料保存会長 
横田 工 


原爆遺跡

まえがき

(1)原爆遺跡保存の意義

 人類の過ちを再び繰返へさぬ為の被災資料保存は今日各方面で色々の角度から調査研究されて居るが未だ着目されていない面で原爆遺跡の保存がある。勿論今迄原爆ドームや住友銀行の「人の影」は多くの人に認識され永久保存の術が施されているが、これ以外にも広島市内lこは数多くの遺跡がある。これ等は無造作に廃棄されたり補修改造されたりして一つ一つ失なわれつつある現状である。依って是等の貴重なる遺跡を早急調査発掘し、その重要なるものは永久保存の術を講ずることが大切であると共に現時点に生きている市民の義務でもある。

(2)遺跡の種類と範囲

 A 原爆の威力に耐えて辛うじて原形を保ったもの(原存)
 B 原形が全壊、全焼して不燃焼の墓石や礎石のみ残ったもの(残存)
 C 熱線・爆風のため傷痕のみ残ったもの(傷存)
 D 爆心地より3キロメートル以内で生残った老樹(生存)

(3)遺跡の保存方法

 A 公共物、私物すべての所有者が原爆遺跡の公的価値を認識して、出来るだけその保存の術を施すこと。
 B 遺跡は被爆当時そのままが価値があるので補修、改造、復元をしないこと、全部でなくとも一部だけでも保存すること。
 C 遺跡保存委員会を作り遺跡の調査、認定を決定し、各遺跡に標札を立てること。
 D 全市の追跡の配置図、遺跡写真を編集して一般の認識を広める二と。

山崎与三郎


物品資料

まえがき

 この目録に収められた多数の物品資料は、昭和20年8月6日の朝広島市が受けた未曾有の核兵器被害の諸状況を如実に物語り、永く将来に向かってこの史実を確実に伝承せしめるとともに、世界の人々に対し平和の如何に大切なものであるかを説き続ける強い力と重大な使命を帯びたものであります。

 あの朝の8時15分を指し続けている無言の時計、流血損傷してボロボロとなった学徒隊員たちの質素な制服、黒い雨の垂跡を残す白壁、軽石のようになった瓦や硯石など、どの品物一つでも、人類が再び遭遇することがあってはならないあの日の広島の惨劇を鮮烈に立証し続けていくことでしょう。

 館に収蔵・展示されている幾多の資料品は、あの空前の大戦災を乗り越えてきた多くの市民の方たちが寄せられた品々の集大成であり、それぞれの品物についての悲痛な追憶は、正確詳細に記録にとどめられています。これ以外に、この原爆戦災を体験された多くの家庭で、記念のために保存せられている品々も大量のものがありましょう。また広島市内の被災地域の地中や河底に埋もれたままのものも、おびただしいことと思われます。

 ともあれ、世界の人々が今後も広島の被った核兵器による惨禍を常に身近なものに考え、真剣にこれが絶滅を期していく上に、これら物的資料ほど強烈な心のよりどころとなるものはありません。資料目録の意義もまた大切なものがあると考えられます。

広島平和記念資料館長
森弘助治

目次
1.衣服類、2.瓶類、3.硯石類、4.証明書・証券類、5.人骨類、6.貨幣類、7.銃・刀剣類、8.釘・縫針類、9.家庭用品類、10.身辺用品類、11.時計類、12.その他、13.植物類、14.岩石類、15.瓦類


遺品

まえがき

(1)被災資料の収集経過

*昭和20年8月6日(1945年)史上初の原子爆弾投下に依り広島市は一瞬にして焼土と化した。当時広島市の嘱托であった長岡省吾氏はこの大事件の重要性を感知し、市の公民館の一部に設けられた原爆資料館の館長となり、苦難に堪へながら収集に努力してこられた。同氏のこの尊い事業を市民の有志が集まり援助することにした。これが現在の原爆資料保存会(民間団体)の前哨である。この目録に列記してある資料のほとんどはその当時に集められたものです。

*昭和31年平和公園に平和記念資料館が完成し、長岡省吾氏は初代館長となられ、資料を学術的に分類して陳列された。この資料の中には被爆者自身から或は被爆者の遺族から提供せられ、被爆者が着用または使用して居られたものも数多くある。現在保存会所有の資料は約2000点で資料館内に陳列してある。

(2)被災資料の種類

*遺品遺物は多種多様のものがあるが便宜上形態の上から分類して(1)人骨(2)衣類(3)器物(4)植物(5)岩石(6)瓦類の6種類にまとめて列記し、箇々の品目は名称収集場所説明寄贈者氏名の欄を設けて記載し将来学術的研究の便宜を考慮した、表中二次的火災とあるは爆発後市中が大火災となりその燃焼の為変形変質したものの意味である。

原爆資料保存会長  横田 工

目次

1.人骨、2.衣類、3.器物、4.植物、5.岩石、6.瓦類

備考

 この目録は原爆資料保存会が保管している原爆資料目録台帳と資料目録カードに拠り調査したものである。


放送(NHK)

まえがき

 広島中央放送局に保存している原爆資料としては、放送番組表(昭和22年8月以降)図書、新聞、録音、フィルム、写真等がある。これらは原爆資料として別に分類項目をたてて収蔵している。

 放送番組表は昭和3年の開局以来40年間のすべての日々の放送番組表が保存されているが、被爆後の2か月分は残っていない。広島局として、番組発表の際、原爆関連の内容としていま確認されているのは昭和22年8月5日の逓信病院長、蜂谷道彦氏のものが最初であるがその時の原稿、録音は保存されていない。

 放送番組表の放送内容には広島のみならず長崎放送局と東京その他の放送局から放送されたぶんも含んでいる。

広島中央放送局放送業務課長
荒井義雄


美術(絵画)

まえがき

 原爆被災の画と云っても、記録画専門の画家が描いた訳ではない。被爆は予期せず突然な出来事だから、当時生き残った画家・作画の上手な人々、それも市内外におった作家が未曾有の惨事だから、作画して置こうと云う気持で描かれたものが殆んである。

 画家の中には、これは絵画としても芸術的要素があるとして、多くの大作を作られた画家も相当にある。原爆画と云っても作者によって、多少の目的と精神を通して描いたものであるから、そのモチーフも技術も各々異って、特徴を持っている。この点において、作者の如何をとわず、保存されることは後の世までも有益なことと思う。そして、何等かの機会に社会人に鑑賞されることも必要であろう。

 本調査は原爆被災資料広島研究会のすすめによって交渉した各氏の回答によってありのままを編集した。まだ予備調査の段階にあるもので、今後とも追加補足したいと思っている。

大木 茂


文学

まえがき

 原爆は人間の周辺に崩壊と変貌を与えた。その特質は、空前の恐怖とか、呪いとか、絶望、怒りと共に清冽にして厳しい平和への願いを伴っていることである。

 文学が、人間の感情や情緒を対象とするかぎり、たとえ局地的に起った原爆被災といえども,その著しく反人間的行為のゆえに、被爆者の苦悩の体験は普遍化の様相を帯びている。今日までに公刊された小説、現代詩、短歌、俳句、を読むと、この事実を知ることができ、ここに訴えられている魂の記録に、われわれは襟を正さざるをえない。そして、原爆被災の惨禍を究明するためには、社会科学や自然科学の部門と共に、直接魂に触れた文学部門を無視してはならないことを、実感として受けとめるのである。

 このたび、被災資料文学篇を纏めるに当って感じたことは、先ず数量の夥しいことである。さらに、その文学的価値の高いことであり、これら個々の作品または作品集を散逸させてはならないということであった。一古雑誌の一隅に載せられた一篇の俳句からは、死を眼前に控えた原爆患者の赤裸々な人間性が,原爆病院を背景に汲みとれるし、長い間顧みられなかった不遇な詩人の詩集から、平和式典の虚飾をついて、平和のリアリティを追求した作品を発見し、今更らのようにこれらすべての労作を、峠三吉のいうように、人がこの世にあるかぎり、語り伝えられてゆかねばならない責任を感しることであった。

 そのような意味において、ここに文学篇のリストを系統的に整備する機会をえたことは喜びにたえない。振りかえると、この仕事を始めてから既に2年半になるが、この間に幾度か構想を改め、書き直した。その都度関係者各位の強いご協力がなかったならば、この資料集は完成できなかったかもしれない。末尾になったが、ここにその方々の氏名を記して深甚の感謝を表明する。

松元寛氏(小説の部)、栗原貞子氏(詩の部)、山本康夫氏、豊田青史氏、深川宗俊氏(短歌の部)、鳴沢花軒氏、佐々信一郎氏(俳句の部)、松永信一氏、大槻和夫氏(児童文学,校友会誌の部)

大原 三八雄

もくじ
小説、詩、短歌、俳句、児童文学、校友会誌


あとがき

 原爆被災質料の総目録は、ただ単なる記録であるばかりでなく、それは「ひろしま」の傷痕のもっとも鮮明な軌跡であります。各部門の目録を一瞥しても、あるときには逼塞して声を絶つかと思えば、またあるときには平和の原動力として人びとの心をふるい立たせていることがわかります。

 こうした総目録はすでに久しく人びとの渇望していたものではありますが、しかしいざ作るとなると気も遠くなるような困難や、いくたの障害をのりこえなけれぱなりません。時の流れの早い侵蝕によって、原爆被災資料はすでに姿を消したもの、またその所在の不明なものがかず多くあります。今ここで手をこまぬいておれぱ、その作業はますます困難を増すぱかりてす。早くから原爆に深い関心を持ちつづけた人たちが、期せずしてこのことに心をいため、今日まで知り得た知識と能力のかぎりを尽して、ともかくここに第一集を刊行するはこびとなりました。

 これまでとかく、群盲が象をなぞるように、原爆被災の全体像については無知のおそれを抱かずに語ることはできませんでした。しかし、総目録によってはじめて原爆の全貌を見きわめることが可能となったのです。このことの意義は測り知れないものがあります。もとより、このたびの目録が完全なものでないことは私たちがいちぱんよく知っています。しかし事ははじめなければなりません。これを土台にして、こんご皆さまの協力と努力とによって、より完壁なものの作成へと志向しています。今回の収録はいちおう昭和43年12月までに限定しました。その後もまた、原爆の記録はつぎつぎと発表されています。この水脈の絶えないかぎり、人びとの平和への願いもまた消えないものと心強く感じ、委員一同ひそかに自負しながらここにこの目録を世におくるものであります。

総目録第1集編集委員会

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