プレスコードと原爆被害


原爆タブー

 広島文理科大学哲学科の学生大村英幸は、原爆被爆の前日、郷里に戻っており、難を免れた。しかし、当日広島に入り3日間ぐらい市内を歩き回ったことが災いし、彼は、9月に頭髪のほとんどを失い、しばらく郷里で寝込むこととなった。健康を回復した彼が行ったことは、広島青年文化連盟の結成であった。彼は、広島市内を歩き回ったとき、ノートを持参し、市内の被災状況を描いていた。被爆体験を残そう、というのは、被爆直後からの彼の願いであり、彼は、連盟の結成にその願いも込めていた(渡辺力人・田川時彦・増岡敏彦『占領下の広島』日曜舎、1995年)。

 広島青年文化連盟は、1945(昭和20)年12月に結成、46年2月には、市内の学校で山代巴を講師として初の講演会を開催した。山代は、講師依頼に訪ねて来た大村に、アメリカ軍の2世の将校から、原爆を批判すると沖縄送りにすると言われたことを伝えた。それに対し、大村は、「プレスコードで発表を禁じられていても、体験したことを書き残すことはできる。こわれた瓦のかけらでも、ぐにゃぐにゃに溶けてかたまったガラスの瓶でも、取ってかくしておくことはできる。誰にでもできるそういうことから始めようとしているんです」と語ったという(山代巴『原爆に生きて』径書房、1991年)。

 青年文化連盟は、講演会のほか、音楽会や演劇、機関紙の出版など、多彩な活動を展開した。しかし、こうした活動の中で、原爆の被害の状況を伝えることはできなかった。彼らが作った演劇シナリオの原爆に関係する部分は、プレスコード違反ということで全部削られてしまったのである(『占領下の広島』)。

 大田洋子と原民喜は戦時中すでに中央の文壇で知られていた作家であるが,郷里の広島に疎開中,原爆に被爆した.大田は, 1945年中に疎開先の広島県内の山村で小説『屍の街』を書きあげ,それを中央公論社へ送った.しかし,プレス・コードを恐れた編集者は,すぐに出版することをためらい,3年後の48年10月にかなりの自主削除をおこなった上で出版している(江刺昭子『草饐―評伝大田洋子』).

 一方,原も,小説『原子爆弾』を同年中に書いている.この原稿は,『近代文学』同人へ送付されたが,同誌には掲載されず,1947年6月になってやっと『三田文学』に「夏の花」と改題して掲載された(仲程昌徳『原民喜ノート』).

 美川きよは,自身の被爆体験はないが,甥を広島で失っていた.それをモデルに書きあげたと思われる小説「あの日のこと」は,『女性公論』1946年7月号に掲載予定であったが,検閲により,全文削除を指示された(『朝日ジャーナル』1982年8月6日号).

 プレス・コードは,広島・長崎の地域的な営みにもその影を落としている.1945年12月17日,広島近郊の国民学校で栗原唯一・貞子夫妻を中心に中国文化連盟が結成された.細田民樹・畑耕一を顧問とするこの連盟は,翌46年,「中国文化人追悼大会」という名目で原爆犠牲者追悼大会を開催し,参加者150人が慰霊と平和の誓いをたてた.同連盟は,46年3月機関誌『中国文化』を「原子爆弾特輯号」と銘打って創刊し,八月には栗原貞子の詩集『黒いたまご』(原爆詩「生ましめんかな」を収録)を出版している.『中国文化』の発行人であった栗原唯一は呉市にあった米軍民間情報部に呼びだされ,「原爆の惨禍が原爆以後もなお続いているというような表現は,いかなる意味でも書いてはならない」と厳重に言い渡されている(栗原貞子『「中国文化」原子爆弾特集号・復刻』,『黒い卵―占領下検閲と反戦・原爆詩歌集』).

 広島の歌人正田篠枝は,1946年1月,かねて師事していた山隅衛(歌誌『晩鐘』主宰)を訪ね,自分の原爆歌集への序文を依頼したが,断られた.しかし,彼女の歌39首は,杉浦翠子が軽井沢で発行していた『不死鳥』の第7号(日本降伏一周年記念号)に「噫!原子爆弾」と題して掲載され,彼女自身,占領軍の処罰を覚悟で47年12月に原爆歌集『さんげ』(「噫!原子爆弾」など99首を収録)を自家出版した.彼女は出版の動機を原爆のため「即死され,またあとから亡くなられたひとを,とむらうつもり,生き残った嘆き悲しみ,苦しんでいる人を,慰めるつもり」であったと書いている(水田九八二郎『目をあけば修羅』).

 長崎でも1947年3月に被爆体験記『雅子斃れず』のゲラが検閲に提出されたが,出版許可が降りるのは49年のことである(『図書館雑誌』1976年6月号).

 GHQのプレス・コード(1945年9月19日指令)にもとづく検閲は、原爆に関する調査・研究の成果が世に出ることを妨げた。

 1945年10月24日,アメリカ軍は,日本学術研究会議の原爆調査班と連携して原爆映画を制作中であった日本映画社の長崎での撮影を中止させた(加納竜一・水野肇『ヒロシマ二十年』).また,11月30日に開催された学研の報告会において,GHQ科学課のケリーとアレンは,「今後ノ調査研究ニ関シテハ凡テ連合国軍当局ノ許可ヲ必要トスベキ旨」を通達,つづいてGHQは,調査研究の成果については,「座談会,研究会等ニテ口頭ヲ以テスル発表ハ別段差支ヘ」ないが,「学術論文報告類ノ印刷ニ就テハ(中略)米国側ノ正式発表(明春一,二月ニナル見込)迄ハ取リ辞メル」よう指示した(仁科記念財団編『原子爆弾』).日本人による原爆被害研究成果の公刊については,その後,GHQ内部で種々検討されたが,禁止が初めて解除されるのは,1949年1月のことである(Monika  Braw “THE ATOMIC SUPPRESSED ”)

 永井隆(長崎医科大学助教授・物理療法科長)は,1945年6月,白血病となり,余命3年と診断された.彼は,原爆爆心地に位置する同大学で原爆に被爆し,右側頭動脈を切断したが,出血を押して救護活動に従事した.また,8月12日から9月20日に出血多量で倒れるまで,三山町に救護班を設けて225人の原爆傷病者の救護にあたった.彼は,その模様を「原子爆弾救護報告」としてまとめ,同年10月大学に提出した(片岡弥吉『永井隆の生涯』,朝日新聞社編『長崎医大原子爆弾救護報告』)。

 この報告書は,もともと医学者である彼が,著述で身をたてるきっかけとなった.46年春,床に就いたままの彼に,報告書を読んだ長崎新聞社から原爆についての書物の執筆依頼があった.彼は,その依頼に対し,「爆心地に居合わせて生残った者は少い.その中で,体験記を書ける文化人はごく僅かである.しかも原子医学をかねて研究していた者といえば,ほかにはない」と考えた.そして彼は,「真相を記録にとどめること」および「戦争を起さぬように叫ぶこと」の二つの目的をもって執筆に取りかかり,それを同年8月に脱稿した(永井隆『花咲く丘』).

 「原子時代の開幕」と題するその原稿の出版は,1946年12月に解散した長崎新聞社に替わり,東京タイムズ社長式場隆三郎らにより企画され,翌47年に入るとGHQとの折衝がおこなわれた.しかし,GHQは,「アメリカへの敵意をかりたてる」との理由でこの本の出版に許可を与えなかった(モニカ・ブラウ前掲書).

 このほか,国鉄広島鉄道局広島管理部文化機関誌『暁笛』第2・3合併号(1946年7月発行)に掲載された詩「広島の一本の老樹の下で」,『長崎文学』復刊第3号(46年7月)の短歌3首,浜根汽船株式会社出版部(尾道)発行『瀬戸内海』46年8月号の山本康夫の体験記「原子爆弾のころ」,広島の孔版雑誌『太玄』の「広島戦災一周年記念号」(46年10月),長崎・佐々青年団社会部発行の『暁天』47年11・12月号の詩「浦上懐古」は,いずれも「直接にせよ間接にせよ公安を妨ぐる様な記事」(プレス・コードの第2項)として,事後検閲にひっかかっている(「ゴードン・W・プランゲ・文庫」のマイクロ・フィルム版による).


永井隆ブーム

 しかし、1948年の後半以降、原爆被害に関する表現が、さまざまな形で社会に紹介されるようになった。その背景には、検閲の姿勢の変化があった。

 式場隆三郎は,永井隆の原爆被害に関する著作が出る前に永井を世間に紹介するため,1947年1月,東京タイムズ紙上に永井の随筆「原子病患者の手記」を掲載した.これが縁で永井はいろいろな雑誌から随筆を依頼されるようになった(永井『花咲く丘』).また,同年7月には,小倉のアメリカ第8軍が,我が身を実験台に原子病の究明に励む永井の苦闘を紹介した.これを全国の新聞がとりあげたので,彼の存在は多くの人々に知られるところとなった.

 永井は1948年には,6月『ロザリオの鎖』(ロマンス社),9月『この子を残して』(大日本雄弁会講談社),10月『亡びぬものを』(長崎日日新聞社),11月『生命の河―原子病の話』(日比谷出版社)とつぎつぎに本を出版した.彼の最初の著作である「原子時代の開幕」も,関係者の度重なる努力の結果,49年1月,『長崎の鐘』と改題して出版された.この本の後半には,「マニラの悲劇」(日本軍が戦争中にフィリッピンでおこなった残虐な行為の解説書)が付されているが,これは,48年3月にGHQのウィロビーが,刊行許可の条件として提示したものである(モニカ・ブラウ前掲書).

 永井の本は,いづれも高い世評を得た.同年の読売新聞社主催の読書祭では,『この子を残して』が投票数44488票のうち22153票を獲得して良書ベスト・テンの第1位となるとともに,『ロザリオの鎖』も第4位(2684票)になっている(『長崎日日新聞』1948年11月22日).

 また,日本出版配給会社49年上半期のベスト・セラーズ調査によれば,1位『この子を残して』(30万),3位『長崎の鐘』(10万),5位『ロザリオの鎖』(7万),8位『生命の河』(4万)となっている(『週間朝日』49年6月12日).彼はその後も『花咲く丘』(日比谷出版社),『いとし子よ』(大日本雄弁会講談社)などを出版し,彼の著作は,死(51年5月1日)後の編著もあわせて14、5種におよんでいる(片岡前掲書).

 永井ブームは,1949年には,出版界から演劇・音楽・映画の世界にも波及した.東京都内の劇場バラ座は,新劇「長崎の鐘」を3月に上演,4月以降大阪公演を皮切りに西日本を巡演した.4月,コロンビア・レコードは,サトウ・ハチロウ作詞・古関裕而作曲・藤山一郎歌で「長崎の鐘」を制作した.また,8月には松竹が「長崎の鐘」の映画化を決定,翌50年5月シナリオ作成に着手し7月末から8月初めに長崎でのロケを経て,9月に完成させている(『長崎日日新聞』による).

 出版が差し止められていた『長崎原子爆弾記・雅子斃れず』(婦人タイムス社)も、1949年2月に出版された。また、学術研究会議の調査結果も、1949年1月には機密扱いが解除された(モニカ・ブラウ『検閲』時事通信社、1988年)。


原爆文学・体験記

 1949年の読書界の最大の話題は「記録文学の流行」であったといわれる(『日本読書新聞』1949年11月2日号).48年に起こった永井隆ブームはそのはしりともいえるものであるが,ベスト・セラーズにあげられる「ヒロシマもの」としては,大田洋子『屍の街』(中央公論社 48年10月),小倉豊文『絶後の記録』(中央社 48年11月),原民喜『夏の花』(能楽書林 49年2月),今村得之・大森実『ヒロシマの緑の芽』(世界文学社 49年3月)があった(『週間朝日』49年6月12日号).

 また,東京の出版社によるものとしては最初の原爆体験記集である『天よりの大いなる声』(東京トリビューン社 1949年4月)の初版は,広島地区だけで旬日にして売りつくされている(『天よりの声』).このほか,『雄鶏通信』が49年8月と10月に「特選記録文学」と銘打った臨時増刊号を発行しているが,8月には玉井礼子の「私はヒロシマにいた」を,10月には星野春雄の「その日の広島女高師」を掲載している.また,『週間朝日』四九年八月十四日号は,長崎の被爆者安部和枝の原爆体験記「小さき十字架を負いて」を掲載しているが,これは,同誌が募集した「記録文学」の入選作である.

 さらに,ジョン・ハーシーの1946年の広島ルポが、49年4月法政大学出版局より翻訳・出版されている.以上のような出版状況は,49年には,出版界における原爆タブーが打ち破られていることを示すものであろう.

 1950年に入ると,原爆の残虐性を真正面から取りあげるものや,アメリカの新たな原爆使用の阻止を訴える出版物も現れるようになる.前畠宗俊編『反戦詩歌集 第一集』(反戦詩歌人集団準備会 5月),中村武雄編『ヒロシマを忘れるな』(自由青年出版社 8月),平和を守る会編『丸木位里・赤松俊子 ピカドン』(ポツダム書店 8月),且原純夫編『われらの詩 第八号』(われらの詩の会 8月),ハーマン・ハゲドーン『アメリカに落ちた爆弾』(法政大学出版局 12月)などはその代表的なものである.

 プレス・コードは,以上のように確かに原爆被害を描き伝えることの障害となった.しかし,原爆について語ることが全面的に禁止されていたわけではないし,また,プレス・コードがすべての出版をカバーできたわけでもない.前述の正田の歌集の出版は,検閲の網の外でなされたものである.また,原爆被災資料広島研究会の調査によれば,1945年から46年までに570点の原爆文献(雑誌・単行本)が確認されている(同会編『原爆被災資料総目録 第四集 占領期文献』).

参考資料

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