ソ連が始めて原爆実験を行ったのは1949年8月のことであるが、その場所がカザフ共和国のセミパラチンスクであった。
1949年から約40年間に500回の核実験(うち大気圏内で100回、1965年から地下実験に移行)
1988年3月、核実験に反対する住民団体が生まれる。89年から抗議行動が始まる。
1990年5月、カザフ共和国の首都アルマアタ市で開催された核実験禁止国際市民会議に出席した横路謙次郎広島大学原医研教授らが、セミパラチンスクの医療事情を知り、現地の医師研究者を招くことを計画。
同年11月12日、ボリス・グシェフ・ソ連セミパラチンスク放射線医学研究所所長(52才)とアーキン・ベイゼンバエフ・パブロダール臨床免疫学センター科学部長(40才)の二人が、市民団体(代表:佐藤幸男)の招きで放射線医療の研修のため広島入り。
1991年4月、放射線被曝者医療国際協力推進協議会が広島に組織され、海外の被曝者医療に従事する医師・医学研究者の研修が始まるが、二人の招待研修は、その「はしり」といえる。
番組では、広島での8日間の二人の発言と行動に、反核行動に立ち上がったセミパラチンスクの人々の映像を交えながら、ソ連核実験場周辺の放射線被害者の実情を明らかにする。
軍事機密からチェルノブイリの影に隠れていたセミパラの被害が、二人の研究者の口から次々に明らかにされる。
数字の多用で理解が難しい。
1990年5月1日にRCCが「ヒロシマとナガサキ−セミパラチンスクとの対話」を放映
1995.6.16
1989年、「ネバダ・セミパラチンスク運動」結成
1990年5月、「ポリゴン・ジョイスン(核実験場)」の閉鎖を求める反核デモ・集会。
10月、カザフスタンが核実験禁止のための主権宣言。
11月12日、2人の広島入り。
17日、慰霊碑前での核実験抗議の座り込みに参加。
19日、被爆者との交流会。(岩本節子・高橋昭博・?・阿部静子)
22日、広島空港発、帰途に付く。
この間の8日間、広島大学原医研(佐藤幸男)、放射線影響研究所(阿波)、広島市総合健康センター(伊藤千賀子)、広島県(竹下知事)を訪問・研修。
グシェフがもたらした核実験場周辺住民の医学調査の結果
1949年から約40年間に500回の核実験(うち大気圏内で100回、1965年から地下実験に移行)
2万人の実験場周辺住民と2万人の対象群で調査
15〜20年後、早期老化現象
白血病が1949年の第1回実験から6〜11年後(70%増)・23年後(73%増)に増加。食道ガン・胃ガン・肝臓ガンにも同様に二つのピーク。
長期にわたる内部被曝の影響=広島・長崎の瞬時・大量被曝との違い
1963年に被曝地住民100人の染色体調査。異常が3倍。二世への影響が心配。