RCC(中国放送)1990.8.5.放映−(58分)

ヒロシマとナガサキ−セミパラチンスクとの対話


*RCCとカザフテレビの共同企画。

*ソ連の民主化・グラスノスチの奔流の中でソ連の核実験被害者が話し始めた。カザフの住民たちが、海外に初めて直接訴えかけた核汚染の恐怖の証言。

*5月1日午前6時50分(日本時間)から2時間、衛星生中継で放送

*5月24日からカザフ共和国の首都アルマアタ市で始まる「核実験禁止国際市民会議」を前に日ソの市民約100人づつが衛星放送を通じて対話。

*カザフスタンの奇形多発の報道が二人の助産婦の証言を引き出す。

*永い付き合いの始まり。


==作品の概要==

日本側発言者

沼田鈴子、川本義隆、山口仙二、江口保、 庄野直美、(二人の助産婦の証言)、佐藤幸男、中本剛、高橋昭博、伊藤千賀子、 横路謙次郎、重松逸造、庄野、河合護郎、横原由紀夫、

カザフの発言

1949年8月29日、初の原爆実験、以後40年間に700回の実験。
14年間は地上での実験で166回。うち94回は60年代に集中して実施。


90.12.9.−(26分)見つめる90「公開!核被害・ソ連セミパラの医師」
 1949年から約40年間に500回の核実験(うち大気圏内で100回、1965年から地下実験に移行)


1988年3月、「ネバダ・セミパラチンスク」組織。
1990年5月1日、RCCが「ヒロシマとナガサキ−セミパラチンスクとの対話」を放映
1990年5月、カザフ共和国の首都アルマアタ市で開催された核実験禁止国際市民会議 に出席した横路謙次郎広島大学原医研教授らが、セミパラチンスクの医療事情を 知り、現地の医師研究者を招くことを計画。
1990年11月12日、ボリス・グシェフ・ソ連セミパラチンスク放射線医学研究所所長(52才)とアーキン・ベイゼンバエフ・パブロダール臨床免疫学センター科 学部長(40才)の二人が、市民団体(代表:佐藤幸男)の招きで放射線医療の研修のため広島入り。
1991年4月、放射線被曝者医療国際協力推進協議会が広島に組織される。
1992年12月、カザフスタンで「核実験被害市民の社会保護法」が成立。
1994年4月、細川−ナザルバエフ会談。セミパラチンスク核実験場周辺の住民の治療 に医療機器の提供を約束。

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