一、私は(1941年)12月7日(日本時間12月8日)、マサチューセッツ州アンドーバーにある高校で友人と散歩していて、だれかが(真珠湾攻撃を〉叫んでいるのを聞いた。当時17歳で、強い衝撃を受けたし、この時のことは決して忘れない。
一、現在、日本の首相と同席する時、戦争の記憶が念頭に浮かぶことはない。昭和天皇の大喪の礼に参列した際には思い出した。それは当時、憎悪のすべてを象徴するものが天皇だったからだ。しかし、すべては過ぎ去ったことだ。日本が民主化の道を歩み始めて以来、米国は日本と協力を続けてきた以上、ほとんどの米国人にとっても過ぎ去ったことだし、またそうあるべきだ。
一、日本は(経済面で)米国の強敵だ。私は戦争の焼け跡から日本が達成したことに大きな敬意を払う。米企業が日本に対し、不公正な状況に置かれないよう、われわれは自由で公正な貿易関係を築く努力を続けなければならない。対日貿易不均衡は不幸なことだが、対処は可能だと思う。私は保護貿易主義者ではないし、可能な限り自由で開かれた貿易を望むが、同時に公正でなければならない。これは米国内の雇用創出も意味しており、安心するまで先は長いが、ともに努力する価値がある。いわゆる「日本たたき」は極めて望ましくない結果をもたらす。
一、(広島への原爆投下について)私が大統領である限り、謝罪は必要でない。原爆で犠牲になった無実の市民を悼むかと聞かれれば、その通りだ。当時のトルーマン大統領は困難で、計算し尽くした決定を下した。原爆投下は数百万の米国市民を救った正しい決定だった。そして、われわれは仕掛けられた戦争をしていた。謝罪の必要はないし、私自身が謝罪を求められることもないだろう。これまで通り、われわれは戦争の傷をいやし、戦争の犠牲者への正しい認識と同情を表明する努力を続けるべきだ。
出典:「中国新聞」1991.12.3