『原爆の子−広島の少年少女のうったえ』は、原爆関係出版物のさきがけ的な存在であり、出版後におよぼした影響も特筆すべきものであった。長田新が平和教育の資料にと収集していた広島の少年少女の原爆体記の一部が、雑誌『世界』(1951年8月号)に「ヒロシマの傷痕」として紹介され、これが契機となって1951(昭和26)年10月に岩波書店から単行本として刊行された。
刊行と同時にさまざまな反響があったが、そのひとつは、大阪大学理学部学生自治会のおこなった「原爆の子に応えよう」とのよびかけである。同自治会は11月1日から原子力展を開催したが、そのなかでこの体験記を紹介したのがよぴかけの動機となった。京阪神の小・中・高校生が、『原爆の子』を読んだ感想文をよせ、翌年3月には、これらの感想文は、『原爆の子に応えよう−少年少女たちのねがい』としてまとめられた。
また、世界20〜30カ国から翻訳の申し入れが殺到し、関西エスペラント語協会が、平和事業の一つとして『原爆の子』のエスペラント語抄訳を行ったのをはじめ、英・独・仏・中国の4カ国語の全訳が刊行された。
いっぽう、『原爆の子』に手記を寄せた子どもたちは、1952年2月、原爆の子友の会を結成した。広島大学文学部で開かれた発会式には、100余名が集まり、本の編者で会の結成に奔走した長田教授は、子どもたち一人一人に『原爆の子』を手渡し、激励した。子供たちの代表は、この会の席上つぎのように述べている。
世界各地から激励して下さる争くの人々、そして声なき原爆の市民にこたえるために原爆を肉体の上で知っている私達は真の平和のために働かねばならないと思います。
こうして、この少年たちは、ささやかながら平和運動を展開するのであるが、その主なものは演劇活動であった。1952年5月から8月にかけて『原爆の子』をテーマとする劇を3回にわたって広島で上演した。特に、7月末には、京阪神原爆の子に応える会の招きによって大阪で上演した。また1953年8月9日には、大沢幹夫作・演出の「原爆の子」を児童文化会館で上演した。これは、原爆の子友の会とともに広島市教育委員会、日本子供を守る会が共同主催者となり、日教組、県労会議、中央公論社、中国新聞社その他多数の文化団体が後援、協力し、8月6日を中心とする平和月間の行事の一つとして行なわれたものである。古月舞踊研究所員および古市町朝鮮人小学校の生徒が賛助出演し、昼夜2回それぞれ2000名の観衆に大きな感銘をあたえた。
こうした『原爆の子』たちの活動は、原爆孤児全般にたいする社会的な関心を高めた。1952年8月5日、広島市己斐小学校では平和の集いが開かれ、全校児童1226人が校庭で平和を誓い、つづいて原爆で親を失った遺児100人を主賓に、4年生以上が平和の集い慰安会を開いた。翌53年になると、広島大学東雲分校子供を守る会(1月)、広島子供を守る会(2月)が結成され、年末には、日本人の手による原爆孤児の精神養子運動がはじまったのである。
広島が原爆の洗礼をうけてから7年、その間に、同じように原爆の被害を蒙った長崎に取材した原爆映画「長崎の鐘」、「長崎の歌は忘れじ」の2作品が製作されていたが、広島を舞台にした映画は、まだ一本もなかった。こうした中で、近代映画協会と劇団民芸は、『原爆の子』に『原爆の子』に取材した映画の製作を企図した。
吉村公三郎(製作)、新藤兼人(脚本・演出)、乙羽信子その他劇団民芸の自主製作としてはじめられたこの映画は、資金集めから苦労が多かった。しかし、1952年6月、広島で現地ロケが開始されると、日本私鉄労組・広島電鉄労組・広島市役所職組・広島国税局文化部などから寄付金がよせられるとともに、原爆未亡人の団体などから「失くなった人たちのお墓詣りをするつもりで私たちの映画に協力したい」という出演申しこみをうけるなど広島にできたばかりの小さな被害者組織の協力をうることができた。
こうして完成した映画「原爆の子」は、8月6日福屋劇場で試写会をおこなったのをかわきりに9月から全国で上映され、大きな感動をよびおこした。
朝日新聞の天声人語は、「すぐにはペンを執れぬほどの強い感動を受けた。あれからもう七年もたっているのにどうしてこのテーマに取っ組む映画が日本に生れなかったのかと、むしろ不思議に思われた。……これは日本人だけが作れる映画だ。日本人だけが作る権利を持ち、より以上に作る義務をも持っている。観る人はみな泣いていたようだ。たが涙の出しっ放しではだめだ。また日本人だけが泣いていたのでは、なんにもならない。世界中の人に見せたいし、見せねばならぬ。」(1952年8月24日)と書いている。また、この映画をみた東京都南多摩郡の小・中・高校生の代表は、11月2日、原爆孤見たちをなぐさめようと募金した1万3000円と見舞文200通をもって広島にやってきた。海外からも、輸入の申し入れがあり、1952年の暮には、第6回カンヌ映画祭への出品が決められた。
いっぽう、日本教職員組合も『原爆の子』の映画化を考えており、近代映画協会などと合同で製作する動きもあった。しかし、製作意図のちがいから、1952年8月の第24回中央委員会は、日教組独自の映画化を正式に決定した。
これより前『原爆の子』に手記をよせた少年少女で結成された原爆の子友の会は、近代映画協会のシナリオをつぎのように批判している。
原爆の子の本当の姿に縁遠い、ありふれたドラマチックなシナリオで、登場してくる子供たちは主役のロボット的存在にすぎず、いやしくも原爆の子という表題の映画ならば、@原爆当時の悲劇、A過去7年間の原爆の子の共通している体験、B現在の世界に対する原爆の子の考え及び訴え、を中心にシナリオを書いて貰いたかった。
日教組の製作意図は「世界最初の原爆を受けた日本人は、原爆禍の広島を正視し、深い認識を待つとともに、全世界に対してその実相と罪悪を正確率直に公表し、訴えなければならない義務と権利をもつものであります」と述べ、「いかにしてあの日を正確に再現するか」を最大の目標とした。
こうしてはじめられた日教組の映画づくりには、全国の組合員が一人当り五50円寄付し、総額2400万円を準備した。また、製作にあたっては、シナリオ段階から上映段階まで大衆動員の方針がつらぬかれた。八木保太郎が広島で取材したうえで書きあげたシナリオは、広教組において全組合員の討議にかけられ、4回書きなおされた。1953年5月からはじまった現地ロケでは、のべ人員4万人を動員、広島市内およびその周辺の教師は、一人1回以上は家族同伴で出ることを申し合せ、そのうち50名近い男子教師は、戦時再現のため髪を丸刈りにした。これらのエキストラに使用されるモンペ、鉄かぶと、ゲートルなどの衣装、小道具は全県下から集められ、総点数は5万点を超えた。そして、教育委員会や校長会などが古い校舎の無条件使用を許可したり、広島市が、自由労組(被爆者が多かった)の出演者には日当を負担するなどの協力を行なった。また、広島電鉄のバス1台、全建設のブルドーザー1台、東洋工業の2000名の動員出演とセット用機材の提供など、広島全市あげての協力であった。
日教組製作の「原爆の子」は、途中「ひろしま」と改題され、1953年8月に完成した。東京・広島・長崎での試写会を手はじめに全国的に自主上映運動がすすめられ、国際的にも、アメリカ・南米各地・ソヴィエト・中国・イスラエルなどで上映され大きな反響をよんだ。とくに、ドイツでは1955年、ベルリンの映画コンクールで入選の栄誉をかちとった。
映画「原爆の子」と「ひろしま」は、方法的な差異はあったが、いずれも原爆被害の本質にせまろうとするものであり、また、ともに体験記集『原爆の子』を素材にしながら、素材とは独立して、原爆の恐ろしさを世界に訴える糧となった。
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