日本社会学会による原爆被災に関する社会学的調査研究の推進についての要請(1967年10月)

日本社会学会による原爆被災に関する社会学的調査研究の推進についての要請(1967年10月)

原子爆弾の投下による人的・物的被害は、その規模、内容ともに人類史上未曾有のものであったことは周知の通りであります。しかもこの原爆被災は、単に物理的な破壊力による損傷ばかりではなく、同時に多量の電離放射線の曝射という特性を有しております。このために被爆に関する問題はこれまで一般的な被爆状況そのものよりも、被爆個体に対する医学的、生物学的諸影響の問題が中心となり、かつ緊急の課題とせられたので、被爆に関する科学的な研究としてはこれらの調査研究が主体をなしてきました。

もちろんこれらの研究は重要な意義を有し、その成果は医療行政にも吸引され昭和三二年には「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が制定されるに至っています。しかしわれわれがなお注視せねばならぬことはこれらの身体的影響もさることながら、かかる大規模な被災に際しての被災者の社会的経済的画側面ならびに精神的心理的側面に対する諸影響であります。被爆による生活の秩序あるいは基盤の解体、喪失という多くの事実は、社会生活の広範な場面に重大かつ深刻な影響を及ぼしたであろうことは自明の通りであります。

しかしながら翻ってみますと戦後二十余年を経た今日においてもなおこうした原爆被災のもたらした社会的,諸影響に関する社会科学的側面からの組織的な研究は極めて少なく、かつ断片的に報告がなされているにすぎず、学問的にも全く空白のまゝ放置されてきております。したがってその社会生活の内面に及ぼした被爆の諸影響の実相については明らかでないばかりか被爆時の諸状況に関する基礎的なデータさえも体系的に記録されていず、その被爆死亡者数も不明のまゝに至っているのが実情であります。

然るに現状では家族の欠損、社会的諸関係の解体等々をはじめとして被爆後の個体の生理構造の脆弱化あるいは時間的推移による被爆者の老令化とあいまって、一方ではその階層的分化、とくに一方落層化、孤老化、スラム等々の現象を噴出せしめ、貧困や結婚、労働の疎外など多くの問題を表出し、社会問題として早急に対策を講ぜざるを得ない段階にきておりますが、これらの生活の実態については科学的には全く未知のまゝにおかれています。

しかも他方ではわれわれにとって誠に遺憾なことは被爆後二十余年の時間的経緯とともに、これらの貴重な未曾有の体験有する被爆者あるいは被爆関係家族の死亡、消滅が著るしくその他記憶の喪失、社会的移動の拡大等々、資料の散逸、埋没化が加重しつつあることであり、かかる社会科学ならびに精神医学、心理学的な立場からの学術的なあとづけが欠落したまゝに消滅寸前の段階を迎えていることてあります。

昭和四十年行政的レベルにおいてではありますが厚生省では原爆医療行政の一環として被爆者調査を実施しており、それによれば今日全国に約三十万名に及ぶ被爆者の生存が確認されています。しかし前述の如き災害時における人間行動の実情あるいは生活構造に対する影響の実態に関しては明らかではなく、なおこの調査によっても把握されていない多数の被爆者集団の在在が確認されております。

寡聞ではありますが諸外国においては人間生活に影響を及ぼした諸災害について、社会科学の独自な立場からの報査研究が学術会議あるいは学術研究会議機関等を通じて組織的かつ広般に行まわれていると聞きます。そして今次大戦の爆撃災害をはじめ他の戦争災害あるいは地震、水害などの自然災害、産業災害などを対象に大量災害における人間行動ならびにその社会影響について着々と成果を集積しつつあり、社会学的研究もその一環として蓄積され、被災者における諸問題の解明と同時にその福祉対策の策定に主要な貢献をなしつつあると聞きます。

もちろんわれわれとしましてもかかる原爆被災の如き大規模な災害の実態に関しては国家的に強力に推進されるべきものと希求するものでありますが、前述の如き背景に鑑みましてなお社会学的立場からの接近と解明が肝要と思われるのてあります。しかもすでにあげた問題の事情からしまして現在の段階ではその研究も一個人の一研究室の研究推進だけではすまされない状況にあり、この機を逸すれば被爆の社会的影響の解明は永久に失なわれることになり、将来のわが国の社会科学の発展の歴史において痛恨事となることは明らかであります。

こゝにわれわれは日本社会学会理事の諸先生はじめ各地域の各位の共同により、全国に散在する原爆被爆者の実態を早急に調査し、それらの有している諸問題の解明の一翼をになうために日本社会学会による組織的調査研究の推進を希求し要請するものであります。具体的な調査研究計画としてとりあえず別記の如き素案を付しておきましたが調査計画ならびに組織の構成、研究費等々に関しまして学会理事ならびに先学の諸先生方の格段のご審議とご高配をお願いする次第であります。

昭和四十二年十月

 広島大学野口隆

八木佐市

谷田部文吉

湯浅良之助

高橋三郎

志水清

渡辺正治

湯崎稔

広島女子大学 間庭充幸

山口大学 近沢敬一

大阪市立大学 上子式次

大藪寿一

吉井藤重郎

 日本社会学会会長殿

日本社会学会理事会殿

「調査研究計画素案」

(1)調査研究機関の名称 日本社会学会原爆被災全国調査委員会

(2)研究組織の構成 調査委員として各都道府県別に会員各位から選出して構成する(各都道府県の被爆者数に比例して選出)

(3)調査期間 昭和四十三年四月一日-四五年三月三十一日

(4)研究費

(イ)出所 文部省科学研究費(その他国の科学研究費)

(ロ)金額 初年度六○○万円-一○○○万円

(総合研究費の三件分に相当)

(5)調査方法

(イ)基礎調査 統一的な質問調査票による全国調査

(ロ)個別精密調査 基礎調査後各地域の特殊問題に応じての個別的テーマによる追跡調査、研究

(6)主要調査項目

(イ)基礎調査

A被爆状況 被爆に至る経緯。被爆場所の状態、距離。受傷状態、その他。

B被爆当日の行動 離脱、移動の状況。入市の日時、場所。被災地内での行動、作業内容。その後の行動状況、その他。

C被爆後の健康状況 急性症状、後遺症状。健康状態の推移、その他。

D被災後の生活史ど変動過程 家族欠損など家族集団の構造に及ぼした影響と推移。職業、婚姻に及ぼした影響。生活環境の変化と推移、その他。

E社会心理的状況 社会意識ならびに態度、その他

Fその他

(ロ)個別調査(略)