郷土史断想

『ふるさとよしうら 6号』(吉浦郷土史研究会、19780428)

郷土史断想   宇吹暁

“ふるさと”は、常日頃気に懸けているものではなくとも、何かの拍子に出てくるもののようです。私について言えば、資料を見ている時、″呉″という字が反射的に目につきます。多くの場合は。呉れ給え”の″呉″の類なのですが。ま仁、呉関係の資料を搜していなくても、それが目につけばメモしています。最近も、アメリカの資料を調べていていくつかかをメモしています。一九四五年中のニューヨーク・タイムスには、三月一九日、六月―二日、七月一日、同二四日、同二八日の呉に対する爆撃に関する記事とともに、航空写真も八葉掲載されています。また、アメリカが終戦後調査した爆撃結果の報告書にも、呉に関するものが、何箇所かありました。空中からの写真撮影から目標を識別した結果が正しかったかどうかの調査では、呉地区は、網を使っての艦船の偽装が最も広汎に行なわれていたと述べています。そして、識別の結果を、たとえば次のように判定しています。
下記の主要なる海軍艦船は、一九四五年三月一八日~一九日の攻撃中撮影した写真に依り空母から呉近海に在るものとして報告されたものである
一 戦艦大和
一 戦艦金剛級(後榛名と識別さる)
ニ 戦艦伊勢及日向
ニ 空母雲龍級(後天城及葛城と識別さる)
(以下略)

思わぬところで、子供の時聞いたさまざまな話を思い出しながら読み入ってしまいます。
このような<ふるさと>との出会いは、だれしも何らかの形で経験していることと思います。周辺の誰に話しても無意味にしか思えないだろうが、しかし、郷里の友人に会った時には、ぜひ話したい情報、こういうものが、今、都会では珍重されて<ふるさと>ミニコミブームを作っています。戦前、戦後を通じて県人会的な組織はあるようですが、これは、それとは違い、主な担い手は若者たちです。一方、各地には、年輩の人々によって支えられている郷土史研究会があります。極論すれば、若者 は都会で<ふるさと>を思い、老人は<ふるさと>で<郷土史>を考えていると言えます。しかし、この二つの<ふるさと>は、内容的には、異っています。都会で想う<ふるさと>は、イメージ的でたとえば広島の場合、カープ・カキ・瀬戸内海・酒などといった象徴的なものと結びつくことが多いのに対し、郷土史における<ふるさと>は、地域性が非常に強く感じられます。<よしうら><かわらいし><てんのう>といった、そこにある町並は勿論一軒一軒の家族の構成までもはっきりとつかめる範囲、あるいは、狩留賀、魚見山といった砂の色、小道の勾配まで明確に思い浮べることのできる場所などが郷土史の対象となっています。
最近、この<ふるさと>のもつ地域性について考えさせられたことがあります。それは一九七〇年前後に、全国各地に起った、空襲・戦災を記録する運動です。それまでにも、空襲・戦災体験は、八月一五日を前後して、新聞などのマスコミで取り上げられてきていました。しかし、多くは個人的体験でした。一九七〇年前後からは、地域が取り上げられたのです。
たとえば、広島市では、平和公園は、元中島町などの街があったのですが、その一軒一軒が復元されています。
こうした動きが全国各地に起っているのです。原爆体験や、空襲体験が昨日のごとく語られるのは、体験の特異さによるのでしょうが、三十数年前の街並が、すらすらと出てくる人々が、幾人かあるのには、驚ろいてしまいます。そういう人たちの話を聞きながら感じることは、その人々にとって、街は、かけがえのない生活の場であり、それぞれ、その街を、いつくしみ、はぐくんで来たのだなあとの感慨です。
しかし、私自身について、二十年後に、明瞭に思い出せる街があるだろうかと自問する時、生れ育った本町筋の名前すら、卮かしいものに心えてきます。″ふるさと“にいる若者でありながら、イメージ的にしか<ふるさと>を、とらえることのできない私に、「ふるさとよしうら」が語りかけるものは、「自らの生活の場を、いつくしみ、はぐくめ」との教訓です。