日本における原水爆禁止運動の出発

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

はじめに

日本において,核兵器に反対する大衆運動が発生したのは,1954年3月以降のことである。それまでにも,核兵器禁止を求める動きはみられたが,大衆運動というには,その参加者は極めて限られており,また,散発的であった。

1954年3月1日のビキニ水爆被災事件を契機として全国各地で自然発生的に繰り広げられた原水爆禁止署名運動は,翌年8月6日~8日の広島における原水爆禁止世界大会の開催に結実した。以後,日本では,8月の世界大会を頂点とする原水爆禁止の大キャンペーンが,毎年欠かすことなく繰り広げられ、それは,今日まで引き継がれている。1955年の世界大会を第1回とするならば、今年(1982年)に,広島で開催された「原水爆禁止1982年世界大会」は,第28回に相当するものであった。

原水爆禁止運動のこうした展開のしかたは,他国に例を見ない極めて日本的な現象であろう。この運動の回顧は,現在の日本の反核運動のみでなく,世界の運動にとっても重要な意味をもつものと思われる。

日本の原水爆禁止運動が,「国民運動」もしくは「草の根運動」であったという指摘は,これまでしばしばなされてきた(1)。日本の運動の特質をそのように理解するとするならば,日本の原水爆禁止運動の流れは,つぎのように整理できるであろう。

1954年 ビキニ水爆被災事件を契機とする原水爆禁止運動の発生と国民運動としての展開。
1960年 安保問題を契機とする分裂。保守層を含んだ国民運動の崩壊。
1963年 「いかなる国」問題を契機とする分裂。「草の根」性の喪失。
1977年 国連軍縮特別総会(第1回)を契機とする国内の運動の統一。国民運動の復活。
1982年 欧米の反核運動の衝撃を契機とする国内における草の根運動の再生。

 

今日のマスコミ論調の多くは,原水爆禁止運動について,以上のような理解をしている。筆者には,現在,この「国民運動」性,「草の根」性を基準として日本の原水爆禁止運動を総括することの当否を論じる準備はないが,すでに別稿(2)で論じたように,日本の運動の特質は,運動の前提にある「国民的な被爆体験」にあると考えている。

小論の目的は,「国民運動」と「被爆体験」に注目しながら,1954年に日本全国で展開された署名運動の意義を明らかにしようとするものである。

1)この運動について,これまで,いくつかの紹介がなされている。主なものとして,運動の指導的立場からは,安井郁『民衆と平和-未来を創るもの-』(大月書店、1955年),熊倉啓安『原水爆禁止運動』(労働教育センター、1978年),伊藤茂『平和運動と統一戦線ー原水禁運動の歴史と展望(増補版)』(ありえす書房、1975年),参加者の立場からは,今堀誠二『原水爆禁止運動』(潮出版社、1974年),資料集としては,第五福龍丸平和協会編『ビキニ水爆被災資料集』(東京大学出版会、1976年)などがあげられる。
2)「日本における原水爆禁止運動の前提「被爆体験」の検討」(『日本史研究』№236、1982年)。

1.原水爆禁止決議

1954年3月16日,ビキニ水爆実験による被害の第一報が,読売新聞で報じられて以降,国内のさまざまな階層から抗議の声があがった。

日本共産党中央指導部は,19日,「原水爆を禁止せよ」との声明を発表,平和擁護日本委員会は,20日,平和問題懇談会を開いて原水爆禁止運動を全国的に展開することを申し合せた。また,3月30日のアカハタ主張「原子兵器禁止の運動は民族の安全と平和独立を守る憂国の闘いである」では,「府県市町村議会,労働組合,農民団体,学生,青年,婦人,文化などすべての団体が原爆禁止,一切の被害の完全な補償と救援の運動を展開」するよう呼びかけている(1)。

一方,総評は,22日14回幹事会で,原水爆製造禁止とその国際管理を求めるアピールを決定した(2)。また,25日には,総評の提唱に,左右両派社会党,労農党,憲法擁護国民連合が応じ,この5団体の代表が,ビキニ被爆問題につき懇談,つぎのことを決定している(3)。

☆原子力の国際管理と原子兵器の使用禁止に関する決議案を両社・労農三党から共同提出する。
☆全世界に原子力の被害の恐怖とその使用禁止を訴えるため,4月26日から開かれるジュネーブ会議,4月日本で開かれる世界平和者会議で提唱する。
☆全国地方議会に原子兵器の禁止決議を促す。

国会では,事件が報じられた当日,藤原道子(左社)が,参院予算委員会で緊急質間をおこなったのを皮切りに,連日討議に付された。26日の5党衆院国会対策委員長会談の申し合せにもとづき(4)、4月1日の衆院本会議は,国連に「原子力の国際管理とその平和的利用ならびに原子兵器の使用禁止の実現を促進し,さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するための」有効適切な措置を直ちにとることを要請する決議案を採択した(5)。つづいて,5日の参院本会議も同様の決議をおこなった(6)。

「世界の文化人や平和主義団体の仲間から,この決議と同様な趣旨が,論議せられ,提案せられたことは,既に度々くり返されたことで,敢て異とするに足りないが,一国国民の意志を代表する国会の名に於て,このような決議かなされたことは,恐らくこれが世界最初の企てであった」(自由党・佐藤虎次郎)(7)。

一方.地方議会においても18日に焼津市議会が原子兵器使用禁止決議をおこなったのを皮切りに,全国各地で,同様の動きがられた。5月26日現在の地方議会の決議状況を,新聞はつぎのように報じている(8)。

東北・北海道地方=宮城県会,石巻・塩釜両市議会のほか5月20日盛岡で開かれた北海道,東北1道6県知事会議で「原爆実験の対策について」が決議され,被爆者の医療施設,生活補償,被爆船の補償を要求,また釜石での東北6県市長会議でも米国と国連への二つの要望決議をしている。
関東地方=東京都議会は3月30日の本会議で「原爆被害による不安除去にかんする意見書」を議,ほかに茨城,神奈川両県会,三崎町会と三崎町民大会。
中部地方=焼津,伊東両市会のほか,静岡、石川,岐阜,愛知の各県会。
近畿地方=3月29日の奈良市会をトップに京都.芦屋,田辺,新宮,彦根,舞鶴の各市会。
中・四国地方=4月初旬の岡山県会を皮切りに,高知など四国4県をはじめ.鳥取でも決議,25日には広島市議会が市民大会の要望に基づいて「原・水爆禁止」、「原爆障害者治療全額国庫負担」の決議を可決した。5月19日香川県庁で開かれた第2回四国地方行政連絡会議でも補償措置を中央に要望,また四国市議会,議長会は全国の自治機関に呼びかける「国民運動」の展開を申合せた。
九州地方=福岡県会と枕崎市会(鹿児島県)禁止決議している。

こうした動きは,議会のみでなく,次表のように,さまざまな分野の団体にもみられた。

決議(声明・宣言などを含む)を発表した団体・集会
(1954年3月~5月)
出典:『ビキニ水爆被災資料集』504-505頁,その他

月日 発表主体
3.19 自由人権協会
3.25 全日本海員組合
4. 2 買出人水爆対策市場大会
4. 3 婦人月間中央集会
4.15 日本私鉄労働組合総連合会
4.16 第1回全国教戒師大会
4.23 日本学術会議第17回総会
4.25 日本ユネスコ連盟第3回総会
4.25 新日本文学会中央委員会
4.27 全農林省労働組合第4回全国大会
4.28 日本赤十字社
4.30 日本社会学会・民主主義科学者協会法律政治部会
4.30 日本地質学会
5. 1 第29回中央統一メーデー
5. 1 生物進化研究会
5. 3 日本哲学学会第7回総会
5. 8 日本科学史学会1954年度総会
5.10 日本基督教団
5.12 国際民主法律家協会日本支部準備会
5.14 日本青年団協議会
5.15 日本政治学会
5.16 第2回PTA全国大会
5.20 日本気象学会
5.25 日本医師会代議員会
5.28 第7回全国図書館大会
5.29 日本弁護士連合会定期総会
5.30 日本民主主義科学者協会第9回全国大会
5. 日本文学協会第9回大会
5. 日本放射線学会

 

地域レベルでは,無数の決議が存在したであろう。広島では,広島市文化団体連絡協議会準備金(3月27日)(9)、広島県教組第11回定期大会(3月31日),世界平和者日本会議広島大会(4月12日),原爆水爆禁止広島市民大会(5月15日),全造船労組第15回定期大会(5月日)などを確認できる(10)。

決議の内容は,議会.諸団体を通じて,そのほとんどが,ビキニ被災のみでなく,広島・長崎の原爆被害に言及し,それを決議発表の動機もしくは根拠としている。国会の決議では,文面には現われていないか,衆参の提案の趣旨弁明,討論の中で,すべての発言者が取った立場であった(11)。たとえば,衆議院の決議案の趣旨弁明に立った須磨禰吉郎(改進党)は,つぎのように述べている(13)。

「わが日本は,人類多き中に,初めて原子兵器の犠牲となり,しかも二度ならず三度までも惨害を受けたのでございますから,ここに世界に対し,人類を代表して,かくのごとき惨禍の一日もすみやかに絶滅せられるよう,実効ある方法を立て,人類を破壊から救うことを提唱する上におきましても,最も崇高なる権利と,そしてまた最大の発言力とを有するものと信ずるのでございます。」
また,この決議案の賛成討論に立った自由党の佐藤虎次郎は,「日本の国会にこそ,この決議を提唱する権利と義務がある」とまで述べている(13)。

このようにビキニ水爆被災事件が広島・長崎の体験と当初から結びついていることは,広島・長崎の原爆被害が,この時期にすでに国民的な体験として,一定程度定着していたことを示すものといえよう。そして,この国民的な「被爆体験」こそは,ビキニ水爆被災事件以降の日本の原水禁運動が、単に水爆実験反対に止まらないい展開をとげ、また持続した根拠をなすものであったと思われる(14)。

なお,決議について.もう一つ注目されることは,4月23日の日本学術会23回総会や6月25日の江東区議会などのように,その声明・決議の中で,国会決議に言及しているものが存在することである(15)。

このことは,国会決議が,県・市町村議会,諸団体の決議を誘引する一つの要因であったことを示すものである。なお,日本哲学学会の決議(16)は,日本学術会議の声明に対する支持決議であるが,ビキニ水爆被災事件を契機とする原水爆禁止決議には,自然発生性のみでなくこうした「上から」の要因も存在していたのである。

1)労働省編『資料労働運動典昭和29年』1311頁(労務行政研究所、1955年)。なお世田谷区の共産党組織は.党の指示より前に,[日本人はモルモットではない」という怒りのピラの配布や原水爆禁止の署名運動などの行動に立ち上がっている(東京都西部地区委員会「原・水爆禁止運動の経験と教訓」,『前衛』1954年9月号所収)。
2)「社会タイムス」1954年3月23日。
3)「毎日新聞」1954年3月26日。
4)「朝日新聞」(夕刊)1954年3月26日。
5)「第19回国会衆議院会議録」第32号,1954年4月1日。
6)「第19回国会参議院会議録」第29号,1954年4月5日。
7)佐藤虎次郎「原子力の国際管理を主張する-原子力の国際管理に関する衆議院決議の意義-」(『政策』,1954年5月号,11-12頁)。
8)「中国新聞」1954年5月27日。なお,こうした地方議会における原水爆禁止決議は.10月22日の長崎県議会を最後に46都道府県議会全部が揃い,市町村においても10月26日現在で169市92町村に及んだ。労働省編,前掲書,1314頁。
9)「広島文学』1954年9月号,77頁。
10)「中国新聞」報道による。
11)5)・6)に同じ。
12)5)に同じ。
13)5)に同じ。
14)ここで筆者の言う「被爆体験」については,前掲拙稿を参照。
15)前掲『ピキ二水爆被災資料集』491頁,502頁。
16)『思想』1954年8月号。