平和のための広島県文化会議

平和のための広島県文化会議  結成日:1962年8月5日

広島県文化会議・第二回定期総会議案書 1963年10月20日
一年間のあゆみとまとめ

1、一年間のあゆみ
一九六二年八月五日、私たちは広島県内在住の芸術創造にたずさわる人びとによって、「平和のための広島県文化会議」を結成しました。文化会議の性格を「平和のための」と意味づけたのは、文化そのものは本来平和そのものの成果であるにもかかわらず、なお「平和のための」といわざるをえなかったなど、世界の平和の状況が必ずしも平和でなかったからです。
そのかんの事情についての詳細は、結成総会アピールにあきらかにされているとおりですが、私たちはあらゆる人びとの平和への願いをもとにし、人類社会から戦争をなくすることを、芸術創造活動をとおしておし進めたいと考えました。
私たちは幹事会に提出された六項目の議案、すなわち、一、機関紙、誌の発行。二、秋の文化祭。三、峠三吉詩碑の建設。四、広島平和文化賞の設定。五、県内巡回講演などの計画。六、広島県戦後文化史の編さん。以上について、文学、美術、演劇の各専門部会で話あわれた内容を基にして、第三回幹事会は、八月六日へ向けて綜合文化祭を企画する。峠三吉詩碑の建設。広島県戦後文化史の編さん。の三つの主な創造のための作業を決議しました。この幹事会決定は、十一月十一日の臨時総会に提案され、年間の活動方針として決定されました。私たちはこの三つの作業を、たんなる行事というふうには考えませんでした。綜合文化祭、峠三吉詩碑、県戦後文化史の編さんの作業は、私たちの芸術創造の仕事と深くかかわりをもつと同時に、平和の問題と離れがたく結びついていると考えたのです。
一九六三年二月七日、私たちは文化会議会員によって「峠三吉詩碑建設委員会」を設置し、この日から具体的な活動に入りました。
この活動のこまかを点については、別誌「人間の世のあるかぎりくずれぬ平和を」において報告しておりますから略します
八月六日へ向けての綜合文化祭は、文化会議内に実行委員会を設置し、いろいろと話しあいの結果、県文化会議、広島職場演劇サークル協議会、広島勤労者演劇協議会の三団体共催にすることとし、後援および協賛団体として、原水爆禁止広島県協議会、広島県原爆被害者団体協議会、広島県労働組合会議、広島県青年連合会、日本民主青年同盟広島県委員会、日本社会主主義青年同盟広島地区本部、広島県教職員組合広島支部、広島県平和委員会、広島民主商工会、第三回西日本うたごえ実行委員会の協力を得ました。公演は八月三日昼夜二回行われ観客一千八一二人の入りで、一応実質的に成功させることができました。
そのほか、無名戦士の碑文の決定。原潜寄港反対のアピール、二回にわたるソ連作家を囲む懇談会をひらきました。
2、まとめ
その成果と問題点
これらの運動の中で、文学部会は峠三吉詩碑に刻む作品の選こうについて、美術部会は詩碑のデザイン、設計、あるいは第九回平和美術展について、音楽部会は「西日本のうだごえ」の成功のために、演劇部会はシナリオ「河」の作成から公演に向けて、その大きい流れの中にあって、それぞれのジャンルで創造活動が熱っぽく話しあわれ、実を結んでゆきました。
この実践の中で、私たちは八月三日「河」の合同公演、八月二日より七日間広島平和美術展、八月四日西日本のうたごえ、八月六日詩碑除幕式、第九回原水禁世界大会へ代表派遣という具体的な成果をあげると同時に、対外的には一定の基礎をつくることができました。これら諸運動に参加した人びとは二万人以上をがぞえ、九月末現在、詩碑建設と、「河」公演によせられたカンパ額は五三五、八二○円に達しました。このことは私たちの方針の正しさを実証するものといえましょう。
しかし、これら成果の反面、文化会議内部における日常活動の不足、事務局体制の弱体からくる財政の不備、内面的な活動の遅退は、会員個々の活動があったにもかがわらず、いちぢるしく後退するという現しょうを見たことは、特に重要な問題として残されております。
このことは文化会議の動脈ともいうぺき機関紙が速報をあわせて二回発行にとどまった事実にもうかがえます。会員はそれぞれの創造活動をとおして、多くの出版物を刊行し、あるいは執筆し、おうやけにしました。たとえぱ三原の「地方」、広島の「青史」「われらのうた」、土屋清のシナリオ「河」(テアトロ)、南雅子共著童話「つるのとぶ日」(東都書房)、加川次男歌集「標的」(白樺社)、原爆症患者の手記「かえらぬつる」再版、絵画グループ展の開催、職場演劇、職場美術展等を他にも多くあげるこどができます。
だがこのように見るべきものががず多くあつたにもかかわらず、内部において集約されず、したがって独自の評価もあたえられず放置されたのであります。もっとも大切にしなくてはならない会員個々の創造活動が会の中で充分生かされなかつたことの事実の解明は、今後の大きな課題として私たちの前にあります。書くことがあとまわしになったという問い、行動に参加し、ひとりびとりがどう高まり、どうひろげたか、芸術創造と政治的実践のむすびつきを考えるぺきだという問い、それら困難でしかも重要な課題を私たち一年のあゆみは提出しました。
これは私たちの実践の中からひきだされた具体的な課題であるだけに、一年のあゆみは必ずしも一方的に否定されるべきでなく、このあゆみの中から、新しい方針が創造されてゆくべきでありましょう。その萌芽が私たちのひとつの成果としてここに提出されているのであります。
[以下略]