原爆被害者の証言と平和教育
−文集を読んだ感想にかえて−

 私は、戦後生まれ(1946年)で、広島県呉市で育ちました。自分自身を振り返ってみると、小・中学校で「平和教育」に接しています。映画「千羽鶴」は、学校で鑑賞しました。「原爆の子」も観た覚えがあります。原爆資料館も見学しています。原爆病院に入院中の患者の方々にお見舞いの品を学級で送った記憶もあります。しかし、こうした「平和教育」は、その後姿を消したようです。1969(昭和44)年に結成された広島県被爆教師の会は、結成にあたり「十年前までは、子供たちは肉親や近所から原爆について聞いていましたが、今はそれも少なく学校でさえもほとんど話されていない状態です」(昭和44年度活動方針)と述べています。

 新聞報道を見ると、1960年代後半(昭和40年代前半)から「被爆体験の継承」をめぐる様々な動きが取り上げられるようになっています。66年から翌年にかけて原爆ドーム保存のための募金運動が全国的に展開されました。広島市長の8月6日の平和宣言は、67年から、「被爆体験の継承」の必要性を訴え続けるようになりました。広島市教委と県教委は、68年から69年にかけて、原爆問題を系統的に学校教育に組み入れ始めました。

 1970(昭和45)年代に入ると、市内の学校では、原爆犠牲者の追悼式や慰霊祭が学校の行事として開かれるようになっています。翠町中学校(71年から平和教育を開始)は、74年に校庭にある第三国民学校の慰霊碑で校内慰霊祭を開催しています。第5回の慰霊祭からは、遺族が加わるようになったそうです。旧広島市女の原爆犠牲者の慰霊祭は、戦後遺族会と同窓会によりひっそりと営まれていましたが、75年から舟入高等学校の生徒が参加するようになり、76年6月には、修学旅行で広島に来た東京都葛飾区の上平井中学校の生徒が、同校の慰霊碑の前で追悼式を行っています。同じころ、私は、広島市内に住む義従兄から、それまで語ったことのない動員学徒としての被爆体験を初めて子供に話した動機を聞きました。彼が話す気持ちになったのは、学校の宿題として自分の子供が友達と一緒に体験の聞き取りに来たからだということでした。これらは、平和教育が原爆被害者を励ましたり、被爆証言を引き出したことを示しています。

 私は、学校教育の中で被爆者の話を聞いた経験を持っていません。そのせいか、私は、1970(昭和45)年代以降の平和教育の中で、子どもたちが被爆者の話を聞くというスタイルが広がっていることに強い関心を持っています。すでに69年春、修学旅行で来た都内の高校生50人が、平和公園で被爆者11人と懇談したことが報じられています。同高校は、3年前から広島を修学旅行のコースにしていましたが、被爆者の懇談は初めてとのことです。被爆者側の代表も「個人の旅行グループで被爆者の声を聞かせてほしいという申し込みは時々あるが、修学旅行の生徒とこのような会を開いたのは初めて」と話しています。

 広島市内で展開された被爆者からの体験の聞き取り学習は、1970(昭和45)年代後半からは、広島への修学旅行という形を通して、県外に広まって行きました。関東の学校に広まる経過は、「碑に誓う」(江口保著)に描かれています。77年秋に、平和教育研究所などが、急増する修学旅行生に対応するため「受け入れセンタ−」設置を検討しています。同年には、同研究所を窓口にヒロシマ学習旅行を実施した学校が、それまでの「せいぜい5、6校」から15校に増加したとのことです。原爆資料館に入館した修学旅行生は、79年に2253団体32万7359人でしたが、91年度には4151団体51万4509人(人数のピ−クは1987年度で56万8345人)と増加しています。もちろん、この全てが、被爆者の体験を聞いているわけではありません。84年度から修学講習を受けた人数の統計が残されるようになっていますが、それによると毎年6万人から9万人が「被爆体験講話」を聞いています。

 平和教育を進めた学校の多くが、その成果を冊子にまとめました。1970(昭和45)年代以降、広島県内では、平和学習の成果は、聞き取りによる被爆体験記集や自分の学校の被災記録の出版として残されています。80年代には、広島で平和学習を実施した県内の学校や修学旅行で広島に来た子どもたちの感想文集が沢山出されるようになりました。広島平和文化センタ−は、平和学習の成果として学校がまとめた冊子を約350冊(うち120冊は修学旅行記念文集)所蔵しています。被爆体験証言者交流の集いの各団体・グループに寄せられた冊子を合わせれば膨大な数になると思われます。

 この冊子に収められた35点の感想文からも、広島における被爆者と子どもたちの交流の諸相が伝わってきます。子どもたちは、事前に広島についてかなりの学習をしています。事前学習のみでなく事後に文集をまとめる作業が加わることは、授業時間が窮屈になっている今日の教育現場では大変なことでしょう。先生がたのご苦労が偲ばれます。

 証言者の方々が、話されることは同じではありません。自らの体験に重ねて、現在の社会への批判、未来を担う子どもたちへの希望などを話しておられます。これらの話に接した子どもたちの反応も、実にさまざまです。(小学生4・女子)の感想文からは、彼女が、証言をしたSさんの話の中に自分自身を置いて聞いていたことが伝わってきます。(小学校6・女子)は、証言者の話から、自分たちが今いる平和公園で亡くなった犠牲者の気持ちに思いを馳せています。中学・高校生の感想文からは、証言者の戦後の生きざま・現在の思いを、自らの今後の人生の糧(かて)にしようとする決意が感じられます。

 数人の子どもが、被爆者から直接話を聞くのは初めてだと書いています。おそらくほとんどがそうだろうと思います。証言者の話が、子どもたちに強烈な印象を残したことは、「体中の力が抜けてシャーペンが握れなくなりました」(中学生3・女子)、「金縛りにあったようになりました」(高校生1・男子)、「中には気分の悪くなる者や泣く者も出てくるくらいでした」(高校生15・女子)という感想が、リアルに伝えています。「大きくなってもわすれない」(小学校1・女子)という気持ちは、子どもたちすべての気持ちにちがいありません。

 ヒロシマの「思想化」・「普遍化」の必要性は、昔から言われています。この言葉には、「原体験」にのみ頼っていてはだめだというニュアンスが込められている場合があります。こうした被爆体験の否定的なとらえ方は、今日に至るまで存在し続けています。この冊子には収録されていませんが、子どもたちの感想の中にはあるのではないかと思います。しかし、1980(昭和55)年代以降の証言活動の高揚は、原爆被害者自身のこうした社会の無理解との長い闘いの結果もたらされたものでした。

 原爆手記の出版状況を調べてみると、出版が活発になるのは、1968(昭和43)年以降のことです。同年からは毎年400件以上の手記が出版されています。また82年に1000件を超え、現在に至っています。私は、68年以降の手記数の増加の主要な原因として、体験継承を積極的に進める平和教育の存在を考えています。しかし、82年以降の被爆体験の増加は、原爆被害者自身の被爆体験継承への積極的な意欲無しには理解することができません。87年の「被爆体験証言者交流の集い」の結成には、これと同質の意欲が存在するものと推測しています。

 私は、5年ほど前から時々、証言者の方とともにシンポジウムやセミナーで「原爆被害の実相」について説明する機会がありました。また、3年前からは、大学で「ヒロシマの歴史」について話しています。私の話す相手は広島についてのかなりの知識を持っています。知識として私が、相手に提供できるものはほとんどありません。ましてや、私に「あの晩の出会いは永遠のものだ」(高校生1・男子)との感動を与える能力はありません。これらの会合の前に、私はいつもひどく緊張し、後には疲労困ぱいしています。この経験を通じて、「ヒロシマの思想化・普遍化」の作業が、長田新編「原爆の子」を読んだ私たちの世代や、現在の証言者(おそらく「原爆の子」を執筆した子どもたちと重なる世代)から被爆体験を聞いた子どもたちが、つぎの世代に体験を継承するためには、避けることのできない作業のように感じるようになりました。

 この冊子に収録された証言者との交流の記録は、世代を越えた被爆体験継承の作業にとって貴重な資料となるものと思われます。しかし、こうした記録は、証言者に贈られても、図書館に寄贈されることは極めてまれです。この冊子の発行を契機として、感想文集の系統的収集・保存・分析が着手されることを願っています。

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