「17藤居平一」カテゴリーアーカイブ

被害者をめぐる今日までの動き

被害者をめぐる今日までの動き作業中

今日までを三期に分け、(Ⅰ)戦後より講和条約締結(26年9月まで)(Ⅱ)第1回世界大会まで(Ⅲ)第1回世界大会より今日まで、とする。

(Ⅰ)戦後より講和条約締結(26年9月まで)

(1)まず考えねばならないのは、終戦当時一般市民の間に、感覚的と思われるにしても、ガスを吸ったからとか水をのんだからとか、の言葉が自分の症状に十分関係があるが如くに聞かれたものである。

(2)

(3)アメリカへの訴えての救済活動(浜井市長時代)

(4)谷本牧師の動き

(5)広島平和記念都市建設法

(6)ABCCの問題

(Ⅱ)第1回世界大会まで(1955・8)まで

(1)

(2)

(3)広島市原爆障害者治療対策協議会発足

(4)

(5)ビキニ水爆実験を契機として

(6)1954年8月6日の原水爆禁止広島平和大会

(7)

(8)

(9)

(10)

(11)

 

(Ⅲ)第1回世界大会より今日まで、

゜ビキニ事件→被害者救援を刺激(しかしまだ大衆運動とはならぬ)
゜第1回世界大会までは、禁止運動と救援運動は一応無関係(禁止運動は自分たちには無関係で白々しい、という被害者の言葉があったほど)
゜第1回世界大会を契機として事態が一変

◇第1回世界大会(1955・8 於ヒロシマ)の被害者問題における意義

゜大会の討議と結論から次の方向が生まれた。

(a)被害の実相調査

(b)傷害の治療と予防問題

(c)生活保障の問題

(d)自立活動

◇第2回世界大会(1955・8 於ナガサキ)の被害者問題における意義

◇以上の観点からして、第1回大会後今日までの被害者をめぐる動きをみる場合、その活動状態は、(a)(b)(c)(d)の4項目によって整理することができ、その際第2回大会の役割は、それらを飛躍さす契機としてとらえればよいのであろう。

(1)第1回大会以後今日までの動きで特筆すべき組織の結成をまずあげてみる。

(ⅰ)原水爆禁止日本協議会の中に被害者救援委員会が設立された。 1955年9月

(ⅱ)救援委員会の発足。1955年11月26日、原水爆禁止広島協議会の中につくられ、役員としては、委員長(渡辺忠雄氏)副委員長(正岡旭氏、服部円氏他3名)幹事長(藤居平一氏)などをきめた。ただし渡辺氏が委員長を受諾されなかったため、委員が決定できなかった。

この委員会の目的

(a)原爆被害者の不幸な実相をあらゆる人々に伝え、救援を呼びかける。

(b)救援のために努力しているあらゆる団体、個人及び施設と協力して精神面、医療保健面、及び経済面などによりする救援をおこなう。

(ⅲ)全国社会福祉協議会の中に、原爆被害者対策特別委員会が設置される。(1955.11、 原水協関係の委員-山高シゲリ(全地婦連委員長)藤居平一(広島)香田松一(長崎)

(ⅳ)広島市原爆障害対策協議会が、広島原爆障害対策協議会に発展した(1956.4)

(ⅴ)日本原水爆被害者団体協議会の発足

 

1956.8.10 第2回世界大会の中から生まれたこの会の目標と方針は次のように決議されている。

一、

ニ、

三、

四、

五、被害者組織を強化して団結をつよめよう。このためどんな地域でも、被害者のいまいる処には必ず組織をつくり、この協議会に参加させよう。

(ⅵ)

 

(2)具体的に進められてきた活動

(ⅰ)被害の実態調査

(ⅱ)被害者組織の結成

(ⅲ)原水爆禁止運動

(ⅳ)生活と生命を守る運動

(ⅴ)救援金及び救援物資

 

(3)今後の問題点

 

(ⅰ)援護法をめぐる問題点

(ⅱ)根治療法の問題

原爆被害を根本的に治療する方策は、現在のところ、いかなる国においても完成されていないようである。****

この意味で、過去の運動の中で常に唱えられてきた国際的放射線医学研究機関の設置が望まれるのである。ところで最近、広島の医師および原子力科学者(大学人会有志)の或るグループが、医学・物理学・化学の綜合的観点から、広島の原爆症の基礎的な調査、研究を始めているのは注目に値しよう。この成果が一日も早く出されることを期待しよう。

 

(註)本文章の起草は、藤居平一、庄野博允<庄野直美>の両名が担当しました。

 

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資料年表:藤居平一

資料年表:藤居平一<作業中

年月日 事項 備考
1915  0807 広島市の銘木店の長男として誕生。
 1922 広島高等師範学校附属小(碧空会)に入学
 1928  同付属中学校入学
1935 平壌飛行連隊整備隊に入る
1939 航空兵中尉に任じられる
1941 満州国の航空通信第一連隊の第一大隊本部付
1943
02 満州国の航空教育隊に転属。日本へ復員。
04 早稲田大学専門部商科に入学
1127 篠崎美枝子と結婚
1944 日本鋼管横浜鶴見造船所に勤労動員
1945
0806 原爆投下で、父完一、妹、二人の甥などを失う
1946 早大卒。家業の銘木店を継ぎ、広島県銘木森林組合(現広島県銘木事業協同組合)を設立。組合長に就任
1947 日本銘木林産組合(その後全国銘木連合会に改称)を設立。副会長に就任。早大校友会広島県支部幹事長。広島高師同窓会のアカシア会設立を提唱。
1949 近隣に神崎保育園を設立し、後援会長に。
1951 早大商議員に就任し、晩年まで務める。
<以上1915~1951年の事績は『人間銘木―藤居平一追想集』>
1954
1955
1956
1959
1965
1981 
1201 『広島県原水協・日本被団協年表(稿)1954~1958』(宇吹暁、広島大学原爆放射能医学研究所)
 1982
 0126  「まどうてくれー藤居平一聞書(1)」(『資料調査通信 5号』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)【〈聞き手〉宇吹暁、〈聞書作成〉石田典子・寺井裕子】
 0226  「まどうてくれー藤居平一聞書(2原水爆禁止世界大会)」(『資料調査通信6号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
0331   「まどうてくれー藤居平一聞書(3原爆被害者の救援と組織化)、資料、藤居メモ(1)1955年11月~56年3月」(『資料調査通信7号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
0531   「まどうてくれー藤居平一聞書(4広島県被団協の結成)、資料、藤居メモ(2)1956年3月~7月」(『資料調査通信8号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
 0630   「まどうてくれー資料特集」(『資料調査通信9号別冊』広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
 『資料調査通信9号別冊1』
 『資料調査通信9号別冊2』くずれぬ平和を 8・6広島大会、被害者大会議事録[抄]
  『資料調査通信9号別冊3』第2回原水爆禁止世界大会議事速報[抄]
 1983
1031  「まどうてくれー藤居メモ(3)1956年8月~9月」
 『資料調査通信25号別冊1』(『広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
  「まどうてくれー資料特集」1956年8月~9月」
『資料調査通信25号別冊2』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
1130  「まどうてくれー資料特集」1956年10月~12月
資料1:藤居メモ
資料2~8:日本被団協の発行文書
資料9~15:藤居故人・日本被団協に寄せられた書簡
資料16~26:原爆被害者救援をめぐる動向)
 『資料調査通信26号別冊2』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
 1223   「まどうてくれー藤居メモ」1957年1月~2月
 資料1~4:藤居あて書簡
資料5~11:日本被団協結成後初めて開かれた全国代表者会議の資料。
資料12~23:藤居故人あるいは日本被団協に寄せられた書簡
資料24・25:日本被団協に関する新聞記事
  『資料調査通信27号別冊1』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
1984
 0127  「まどうてくれー藤居メモ及び関連資料資料」1957年3月~5月
 資料1~6:藤居あて書簡、
資料7:藤居論文
資料8~23:日本被団協および広島の動向を示す資料。
資料24~32:広島原爆障害研究会、日本原水協などの諸団体資料。
 『資料調査通信28号別冊1』(広島大学原爆放射能医学研究所付属原爆被災学術資料センター資料調査室)
 0229  「まどうてくれー資料資料」1957年3月~5月
1957年8月
12日 開会総会
13日 階層別協議会
14日 分科会
15日 閉会総会
 1996
 0714  病のため死去。80歳。藤居銘木株式会社を閉店。
1997
0417 『人間銘木 藤居平一追想集』(藤居美枝子)
 ****  『広島平和科学』(広島大学平和科学研究センター、1997)
 船橋喜恵「原水爆禁止世界大会「第一回」 : 藤居平一氏に聞く」
2006
 0703  『被爆者運動50年 生きていてよかった<1>~<5>』(『中国新聞』西本雅実編集委員~20060708)
2011
0708 『まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる』(大塚茂樹、旬報社)
0723 大塚『まどうてくれ』出版記念会。リーガロイヤルホテル。宇吹。出席者:大塚夫妻。木内洋育(旬報社社長)。河野一郎(中国新聞文化事業社専務取締役)。阿部静子、池田精子(広島県被団協副理事長)、村戸由子。舟橋。若林節美。石田。松井。安藤。澤野。森田裕美。・・・
2次会:吉田治平(広島市南区皆実町1丁目平和住宅自治会)、籔井和夫(中国新聞経営企画局担当局長兼メディア企画室長)。・・・
 0726  <出版記念会報道>(RCC-N6 被爆者救援運動の原点)「まどうてくれ 藤居平一・被爆者と生きる」 06:41~06:47

まどうてくれー藤居平一・被爆者と生きる

大塚茂樹著『まどうてくれー藤居平一・被爆者と生きる』(旬報社、20110708)

目次

見出し
はじめに
1 本川で鍛えた快速スイマー
2 日本の勝利を固く信じて
3 原爆で死んだ父と妹
4 鈴木店三代目の社長として
5 原爆被害者を救おうという声を受け継ぐ
6 原爆被害者たちの先頭に立って
7 国会請願行動、そして日本被団協の結成へ
8 「まどうてくれ」という叫びとともに
9 実業へ復帰しても志は変わらず
10 反原爆の思いを貫き通して
11 人間の絆を愛し続ける
おわりに

人間銘木-藤居平一追想集

『人間銘木-藤居平一追想集』(「藤居平一追想集」編集委員会、藤居美枝子刊、19970417)

目次

表題 三田嘉一 筆
口絵 略歴
三田嘉一 悲願成就は近からむ
写真でたどる足跡
弔辞 廣安晴通
奥島孝康
田中聰司
同窓・碧空会
同窓・アカシア会
 戸井正典  生活を哲学化
「被爆者援護の在り方を検討していた七人委員会の座長茅さんと、三十分の約束で藤居の希望により長倉司郎」・広藤道男・早大総長秘書に私の四人が同席して茅事務所でお会いしたことがあった」
井内慶次郎 女子大の設立に尽くす
「平成七年秋、・・・最後の別れとなった。その時、藤居さんは原爆問題にいかに取り組んできたかを熱っぽく説かれた。平岡広島市長が熱望する平和研究の拠点を広島市立大学に、どのような構想で設置するか、関係者間で検討されているが、その設置準備委員会の末席を汚している。藤居さんの供養のためにも、国際的で学術的にも高い水準の研究所が実現できればと念願する。」
同窓・稲門(中島正信先生を偲ぶ会)
 田中耕作  恩師への厚い報恩
(稲門・校友会)
田中由多加 被爆者援護にささげて
家業・地域
野本英明 人間銘木を集めた人
「第九回の全国銘木展示会が広島県銘木事業協同組合の実行で四十年十一月四~八日、開かれた。被爆二十周年で春日大社宮司の「木魂祭」があり、大会代表の慰霊碑参拝、原爆病院への見舞いなどが行なわれ、・・・」
原水禁・被爆者運動
伊藤サカエ 被爆者集合を号令
阿部静子 火の玉の救世主
池田精子 娘のように励まされて
高野(旧姓村戸)由子 先生からもらった勇躍
竹内武 生きていてよかった
松井美智子 喰ってかかって泣かせた私
松江澄 一概な愛情にひかれて
山口仙二 誤って奥様の寝床に
森田実 送られた資料の山
吉田嘉清 しびれた運動センス
 伊東壯 「原点」に学ぶ
研究・報道
庄野直美 泊まり込みで激論
広藤道男 被爆線量と向き合う
舟橋喜恵 悲願は世界被団協の結成!
宇吹暁 原爆被害問題研究の恩師
江種則貴 スケールも声も、大きな人
狩野誠一 ヒロシマの先輩
河野一郎 世話役
西本雅実 伝説の居士
水原肇 藤居さんと今堀さん
家族・親族
報道記事
あとがき

藤居平一

 

ふじい へいいち 19150807生 19960417没

 

 略歴
広島市民生委員連盟理事
広島市社会福祉協議会理事
1954.09 原水爆禁止運動広島協議会常任委員
1955.05 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長
1955.09 原水爆禁止日本協議会常任理事
1955.11 原水爆禁止広島協議会事務局次長
1955.11 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長
1956.02 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長
1956.05 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長
1956.05 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表
1956.08 日本原水爆被害者団体協議会事務局長

 

原爆被害問題研究の恩師

 「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。

私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。

私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。

それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。

この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。

竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。

1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。

藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。

藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。

1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。

同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。

私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。