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平和式典の主催者

平和式典の主催者

平和式典の初期の主催者は、広島平和祭協会(1948年6月広島平和協会と改称)であった。広島平和祭協会は、会則により、事務所を広島市役所内に置き(第1条)、会長は広島市長が就任することになっていた。しかし、副会長は「広島商工会議所会頭、市会議長及委員会デ選任セラレタルモノ」の3人(第4条)とされ、また、協会独自の予算をもっており、広島市とは独立した組織であった。第2回平和祭が開催された48年度(昭和23年度)決算の場合、分担金収入は158万7,800円であり、その内訳は、広島市60万円、広島県30万円、正会員分担金 68万7,800円(289口)となっている(「昭和23年度広島平和協会事業報告」)。また、50年度予算では、収入総額250万円のうち、広島市が150万円、広島県が50万円をそれぞれ分担することになっていた(「昭和25年度広島平和協会収支予算書(案)」)。

マスコミは、毎年8月6日が近付くと平和協会の平和式典への取組を報道していたが、1952年以降、そうした報道は見られなくなった。平和式典は、52年から54年までは、広島市と平和協会で共催されたことになっている。しかし、平和協会はすでに有名無実化しており、54年に改組の動きが見られた。7月13日、原・水爆禁止広島県民運動連絡本部は、平和記念日の行事に関する第1回準備委員会を開催し、その中で、広島平和協会を解消し、「民主、婦人、PTA、労組、宗教、文化、教組など平和につながる各種団体を網らした新しい平和協会を8月6日までに結成」することを申し合わせた(「中国新聞」54年7月15日)。浜井広島市長は、この動きを了解するとともに、平和式典の市との共催を止め、当初のように平和協会のみで開催したい意向も持っていたと伝えられる(「中国新聞」54年7月25日)。しかし、これは、市議会の反対により実現しなかった。平和協会は、7月29日、委員会を開催し、これまでどおり広島市と平和協会の共催で式典を開催することと、平和式典の予算32万7,000円(広島市が20万円、県が10万円を助成)を決定した。

平和式典は、1955年からは、広島市が単独で主催するようになった。その後、60年のみ、県と共催で開催された。これは、県からの強い働きかけの結果であり、その経緯はつぎのようなものであった。
1960年1月21日、平塩五男広島県議会議長は、木野広島市議会議長に対し、8月6日に県・市合同の原爆死没者慰霊祭を開きたい旨の申し入れを行なった。そして、翌22日には、広島県・市両議会の正副議長名で、同様の声明を発表した(「中国新聞」60年1月23日)。2月17日、この慰霊祭について県・市、県・市両議会の4者代表者会議が持たれ、まず県議会側からつぎの説明がなされた。

①昨年12月の県会で、原爆15周年の県慰霊祭開催を決議している。
②できれば、県・市合同で開きたい。
③同慰霊祭には皇太子殿下[明仁親王、現天皇]をお招きするほか、岸首相、衆・参両院議長、各党党首の参列を求める。
④慰霊祭は全県民の祈りにふさわしく、8月6日の午前8時15分を中心に開きたい。

これに対し、市と市議会側は、「8月6日の平和記念式典は9年間の歴史的行事なので、8時15分は避けて開くことはできない。合同慰霊祭の趣旨には賛成だが、二つの集会の場所や時間的な問題を検討したうえで次回の会議で結論を出したい」と即答を避けた(「中国新聞」1960年2月18日)。

2回目の会合は2月26日に開かれ、4者の間で、(1)慰霊祭と平和記念式を共同主催で行なう、(2)開催時刻は原爆が投下された午前8時15分を中心に午前7時半ごろから同8時半までとし、平和記念公園(原爆死没者慰霊碑前を予定)で開く、(3)具体的な計画は四者の代表で準備委員会をつくってすすめる、との3点が確認された。3月28日には、準備委員会の構成と式典に皇太子を始め岸首相、衆参両院議長、各政党代表を招待することを決定した。5月8日の第1回準備委員会では、式典の正式名称を「原爆15周年慰霊式並びに平和記念式典」とすること、当日弔旗を掲げること、式典には政治的・思想的な団体の参加をいっさい認めず、静かに原爆犠牲者の冥福を祈る日とするなどの方針が決定された。その後、5月9日、大原知事による皇太子夫妻の参列要請、7月中旬、県議会3党(自民、社会、民社)派代表による党首参列折衝、県教委と県体協による原爆15周年平和記念総合体育大会および県内4コースからの線香リレーの具体化など、それまでの式典前にはみられなかった大規模な準備が進められた。