「02青森県」カテゴリーアーカイブ

反核燃の日全国集会

反核燃の日全国集会

出典: 青森県史デジタルアーカイブス
検索条件:被爆者

第04章 巨大開発と原子力の時代
第2節 むつ小川原巨大開発
3 核燃料サイクル施設の建設
資料番号12 反核燃の日全国集会
ページ 236~238
反核燃の日全国集会

人類とは共存できぬ/六ケ所で反核燃の日全国集会
建設断固阻止を決議/県内で最大級 1万1千人参加
上北郡六ケ所村で進められている核燃料サイクル施設の建設を阻止し脱原発を目指そうという「4・9反核燃の日全国集会」が九日、同村尾駮浜を中心に開かれ、全国の市民団体や社会党、県労などの労組員ら約一万一千人が参加し「核燃サイクル断固阻止」を決議した。また、参加者全員で建設予定地を「人間の鎖」で包囲した。この日の参加者数は県内では過去最大級で、反核のうねりが全国規模で大きく広がっていることを見せつけた。
この集会は、四年前の昭和六十年四月九日に青森県が核燃サイクル施設の受け入れと協力を決めたことから、反原発を掲げる市民グループがこの日を「反核燃の日」として位置付けている。集会は、社会党や県労で組織する「青森県反核実行委員会」(委員長・鳥谷部孝志県議)の呼び掛けに応じた東北、北海道を中心とする労組員のほか、全国各地の市民グループら約一万一千人が参加して開かれた。
午後零時半から尾駮浜で開かれた全国集会では、社会党の山口鶴男書記長が「F16の模擬弾誤射や活断層のある六ケ所村に核燃料サイクル基地を建設するのは国民を無視するもの。建設を阻止するまで断固戦い抜く」とあいさつ。広島から集会に加わった森滝市郎原水禁代表委員も「核と人類は共存できない。核がある限り、このような過程で被爆者が増える」と、建設阻止を訴えた。
さらに、現地六ケ所村から坂井留吉核燃から漁場を守る会副会長が「第一回の集会はわずか七十人の参加者だった。六ケ所の現地をよく見て全国の人に教えてほしい」と訴えた。続いて、「いまからでも遅くはない。原発・核燃NO!」のアピールを決議。
このあと、参加者全員はウラン濃縮工場予定地と再処理工場予定地の二手に分かれてデモ行進、花火を合図に手をつなぎ、核燃サイクル予定地の東西側の約八キロを「人間の鎖」で包囲した。
一方、尾駮浜での集会に先立って市民グループの約三百人は同村泊の泊漁港荷揚げ場で反核燃集会を開き、泊地区をデモするとともに毎戸にチラシを配布し、漁業と核燃は共存しないと訴えた。市民グループは十日には、青森県庁のほか日本原燃サービス㈱、日本原燃産業㈱などを訪れ、抗議の文書を手渡すなどの抗議行動を行う予定でいる。
国政の場で歯止め/参院立候補予定者の姿も
解説 一万人を超すこの日の集会は、反核燃が単に六ケ所村や青森県内だけにとどまるものではないことを全国にアピールした。だが、「核燃建設断固阻止」の訴えの中に、具体的にどのようにして建設を中止に追い込むかの方法論が欠けていたのは否めない。具体策のない集会は一過性のお祭りに終わる危険性があるとの批判の声も出た。
その具体的な答えのひとつが、この集会の参加者の中にあった。この夏の参院選に反核燃・反原発を掲げ立候補を予定している人と、それを支援する市民グループの参加が目立ったことである。原燃事業二社が合法的に建設を進めるなら「その法律自体を変えるか、脱原発法を成立させよう」とする動きである。当選後はひとつの政党に結集し発議権を得ていこうとする方法である。そのための全国ネットワークづくりの準備も進んでいるという。
青森県を振り返って見ても、農業者の代表が立候補を予定している。人選が難航しているが、候補者が決まれば建設中止一万人原告訴訟団も「積極的に支持する」との考えを明らかにしている。
核燃サイクル事業二社は、建設中止を求める人々が〝特殊な人たち〟ではなく、全国のごく普通の人々であることを今一度、考える時期と言えよう。

核燃基地を〝人間の鎖〟で包囲
反核に揺れる六ケ所/切実な願い 大きな輪
核燃料サイクル基地を封じ込めるようにつながった一万人の「人間の鎖」―。四回目の反核燃の日4・9大行動は、かつてない盛り上がりを見せた。参加者は昨年の三百人から一挙に一万九百十五人(主催者発表)。組織動員に加え、全国から自費で参加した市民グループの人々の数は六ケ所村の人口に匹敵し、村を揺り動かした。「事が起きてしまってからではだれも責任をとれない」と車いすから訴える水俣病患者。「子供のためにも核燃はあってはならない」と話す主婦。時折小雨の降るこの日の尾駮浜は、反核燃の切実な願いが大きな輪となった。
車イスの水俣病患者も訴え
泊漁港
市民団体主催による六ケ所村泊漁港での集会で始まった。地元六ケ所村の坂井留吉さんが「原発、核燃は断固阻止しなければならない」と口火を切ったのをはじめ、各地、各市民団体の代表が次々とマイクを握った。
仲間八人とともに熊本から駆けつけた<伏せ字 A>さん(五三)は、水俣病の後遺症で車イスの生活。「水銀もウランも、人間をむしばむもの。事が起こってからでは遅い。水俣の二の舞を踏んではならない」と語気を強めた。
デモ
泊漁港での集会参加者約三百人はそのまま、泊部落内のデモ行進に移った。「原発なしの暮らしにかえろう」「とめろ! 核燃」など思い思いのスローガンをゼッケンにしたため、千枚のチラシを村内に配りながら「核燃阻止」を訴えた。
四歳の長女の手を引きながらデモに参加した<伏せ字 B>さん(三八)=大阪府大東市=は「大東市の命と食べ物を考える会」のメンバー。「核燃はあまり関心なかったのですが、チェルノブイリの事故が大きなきっかけになりました。知れば知るほど怖くなりました。将来困っても解決できない原発は、子供たちには残せません」ときっぱり。
大集会
核燃サイクルからの温排水が三キロ沖合の海底に放出されることから、一部漁業権を譲り渡した六ケ所海水漁協のある同村尾駮浜。湿った海風が吹きつけるこの砂浜に、一万一千人が大型バス百九十台で駆けつけた。主催者の一人、花田敏夫県労議長は「私の記憶ではこれまでの最高は昭和三十八年、F105反対三沢集会に集まった八千五百人。これは軽く上回った」と大きな反響に表情を引き締めた。
山口鶴男社会党書記長のあいさつのあと、農業団体を代表して木村義雄東北町農協理事、寺下力三郎・核燃から郷土を守る上十三地方住民連絡会長らが「ふんどしを締め直して反対を戦い抜こう」と訴えると、参加者からは「そうだ!」の大合唱が起こった。
会場には各労組の旗に混じって、東北町農協の「反核燃」と朱書きされたムシロ旗も立ち、単なる労組の組織動員ではないことを印象づけた。
対応
原燃二社はこの日は休日。社員が待機しているはずの寮に人気はなく、逆に閉まっているはずの建設予定地内の事務所裏にはマイカーがずらり。同村大石平にある原燃PRセンターの入口には「都合により四月八、九日は臨時休館」のはり紙があり、正面駐車場は鎖で閉鎖したままだった。
世代、組織のワク超えて
人間の鎖
全国集会のあと、参加者は二手に分かれて、約八キロ離れた核燃サイクル基地建設地の包囲行動へ。世代や職業や組織のワクを超えたデモ行進が続いた。
約二時間のデモ行進のあと、のろしを合図に一斉に参加者が手をつなぎ、〝人間の鎖〟で核燃基地を取り巻いた。「核燃基地を包囲したぞ!」「子供たちに核燃を残すな!」―シュプレヒコールが渦巻いた。
埼玉県からきた<伏せ字 C>さん(二四)は「本当は核燃なんて他人事のように考えていたんです。でも六ケ所にきて危機感が実感できました。埼玉に帰ったら友達にもっと核燃の現状を伝えたい」と話し、仲間と一緒に「核燃反対」のハチマキをサイクル基地のフェンスに結びつけていた。

(資料年月日)1989年4月10日 (出典)『デーリー東北』デーリー東北新聞社所蔵
(解説) 原子力発電とは、燃料となるウランの核分裂による熱で水蒸気を発生させ、蒸気タービンや発電機を回して発電することである。この使用済み核燃料を再処理し、核分裂で生成したプルトニウムと核分裂しなかったウランを回収して、高速増殖炉などで核燃料として再利用することを核燃料サイクルといい、再処理をおこなう施設を核燃料サイクル施設という。日本はウラン資源を海外に依存しており、核燃料サイクルができればウランエネルギーの自給率が高まることから、政府や電気事業連合会(電事連)はこの計画を推進している。
1980(昭和55)年、再処理工場を経営する日本原燃サービス会社が設立され、施設建設の適地に受け入れがいくつかの地域に要請された。しかし、ウランの核分裂でできるプルトニウムは、半減期が2万4000年以上と長く、放射性廃棄物の処理に危険性が高いということで、要請された地域はいずれも拒否する。そこで六ヶ所村に受け入れ要請がくることになった。六ヶ所村には、むつ小川原開発における広大な買収用地と核燃料荷揚げ用の港があった。さらに60年代にむつ市大湊が原子力船むつの母港だったことで、国は下北半島を原子力基地と位置づけようと考えていた。
一方、開発を進めたい青森県は、むつ小川原石油備蓄会社に続く進出企業が決まらないことから、開発区域内への核燃料サイクル施設立地を構想し、電事連に受け入れの意向を伝えていた。こうして85年4月18日、青森県、六ヶ所村、事業主の日本原燃サービス株式会社、日本原燃産業株式会社、電事連の5者が立地基本協定(資料121)に調印し、核燃料サイクル施設が建設されることになった。資料122は、協定の調印を報じた新聞記事である。
その後、建設される核燃料施設は次の5施設となった。
①再処理工場
②ウラン濃縮工場
③高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター
④低レベル放射性廃棄物埋設センター
⑤MOX燃料工場
六ヶ所村において、核燃料施設建設反対運動は、寺下元村長らの「六ヶ所を守る会」・泊地区の「核燃から漁場を守る会」・女性がつくる「核燃から子供を守る母親の会」が中心となった。そして85年と86年の海域調査問題で高まりを見せたが、一方で建設推進派もおり、両派は対立していた。そうしたなか、86年4月26日、ソビエト連邦チェルノブイリで原子力発電所の爆発事故が勃発し、深刻な放射能汚染が起こった。この事故は世界中に衝撃を与え、各国エネルギー政策の転換や地球環境問題への関心を高めることになった。青森県においても弘前市の主婦グループが「放射能から子どもを守る母親の会」を結成、八戸市の市民グループ「死の灰を拒否する会」は、「核燃サイクル阻止一万人訴訟原告団」を結成するなど、88年になると反対運動は全県的に広がっていった。翌89年4月9日、六ヶ所村での集会には、県内外から約1万人が参加する大規模なものとなり、反対運動はピークを迎えることになった(前掲『巨大地域開発の構想と帰結』)。ここでは反核燃の日の全国集会を報じた新聞記事を資料123に掲載した。
反対運動にもかかわらず、核燃料施設は建設され、ウラン濃縮工場、高レベル放射性廃棄物貯蔵管理センター、低レベル放射性廃棄物埋設センターはまもなく操業を始め、再処理工場は建設後稼働が試みられている。
2011(平成23)年3月11日の東日本大震災の後、福島第1原子力発電所が爆発し、放射能汚染事故が発生した。その後、全国の原子力発電所や原子力関連施設は停止となり、再稼働は点検終了後に判断されることになった。
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三沢大集会に万余の人々結集

「三沢大集会に万余の人々結集」

出典: 青森県史デジタルアーカイブス
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第02章 日米安保体制下の青森県
第3節 「同盟」の深化と自衛隊
1 基地と装備の拡充
資料番号62 三沢大集会に万余の人々結集
ページ 105~107
核兵器廃絶、F16くるな!!
三沢大集会に万余の人々結集/日米両政府に抗議文核攻撃機F16の三沢米軍基地配備に反対する大集会は五月二十六日正午から三沢市中央公園で、北は北海道から南は沖縄県、二十六都道府県から一万人を超す参加者によって開かれました。
大集会の中央舞台には大きく、核戦争阻止、核兵器全面禁止、日米安保条約廃棄、F16核攻撃機配備反対、三沢基地撤去、5・26三沢大集会とくっきり書かれ、文化行事にはじまり、きたがわてつ、のオープニング演奏、各県のうたごえ集団の賛助出演で集会は開始されました。
大集会の主催団体は、原水爆禁止日本協議会、日本平和委員会、基地対策全国連絡会議、安保破棄諸要求貫徹中央実行委員会と東北六県のF16・トマホークくるな連絡センター。四月二日三沢基地にF16が三機配備されてから初の全国的な規模の反対集会です。F16配備で最前線基地に
文化行事のあと、青森県原水爆禁止協議会大塚英五郎理事長が主催者を代表してあいさつに立ち「F16配備で三沢米軍の部隊名は第四三一戦術戦闘航空団という。これが彼等の名前、いかにも対ソ核戦争の最前線部隊であることが、名称によっても表われているではありませんか。
津軽海峡封鎖作戦演習もふくめ日米合同軍事演習はヒンパンに行われており、もし米ソ戦となれば中曽根の言う日本は、不沈空母になることを如実に物語っています。  我々は人類絶滅の核爆弾廃絶のため、F16反対運動を続けると同時に、広島、長崎からのアピールを支持する署名を国民の過半数から集めることに全力をあげながら今年の原水爆禁止世界大会を成功させましよう」と力強く述べましした〔ママ〕。

立木参議員〔立木参院議員〕のあいさつ
来賓の日本共産党常任幹部会委員の立木洋参院議員は「加藤防衛庁長官は十七日、三沢に視察にきて、F16配備は日本の安全と防衛にとっても重要であると述べましたが、とんでもないことです。
核爆弾を積むF16は戦闘爆撃機で、しかも天ケ森で爆弾投下訓練をおこなうなど、明らかに核戦争をおこなう基地となることであり日本を核戦争の脅威にさらすものです。」と述べ日米両国政府の好戦政策をきびしく糾弾、日米安保条約廃棄を強く要求しました。
同議員はまた、「こうした危険な三沢基地に、思いやり予算と称して中曽根政府は三百億円以上もF16配備に必要な金を支出しています。
国民の生活が苦しいときに、ひどいことをするもので許せません」と訴えました。
続けて立木議員は、昨年末の核兵器廃絶をめざした日ソ両党共同声明以後の情勢についてふれ、米ソ外相会談での共同声明など国際政治舞台での核兵器問題で大きな変化があるが、まだこの核兵器廃絶を永遠のかなたに追いやるレーガン米大統領、日本の国会決議など逆流も生れていると指摘、「反核国際統一戦線の結成、ヒロシマ、ナガサキからのアピール支持署名をいっそう広める決意を固めましよう」と呼びかけ、核基地撤去のためたたかおうと結びましした〔ママ〕。

千歳・沖縄各代表が決意表明
つづいてF16と共同作戦をおこなう自衛隊の戦闘機F15駐屯の千歳基地の市平和団体代表、横田基地のある東京平和委員会代表、沖縄の代表、東北を代表して岩手県代表、地元三沢のF16・トマホークくるな!センター代表などが次々と核兵器ノー、F16くるな!と気迫をこめ決意表明しました。

政府への抗議文
大集会は参加者の大きな拍手で政府に対する次のような抗議文を提出することを決めました。

抗議書
去る四月二日、核攻撃の任務をもつF16戦闘機の三沢配備が強行された。
このF16核攻撃機の三沢配備は国是である「非核三原則」をふみにじる公然たる核兵器の持ち込みであり、三沢基地を極東最大の対ソ最前線核攻撃基地とするものである。
F16核攻撃機の三沢配備によって、我が国は文字通りアメリカの「不沈空母」とされ、日本全土が核戦場化される危険が飛躍的に高まっている。
自民党中曽根内閣は、このF16核攻撃機の三沢配備を認め、今国会で、日米共同作戦の際の米軍による核兵器先制使用と三沢基地での核模擬爆弾演習を容認する発言を行っている。
このような中曽根内閣の態度は核戦争阻止、核兵器全面禁止、廃絶の国民の願いと要求にそむくものであり、断じて許すことができない。
5・26三沢大集会に参加した我々は、F16核攻撃機三沢配備を容認する日本政府に断固抗議し、その撤去を強く要求する。
右、決議する。

レーガン米大統領へ抗議文
広島、長崎への原爆投下によって三十数万人の無コの命が奪われた被爆四十周年をわれわれは迎えている。
いまなお日本には四十万人に近い原爆被爆者が「いのち」「くらし」「こころ」の苦しみに耐え、過酷な日々を生き抜いている。
被爆者は「原爆は人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許しません。
核兵器はもともと「絶滅」だけを目的とした狂気の兵器です。人間として認めることのできない絶対悪の兵器なのです」とその廃絶を訴えている。
そして日本国民の圧倒的多数も核兵器の使用を認めず、その全面禁止を要求している。
しかるに貴国政府は、核兵器の開発競争を続けるばかりか、日米安保条約をタテに、わが国に核戦争のためのシステムを設置し、さらに四月、ここ青森県三沢市に、核攻撃機F16の配備を開始した。
日本国民は、世界最初の被爆国が核戦争の基地とされ、核戦場となることを絶対に拒否する。
われわれは、満身の怒りをこめて、貴職に厳重に抗議し、要求する。F16の三沢配備計画を中止せよ。配備ずみのF16三機を、直ちに撤去せよ。

(資料年月日)1985年5月30日 (出典)『北奥民報 第184号』三沢市立図書館所蔵
(解説) 資料51は1962(昭和37)年3月刊行の『米軍三沢基地の実態』に掲載された米軍三沢基地の現状報告である。同年2月にはアメリカ大統領ケネディがベトナム戦争を拡大し、戦略村と称する農耕集落を建設して農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。B52戦略爆撃機の三沢飛来が確認され、三沢基地がベトナム戦争に組み入れられていることが強調されている。三沢基地はソ連と対峙するばかりでなく、アジア全体の米軍戦略上の拠点となっていた。
資料52は1970年の日米安全保障条約の改定を翌年に控えた1969年6月に刊行された『青森県下の軍事基地』のうち天ヶ森射爆場と基地関連労働の部分を収録したものである。天ヶ森射爆場は旧海軍航空隊の射爆場を1949年に米軍が接収したもので、天ヶ森の740万平方メートルが演習場で、海側は46.6平方キロメートルが漁業制限区域となっている。
また、基地で働く労働者3000人のほか、国鉄・日本電信電話公社など基地に附帯する事業で働く労働者の概要を知ることができる。労組の反戦・基地撤去の方針と基地撤去が自らの生活手段を奪うことの矛盾の中に生きる基地労働者について言及している。
防衛施設庁による在日米軍基地の実態調査が資料53である。調査は1970年3月から5月上旬までで、当然沖縄の基地は含まれていない(沖縄返還は1972年)。青森県の施設数は7か所で、神奈川・東京・福岡・長崎に次いで、北海道と同数の5位である。
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年表:青森のヒバクシャ

年表:青森のヒバクシャ(作業中

主な出典:『日本被団協50年史』(略号:50年史)
年月日 事項 備考
1960
08 第6回原水爆禁止世界大会に奈良義一(青森県弘前市)参加。
1127  青森県原爆被害者の会結成。
1961
1963
1008 原水爆禁止と被爆者援護法制定を訴える「折り鶴行脚」東北コース、蓮心寺(青森市)に50名が集まり出発。
1995
 09  『青森県の被爆者 : 50年後に語られた広島・長崎の証言』(青森県原爆被害者の会)
2011
**** 『青森県の被爆者第二集 : 核兵器のない世界をめざして』(青森県原爆被害者の会)
2016
0728 青森市平和の日(第1回)
  関連イベント「原爆と人間展」(8月6日~9日、連絡先:青森県原爆被害者の会)2016-0701.pdf (city.aomori.aomori.jp)
1112 青森県原爆被害者の会(田中生司会長)の呼びかけで市内の福祉増進センター(しあわせプラザ)に27団体33人が参加し「ヒバクシャ国際署名」をすすめる青森県連絡会を結成。青森県原爆被害者の会、原水爆禁止青森県民会議、青森県原水爆禁止協議会、青森県生協連(青森市柳川、平野了三会長)など15団体が正式に加盟、事務局を青森県生協連に置くことを確認。青森県生活協同組合連合会|県生協連ニュース
1212 「ヒバクシャ国際署名」をすすめる青森県連絡会、青森市さくら野デパート前で結成後初の宣伝・署名行動。田中正司青森県原爆被害者の会の会長、今村修原水爆禁止青森県民会議会長、谷崎嘉治原水爆禁止青森県協議会会長、鎌田敦子青森県生活協同組合連合会常務理事ら10団体から17人が参加。約40分の行動で56人分の署名と募金。 « 原水協通信 on the web (antiatom.org)
2017
0131 「青森県原爆被害者の会会長 田中正司さん(90)に聞く」(『赤旗』)
2018
2019
2020
0113 「原爆と人間」展(青森市原水爆禁止の会・原水爆禁止青森県協議会主催)、長崎市中央市民センターで開催。県原爆被害者の会の会員が広島市爆心地での体験を語る。朝日新聞デジタル (asahi.com)
**** 「結成60周年記念誌未来につなぐ『原爆はいらない』青森県原爆被害者の会」発行。
0806 藤田和矩青森県原爆被害者の会会長、新型コロナウィルス感染再拡大を受け広島市の平和記念式典への出席を断念(『毎日新聞』地方版)青森 | 毎日新聞 (mainichi.jp)
2021
1128 青森県原爆被害者の会(藤田和矩会長)、山口彊さん(広島・長崎に投下された原爆被爆者、享年93)の家族の思いを聞く会をYSアリーナ八戸で開催。デーリー東北デジタル (daily-tohoku.news)

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青森のヒバクシャ

青森のヒバクシャ<作業中

関連資料

県内被爆者数 41人(2021年3月末現在)
被爆者対策
被爆者団体
東奥日報 8月6日社説
1991年 被爆体験が平和貢献への原点
青森県原爆被害者の会 結成60周年記念誌を発行 [核といのちを考える]:朝日新聞デジタル (asahi.com)20201125
 被爆証言関係団体 青森県原爆被害者の会(青森ひばの会)(19950901、20110801)
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第04章 巨大開発と原子力の時代 ,第2節 むつ小川原巨大開発 ,3 核燃料サイクル施設の建設 ,  , 123 , 反核燃の日全国集会
宮崎道生『青森県の歴史』(山川出版社、19700101) 言及なし