「2-3平和式典の準備」カテゴリーアーカイブ

式典にともなう規制(宇吹メモ)

式典にともなう規制(宇吹メモ)

年月日 事項 備考
~1956 空からの取材の規制(1956年まではあり)
19630806 前夜の世界大会で踏みにじられた平和公園。
慰霊碑前の式典列席者の席はボーイスカウト広島県連盟・広島市消防局員など150人を動員して警備。
19640605 広島市は8月5・6・7日の3日間、平和記念公園の原爆慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定。
1965年も。
196704 山田節男、市長となる。平和公園の聖域化構想を打ち出す。
196902 公園内で市の許可を受け営業をしていた7業者の営業許可中止を決定。
19690805 広島県公安委員会、「8・6広島反戦集会実行委員会」から出されていた6日午後6時からのデモ行進の申請を、「コース変更」の条件付きで許可。理由は、とうろう流しに支障があるため。県公安条例に基づくデモ申請でコース変更という条件付きで許可されたのは、67年11月15日の羽田不当弾圧反対闘争(広大教養部学友会主催)のデモに次いで2度目。
1971 警備本部を設置し、式場内外の警備を強力に行うようになる。
19710804 広島県警察本部、「八・六平和祈念式典警備本部」を広島西署に設置。5・6両日は広島県警の1,800人のほか、大阪・兵庫・京都の3府県、広島以外の中国4県から応援を求め、計2,700人を動員。
1972 広島県警察本部、「八・六県警備本部」と「八・六現地警備本部」を広島西署に設置。1,000人動員。
1972 平和公園一帯の交通規制(「市政と市民」ではこの年から)
19730803 広島県警察本部、「八・六警備本部」を広島西署に設置。1,200人動員。
19740804 広島県警察本部、「八・六警備本部」を設置。1,300人動員。
19740805 23人逮捕
1975 県警、1,500人を動員。
1975 百米道路(NHK前-西平和大橋)900メートルを式典前後(午前7時から10時までの3時間)に車両の通行止めを行い、「静かな祈りの日」とする。
1976 県警、2,000人を動員。(他県から応援を求める)
1976 百米道路の車両通行止を平年度化。
1977  県警、1,500人を動員。(他県からの応援なし)
 1978  県警、1,300人を動員。
19790804 広島県警察本部、「八・六警備本部」を設置。
19790804 1,500人動員。
19810804 広島県警察本部、「警備本部」を設置。4-6日に延べ4,500人動員。中国・近畿の両管区から500人応援。
19820804 広島県警察本部、「警備本部」を設置。4-7日に延べ5,100人動員。5日1,800人、6日2,000人。
19830804 広島県警察本部、「総合警備本部」を設置。岡山・山口など4県警の応援200人を含め、4-6日に延べ6,000人動員。6日は2,500人。過去最高の動員。
19840804 広島県警察本部、「警備本部」を設置。4-6日延べ4,000人動員。
19850803 広島県警察本部、「警備本部」を設置。3-6日最高2,700人動員。
1986 広島県警察本部、「警備本部」を設置。6日1,800人動員。
19870803 広島県警察本部、「警備本部」を設置。3-6日延べ8,200人動員。
19880803 広島県警察本部、「警備本部」を設置。3-6日延べ8,500人動員。
 19890803  広島県警察本部、「警備本部」を設置。3-6日延べ8,300人動員。
 20210716  <バッハIOC(国際オリンピック委員会)会長、広島平和公園訪問。警備費379万円余は広島県・市が折半負担。>
 20210806  広島県警、平和公園周辺で交通規制。

 

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

平和式典の会場-平和記念公園(市民の奉仕活動)

(3) 市民の奉仕活動

式典に備えての会場の清掃は、広島市の重要な業務であった。早い時期から市の幹部が先頭に立って実施することが慣例となっている。1965年(昭和40年)には7月31日に浜井広島市長始め市職員200人が、また、翌66年には8月1日に市職員500人からなる広島市都市美化推進本部(本部長:加藤政夫助役)が清掃を行なった。70年からは、7月5日にスタートした広島市の「シティ・クリーニング作戦」の一つとして清掃が行なわれるようになった。7月28日、山田広島市長を始め、市内38学区から約400人が集まって平和記念公園を清掃している。この時母体となったのは、広島市公衆衛生推進協議会(61年7月17日結成)で、これ以後、同協議会のメンバーと広島市の幹部職員とによる一斉清掃がなされるようになった。
平和記念日前に平和記念公園を清掃する人々の中には、さまざまな市民グループの姿も見られた。1953年8月5日には、戦災供養塔周辺を清掃する天理教信者など市民170人の姿があった。平和の灯奉賛会の人々は、64年に点灯して後、平和記念日前と年末に「平和の池」の清掃を実施している。また、69年からは、神崎小学校学区子供会が保護者とともに清掃奉仕活動を行なうようになった。このほかに、ローターアクトクラブ、金光教信者、安佐地区身体障害者連合会、共同石油広島支店社員、出光興産社員、西古谷子供会、老人クラブ、被爆者や遺族のグループなどが、一斉清掃に加わったり、独自に清掃作業を行なったことが、新聞報道により確認できる。
式典当日にも、多くの市民の協力が見られる。ボーイスカウト広島県連盟広島地区のメンバーは、、1968年に参道両側に花垣が設置されるまでは、式場中央に設けられる参道の警備に協力した。また、それ以後も、参列者が原爆死没者慰霊碑に供えるための花の手渡し(70年以降)や平和宣言パンフレットの配布(75年以降)を担当している。91年の式典では、400人のボーイスカウトが、式典会場での奉仕作業に参加した。広島茶業協同組合は、65年から会場での茶の接待を開始し、91年には、30人が1万杯の湯茶を提供した。また、広島市青年連合会も、68年以降、おしぼりの接待を行なっている。
広島花木地方卸売市場の株式会社「花満」は、「流れ献花」で使用される花100束を、この式次が1970年に採用されてから寄贈し続けている。また、同年には、市民一人一人が花一輪ずつを持参し、原爆死没者慰霊碑に供えようという「花一輪運動」が始まったが、広島県生花商組合は、花を持参しなかった参列者のために大量の花を寄贈している。91年には、キク、グラジオラス、ケイト、ユリ、バラなど17種類の花約2万本を寄贈した。
1954年から毎年、式典の中で大量の放鳩が行なわれている。この時使用される鳩は、各種の競翔団体から借り受けているが、91年には、広島中央競翔連合会、広島平和競翔連合会、山陽競翔連合会、日本伝書鳩協会(広島支部・広島北支部・呉支部)の提供によるものであった。

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

平和式典の会場-平和記念公園(設営)

(2)
平和記念公園で初めて開催された1952年(昭和27年)の場合、式典会場には、わずかの椅子しか準備されておらず、大部分の人々は、座り込むか、立ったまま参列していた。64年以降、来賓や主催者以外の参列者への椅子席が設けられるようになった。64年に、遺族や老齢者のための椅子席が設けられ、その後、一般席(66年)、特別被爆者席(68年)、障害者席(81年)が設置された。椅子席の数は、新聞報道によれば、68年以後、約1万人分が設営されるようになっている。91年の場合、椅子席の合計は、1万2,945席で、その内訳は、特別来賓・主催者用480席、被爆者・遺族用3,000席、都道府県遺族代表用84席、認定被爆者用456席、身体障害者用54席、流れ献花者用96席、一般用8,775席であった。これらの椅子は、市内小中学校28校から借り集められた。
1991年の設営では、原爆死没者慰霊碑から広島平和記念資料館の間の広場のほぼ全面に椅子席が設けられた。しかし、それでも多くの参列者は、立ったまま参列しなければならなかった。この年の参列者は5万5,000人と発表されており、この年には、4万人以上が、式場周辺で立ったままの参列していたことになる。78年から、こうした参列者のために、式典モニターテレビが設置されるようになった。当初は、6台であったが、その後増設され、91年には16台が設置された。
このほか、合唱団・吹奏楽団用の山台の設置(1969年)、式台・鐘つき台の設置(70年)、献花台の設置(76年)などの改良が加えられた。また、70年に式典表示パネル「25周年広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が原爆資料館壁面に掲示され、75年からは、毎年掲示されるようになっている。

 

平和式典の会場-平和記念公園

(1) 平和式典の会場-平和記念公園

平和式典は、「平和広場」(1947と48年)、「市民広場」(49と50年、50年は予定)、戦災供養塔前(51年)と、その会場を転々と変えていた。しかし、52年(昭和27年)以降、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前で開催されるようになった。
平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。
この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。
①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)
1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。
碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。
一方、当初の案の「平和会館」は、その後、平和記念都市建設法にもとづき広島平和記念資料館(1951年3月着工、通称「原爆資料館」)、広島平和記念館(52年3月着工)の2施設として、また、広島市公会堂(53年11月着工)が、財界の寄付により着工され、55年の2月から8月にかけて竣工した(広島市役所『市勢要覧 昭和34年度』)。
平和記念公園は、公費とは別に、民間団体の寄贈によっても次第に整備された。広島市未亡人会は、1955年8月5日、原爆死没者慰霊碑前に花台を奉納した。建立以来碑前には、粗末な竹筒で花が供えられていたが、これを見かねた同会が原爆10周年を記念して送ったものであった。57年8月3日には、原爆死没者慰霊碑の周囲に完成した「平和の池」の贈呈除幕式が行なわれた。この発端となったのは、前年秋広島で開催された第5回日本青年会議所会員大会であった。大会では、「大会の記念事業として記念施設を広島に残そう」との決定がなされ、全国の青年会議所会員が20万円を寄せた。これを受けた広島市は、「業火のうちに散っていった20数万人の霊を慰めるため、原爆慰霊碑周囲三方に幅2メートルの池を掘り碑全体を浮上らせる」ことを決め、市費を加えて池を建設した(「中国新聞」57年8月1日)。また、63年4月29日の天皇誕生日には、広島日の丸会本部(高木尊之会長)が、平和公園に国旗掲揚台を設置し、市に寄贈した。
1963年6月、核兵器禁止平和建設広島県民会議は、原爆死没者慰霊碑付近にオリンピックの聖火台のような「平和の灯」を建設することを計画した。この計画は、同年12月3日の核禁会議全国幹部会で取り上げられ、核禁会議が700万円を募金することが決定された。灯の設計は、丹下健三が担当し、64年5月27日、「平和の灯」の起工式が挙行された。灯台は、原爆死没者慰霊碑と同じくコンクリート素打の工法で、高さ3メートル、幅13メートル、両手が力強く灯を掲げる姿を表現し、灯は、平和を求める積極的な姿を示したものであった。起工式に出席した丹下は、設計者としての意図を、「安らぎを象徴するハニワ型の慰霊碑だけではもういけない。いまひとつ動的な平和の象徴が必要な時代だ」と語っている(「中国新聞」64年5月28日)。「平和の灯」点灯式は、約1万人の参列のもとに64年8月1日午後7時から開始された。点灯に用いられた火は、伊勢神宮、東西両本願寺など全国12宗派から寄せられた「宗教の火」と溶鉱炉など全国の工業地帯から届けられた「産業の火」であった。
この後も、平和公園の整備が続いたが、その中で、1985年の原爆死没者慰霊碑の改築は、最も大きなできごとであった。広島市は、84年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。

 

平和式典にともなう規制と警備

式典にともなう規制と警備(『平和記念式典の歩み』1992年)

朝鮮戦争下の1950年(昭和25年)から57年にかけて、広島での平和集会は、厳しく規制された。しかし、この時期の規制は、1950年の平和祭の中止に見られるように平和式典そのものにも及んでいた。占領解除後、こうした規制は、無くなった。しかし、60年以降、平和式典をスムーズに開催するための規制が現れ、次第に強められていった。

原水爆禁止日本協議会(略称:日本原水協)は、1959年12月の全国理事会で、前回に引続き、60年の第6回原水爆禁止世界大会も広島で開催したい意向を表明していた。一方、翌年に入ると、新日本協議会が、60年8月6日を中心に3日間、広島で平和大会を開催することを計画し、旧軍人団体や宗教団体に働きかけを始めた。こうした動きに対し、1月22日、広島県・市両議会の正副議長は連名で、日本原水協と新日本協議会県支部につぎのような申し入れを行なった。

今年は原爆15周年になるので、全国的規模のもとに県・市共催の大慰霊  祭を厳粛、荘重に行ない、一切の雑念を払いたい。このためかりに第6回原  水禁世界大会が8月6日を避けても広島市で開かれれば、昨年の第5回大会の  実績からみて平和行進や大会準備などによって相当の影響をこうむること  は免れない。とくに新日協の大祭や大会が同時に開かれる場合は、激突の  おそれがあり、昨年以上の混乱が予想され、誠に遺憾にたえない。よって  両者の大会や大祭の広島市開催はいずれも遠慮されたい。
(「中国新聞」60年1月23日)

その後、第6回原水爆禁止世界大会は、東京で開催されることになり、また、新日本協議会の意図した大会は、平和記念日を外し、8月15日に平和記念公園で「平和祈念慰霊国民大祭」として開催された。一方、この年の式典には皇太子の参列があることになり、広島県警察本部は、8月6日と7日の両日、広島東、西、宇品の市内3署を始め周辺各署から警察官を延べ約1,000人を動員するという警備体制を敷いた。これは、広島県警としては1947年と51年の天皇行幸につぐ大規模なものであった(「中国新聞」60年8月2日)。

1963年の第9回原水爆禁止世界大会は、日本原水協の内部対立の激化や、右翼や全学連の集結(8月3日から6日にかけて、右翼50人、全学連1,260人が広島入り)などにより、開催前から混乱が予想された。浜井広島市長は、8月1日、「大会がもめるようであれば、このさい広島で開いてほしくない」と原水協に注意を促した。また、広島県警は、右翼と全学連の警備を中心的な目的として警備本部を設置し、県内の警察官の40%にあたる1,000人前後の警察官を動員した。動員人員は、5日の1,493人を最高に、3日から7日までの5日間で延べ6,600人に及んだ。式典の前夜の平和記念公園での世界大会は、社会党、総評などがボイコットし、原水禁運動の分裂は決定的なものになった。また、大会会場を占拠した全学連主流派の学生約180人が、主催者の要請で警察官600人により排除されるという事態が起こった。広島市は、踏み荒された式典会場の後始末を徹夜で行なうとともに、当日には、原爆死没者慰霊碑前の式典列席者の席の警備のためボーイスカウト広島県連盟、広島市消防局員など150人を動員した。
大会後の8月17日、広島県原爆被爆者援護対策協議会、県社会福祉協議会、県婦連(正式名称:広島県地域婦人団体連絡協議会)、広島市原爆被爆者協議会、広島市遺族会など11団体は、世界大会の批判会を開いた。その結果、原水協に「来年からは広島で大会を開かないでほしい」との申し入れを、また、広島県知事と広島市長に「来年からは8月6日を中心とした5日間、平和記念公園や市内の公共建て物を平和団体に貸す場合は、特に慎重であってほしい」との要望を行なうことを決めた。こうした市民の要望を受けて、広島市は、翌1964年6月5日、8月5、6、7日の3日間、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前広場を一般団体の集会に使わせない方針を決定した。

1967年4月、広島市長となった山田節男は、平和記念公園の聖域化構想を打ち出し、公園内での露天営業の許可取り消し(69年2月)、メーデーを除くデモや集会の不許可、芝生内への立ち入り禁止など、平和記念公園の利用に対する規制を進めた。

1969年には、「灯ろう流し」に支障があるという理由で、広島県公安委員会が、「8・6広島反戦集会実行委員会」から出されていた8月6日午後6時からのデモ行進の申請を「コース変更」の条件付きで許可した。県公安条例に基づくデモ申請でコース変更という条件付きで許可されたのは、67年11月15日の羽田不当弾圧反対闘争(広大教養部学友会主催)のデモについで2度目のことであった。
1971年8月4日、広島県警察本部は、「8・6平和祈念式典警備本部」を広島西署に設置し、8月5日と6日には広島県警の1,800人のほか、大阪・兵庫・京都の3府県、広島以外の中国4県から応援を求め、計2,700人を動員した。また、広島市自身も坂田助役を本部長とする警備本部を設置し、職員330人が公園内の整理にあたった。これらの措置は、内閣総理大臣を初めて式典に迎えるために取られものであった。この年以後、こうした警備が恒常的に行なわれるようになった。中曽根総理大臣と谷川防衛庁長官が参列した83年には、警察官の動員数は、2,500人におよんだ。一方、広島市の警備のための職員は、86年には815人であったが、87年以降は1,200人前後となっている。

マスコミによる空からの平和式典の取材は、当初は自由になされていた。しかし、式典の進行の妨げになるという理由から、自粛されるようになった。その時期は明確ではないが、新聞に掲載された写真から判断すれば、1950年代後半からと思われる。70年には、「8月6日を静かな祈りの日に」との目的で、式典前後に、一般車両の進入禁止など平和記念公園一帯の交通規制が行なわれた。8月6日当日の規制は、その後さらに強められ、75年には、式典前後の車両通行止めが100米道路(NHK前-西平和大橋)900メートルに拡大された。