「昭和天皇」カテゴリーアーカイブ

広島の碑をめぐる闘いの記録

『廣島の碑をめぐる闘いの記録』(藤井一郎編、瀬戸内報道社海内興論、19710927)

内容

見出し
林房雄氏の論文とその反響
(1)何を訴えようとする碑か 1

(2)林氏の寄稿を第一波として 2

(3)その反撃は万波となって 4

(4)高田範幸氏は岸田博士の一文を 5

(5)武藤貞一氏の悲憤の文字 6

(6)元中国新聞論説委員小林健三氏の所論 6

(7)中村武彦氏の二十年前の炎の文字 6

(8)平泉澄博士の「広島」 8

(9)葦津珍彦氏の鉄腸の訴え 9

市民世論の盛り上がりを背景に
(1)「原爆慰霊碑を正す会」発足 10

(2)一万八千人の署名請願書と提出 12

(3)「請願」に市側の誠意見られず 13

(4)山田市長の独断専行 14

(5)山田市長の不実の答弁 14

両陛下御巡幸にあたり
(1)偽りの碑へのお立寄り拝辞を求めて 16

(2)要請・要望を繰返したが 17

資料=民族派要請文
(1)日本青年旭心団要請文 21

(2)原爆慰霊碑碑文改正推進青年学生協議会の「要請」文 23

(3)全九州民族運動協議会の訴え 24

(4)川田貞一氏の訴え 25

(5)中央における「道の友」の闘い 28

(6)未だ一生氏の訴え 32

両陛下ご来広までのまとめ
(1)運動主導者としての懺悔 36

(2)若者をミスリードするマスコミ 37

(3)文化人意識過剰の座談会記事 40

(4)新左翼を育てる素地 42

(5)遂に現れた 天皇糾弾 43

「天皇糾弾集会」をめぐる闘い
(1)三月の彼我の動き 45

(2)坂田教授との面談四時間 47

(3)広大全共斗の策動 48

陛下ご来広中のデモに対する闘い
(1)新左翼を狂奔させる背景 49

(2)「天皇糾弾」デモ五件に対し我らもデモを申請 51

(3)「天皇は国民統合の象徴である」こと 53

(4)県警本部に対策について質す 54

(5)歴史は夜つくられる 55

(6)総理の 強権発動 は当然の措置 55

(7)破砕できなかった二つのデモ 57

資料= 合法闘争 記録
A  平和記念館使用問題
(1)「使用取消処分」取消の訴状 59

(2)行政処分執行停止申立書 61

(3)広島市長の「意見」 72

(4)付1 広島平和記念館使用条例 74

付2 広島市職務権限規定 75

付3 記念館使用許可書 77

付4 記念館使用許可書取消通知書 78

(5)付1.2 永野知事の「通達」 78

付3 永野知事の「謹話」 79

付4 奉迎送計画書 80

(6)「申立」を支持する地裁決定 81

(7)広島市長の「抗告状」 86

(8)即時抗告理由追加申立書 89

(9)「即時抗告」を支持する高裁決定 90

(10)集団示威運動許可申請書 93

(11)広島県公安委員会指令第五七号 94

B  糾弾デモに対抗する粉砕デモ問題
(1)集団行動許可申請書(四通)95

(2)広島県公安委員会指令第五八号~六一号 97

(3)代理人(弁護士)委任状 99

(4)行政処分取消請求訴状 100

(5)行政処分執行停止申立書 100

(6)裁判請求陳情書 101

(7)広島県公安委員会の「意見書」 102

(8)1付・デモ集会に関する「条例施行規則」 103

C  天皇来広糾弾デモ問題
(1)新左翼の集団更新許可申請書 111

1 天皇来広糾弾連絡協議会(二通)111

2 広島大学全学共闘会議(三通)112

3 三段体連絡会議(一通)115

(2)不許可理由 115

(3)申立人の暴力的傾向 116

(4)全共闘申立を支持する地裁決定 116

(5)即時抗告棄却の高裁決定 118

(6)全共闘の申立を支持する地裁決定 119

(7)即時抗告原決定変更支持の高裁決定 120

(8)三団体の申立を支持する地裁決定 122

(9)佐藤総理の「異議の理由」 125

(10)地裁決定を取消す 126

デモ一覧表
 デモ周辺図
資料=新左翼による「天皇糾弾」の主張
原爆慰霊碑を正す運動年表

 

 

 

天皇陛下と広島

『天皇陛下と広島―昭和の御代に感謝のまごころを』(「天皇陛下と広島」編纂部、天皇陛下御在位六十年広島県奉祝委員会、19870211刊)

目次

御真影
大御歌(御製碑)
グラビア
戦後広島県巡幸(昭和22年)
植樹祭(昭和46年)
産業御視察(昭和26年)
天皇陛下御在位60年奉祝大パレード(昭和61年11月10日・東京)
出版に寄せて  山崎芳樹( 広島商工会議所 会頭)
序文 天皇陛下御在位六十年広島県奉祝委員会
第1章 ああ御在位六十年-民族の生命の復活と蘇生
偉大な悲劇 法隆寺玉虫厨子の意味 山背大兄王の哀しみ 五内為ニ裂ク 名誉を思わず利益を思わず  鎮魂の旅
第2章 戦後広島県巡幸史(昭和二十二年十二月五日~八日)
広島県巡幸概観
巡幸に込められた陛下の御決意  広島県巡幸への県民の願い  行幸を心待ちにする県民の声
大竹市・宮島町
国立大竹病院 三菱化成大竹工場  宮島桟橋 宮島で御静養
広島市
廿日市   広島戦災児育成所 広島県水産試験場   爆心地御通過  広島市民奉迎場  授産共同作業場 広島市立袋町小学校と第五中学校  県立広島第一中学校 広島市役所  広島県庁 広島駅
呉市
呉駅  呉市役所  呉市民奉迎場
三原市
浮城分室(御在所) 帝国人絹糸三原工場 東洋繊維三原工場   三菱重工三原車両製作所
尾道市・向島町
戦災引揚者応急住宅   向島西村津部田 尾道水道  尾道市役所
福山市・神辺町
千田村   神辺小学校  福山市救護院、母子寮   福山城址公園
第3章 天皇陛下ありがとうございます-県民から寄せられた感謝の声-
 山崎芳樹
 増岡博之
 川村智治郎「陛下と私」
 中川秀直
 粟屋敏信
 児玉秀一「忘れ得ぬ思い出」
 佐々木有
 奥原次郎
 石田成夫
 松浦多聞
 内海巌
 桜井正弥
 赤木蒸治
 佐竹利彦
 松下一男
 森安忠
 戸田一郎
 西村敏藏
 中島一史
 谷口寿太郎(元五日市町長)
 加賀美正孝
 桜井創造(広島特定郵便局長会理事)
 山田五巳(畑賀地区社会福祉協議会会長)
 織田金次郎(大竹市日本の伝統を守る会会長)
 献歌
 奉祝記念映画「天皇陛下-御在位六十年をことほぐ-」感想文
あとがき

昭和史の天皇4(読売新聞社)

「昭和史の天皇4」(読売新聞社、1968.8.1)

目次

原爆を抱いて
ためらう科学者
学者委員が大激論
日本ヘどう使うか
大統領、投下に同意
科学者の反論むなし
矢はつるを離れた
四つの目標都市
特別の部隊を編成
最後の決断を待つ
“本命”の実験も成功
爆撃命令の承認
“微妙な八月三日ごろ”
部品、テニアン島へ
命中した模擬爆弾
広島上空、雲切れる
運命の日の天候
矢花慎雄(気象庁予報課技官)
横山幸雄(陸軍中央通信調査部高級参謀・中佐)
投下用B29の電波
東京にも同符号機
日本の原爆
スタート、米の直後
公開、一転し軍機に
頭脳結集「二号研究」
熱拡散法しかない
一発勝負の実験
研究より資材集
フッ素研究も難航
次はウラン作り
でてきた待望の結晶
炭素もデンプンで
苦心の分離簡完成
苦心重ねての実験
ウラン分離始まる
六回に及ぶテスト
ウラン分離に失敗
空襲、分離筒も焼く
軍がウラン鉱捜し
ドイツ政府へ依頼
朝鮮に大量の原鉱
福島県に工場疎開
尼崎にも大分離筒
熱拡散法は失敗
珍妙な“特高研究室”
二号研究に悲観論
海軍は京大に一任
原子力応用を調査 一度は研究を中断
連鎖反応を立証
金属ウランも作る
超遠心分離に苦心
チエ持ちより設計
臨界量も割り出す
陸軍も中止論へ
くやしく、情けなく
万感こめ被害調査
補遺、「荒勝先生覚え書き」
広島第一報!
爆痕がないぞ…?
強烈で奇妙な兵器
出勤途中、李殿下も
黒い死の影ひそむ
仁科博士“原爆です”
“白色の着衣徹底を”
一定角度の焼け跡
爆心点は球場付近
物質に死の放射線
笑えぬ“特殊火薬説”
生々しい報告内容
水爆の構想を予言
「ソ連参戦」の波紋
ラジオゾンデ回収
原爆と一緒に手紙
軍は驚き、手紙隠す
発信、加州大の旧友
京大調査隊の悲劇
山津波で十人殉職
克明な尾形日記
“一刻も早く和平ヘ”
一号演習-陛下の周辺・その一
    最後まで“一号演習”
防空室の補強作戦
物、人、技術者に苦労
決意の“師団長旗”
一号演習”はじまる
工事現場に擬装網
皇居上空から“偵察
巨大な網の天井
14メートルの新しい小山
延べ12万人を動員
下痢患者が続出
師団長と心の交流
消灯でさんざん苦労
司令部の中心参謀
兵力動員に一苦労
森師団長と古賀参謀
答礼に二等兵感激
視察、労をねぎらう
扉のそばにボンベ
送電、換気、水に苦心1
会議室、明るく重厚
極秘の無線電話機

昭和天皇

昭和天皇

裕仁 ひろひと 19010429生19890107没 享年87 第124代天皇。

参考資料(刊本)

書名 著者 発行所 発行年月日
昭和史の天皇4 読売新聞社 19680801

 

 

昭和天皇実録

昭和天皇実録の中のヒロシマ

『昭和天皇実録(全18冊)』(宮内庁(編修)東京書籍(発行)

事項
45 08 06 午後七時五十分、侍従武官長蓮沼蕃に謁を賜う。これより先の午後七時過ぎ、海軍省より電話を以て侍従武官府に対し、呉鎮守府の情報として本日午前八時頃、広島市上空に来襲の米軍爆撃機より特殊弾攻撃全受け、市街の大半が倒潰、第二総軍参謀李鍝公を含む軍関係者が死傷するなど、被害甚大である旨の通報あり。また侍従武官府は第一総軍より、大爆発に続いて市内に大火災が発生し、午後二時現在、なお延焼中との情報を人手する。なお翌七日午前一時三十分頃、同盟通信社は、米国大統領及び英国首相の声明として、八月六日広島に原子爆弾を投下した旨の米英両国の放送を傍受する。
45 08 07  午後  御文庫において軍令部総長豊田副武に謁を賜い、戦況、及び昨六日の空襲により被災の広島市方面に対する救護隊の派遣等につき奏上を受けられる。なお本日午後三時三十分、大本営は、昨八月六日広島市が敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたこと、敵は攻撃に際して新型爆弾を使用したものの如きも、詳細は目下調査中である旨を発表する。
45 08 08  午後四時四十分、御文庫附属室において外務大臣東郷茂徳に謁を賜い、昨七日傍受の新型爆弾に関する敵側の発表とその関連事項、及び新型爆弾の投下を転機として戦争終結を決するべき旨の奏上を受けられる。これに対し、この種の兵器の使用により戦争継続はいよいよ不可能にして、有利な条件を獲得のため戦争終結の時機を逸ずるけ不可につき、なるべく速やかに戦争を終結せしめるよう希望され、首相へも伝達すべき旨の御沙汰を下される。外相は拝謁後、首相に御沙汰を伝達し、最高戦争指導会議構成員会議の招集を申し入れる。

李鍝公は第二総軍参謀として広島において作戦任務遂行中、一昨六日空爆(新型爆弾)により負傷し、船舶司令部(宇品)に収容される。その後、公は似ノ島陸軍療養所に搬送されるも、昨七日午前五時五分、同所において薨去する。享年三十四。宮内省は本日正午、公の戦死を発表する。よって午後、弔問のため、侍従小出英経を勅使として東京の李鍝公邸に差し遣わされる。なお、公の遺骸は本日広島を出発、空路にて朝鮮京城府の本邸に帰着する。李鍝公の戦死につき、九日、満洲国皇帝溥儀より弔電を寄せられ、十日答電を発せられる。十四日、同邸に勅使として朝鮮総督府財務局長水円直昌を差し遣わし、玉串をお供えになる。十五日の葬送に際しては、勅使として水田を葬場(京城)に差し遣わし、また、天皇・皇后・皇太后より祭資を、天皇より白羽二重・神饌・榊を賜う。遺骸は、朝鮮京畿道揚州郡和道面倉岨里の故李熹公墓所域内に葬られる。

45 08 09  午後一時四十五分より二時五分まで、御文庫において陸軍大臣阿南惟幾に謁を賜う。陸相は一一時三十分開会の閣議において、本日午前十一時三十分、長崎に新型爆弾が投下されたことを報告する。なお、午後二時四十五分、西部軍管区司令部より、本日午前十一時頃、敵大型機二機が長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用したこと、詳細は目下調査中なるも、被害は比較的僅少の見込みである旨の発表あり。
45 08 13  午前、御文庫に内大臣木戸幸一をお召しになる。これより前、陸軍大臣阿南惟幾に謁を賜い、広島市(第二総軍司令部)より元帥陸軍大将畑俊六を招致することにつき言上を受けられる。
45 08 14 午前十時時二十分、御文庫に元帥陸軍大将杉山元・同畑俊六、少時遅れて参殿の元帥海軍大将永野修身をお召しになり、三十分にわたり謁を賜う。終戦の御決心をお示しになり、三名の所見を御下問になる。永野・杉山より、それぞれ国軍はなお余力を有し、志気旺盛につき、抗戦して上陸する米軍を断乎撃攘すべき旨の奉答をお聞きになる。ついで畑より、広島在勤のため昨今の情況を詳知せず、また担任正面の防御については遺憾ながら敵を撃攘し得る確信はなく、ポツダム宣言受諾に決した由につき已むを得ざるも、極力交渉により少なくとも十師団を親衛隊として残置できるよう努力すべき旨の奉答あり。三名の奉答に対し、戦争終結は深慮の末の決定につき、その実行に元帥も協力すべき旨を仰せになる。引き続き、内大臣木戸幸一をお召しになる。
45 08 15  天皇の終戦詔書放送さる
45 08 23  この日、内務省防空総本部より、大東亜戦争勃発以来現在までの敵機の本土空襲による被害総計は、死者約二十六万名、傷者四十二万名にして、このうち原子爆弾による死者が約九万名、傷者十八万名であること、
45 08 25  朝鮮より帰朝の式部次長坊城俊良が御文庫に参殿につき、謁を賜う。坊城は、去る十五日の李鍝公(八月七日広島似ノ島陸軍療養所において薨去)の葬儀に参列するため京城へ出張し、その際に見聞した停戦後の混乱状態につき言上する。
45 08 31  天皇、広島・長崎の惨状視察と救護関係者激励のため侍従を派遣することを明らかにする。
45 09 01  今般、広島・長崎の両市において戦禍による被害甚大につき、侍従永積寅彦を広島市へ、同久松定孝を長崎市へそれぞれ御差遣になる。正午、御文庫において両名に謁を賜い、御沙汰を下される。永積・久松は即日出発する。永積は三日に広島県庁において聖旨を伝達し、同県知事高野源進より情報を聴取の後、大本営跡において中国軍管区司令官谷寿夫より概況を聴取する。ついで永積は、本川国民学校・観音第二国民学校に収容の原子爆弾被爆者の慰問等を行い、五日帰京、同日及び十四日に復命する。その際、永積は船舶司令部(宇品)よりの写真を御覧に供し、原子爆弾に関する東京帝国大学教授都築正男の説明につき言上する。また久松は九月七日帰京し、十一日に復命する。
45 09 04  永野長崎県知事、来崎した久松侍従に長崎市の被害状況を報告。9月1日現在、死亡者(検死済)19743人・行方不明者1927人・重軽傷者40993人、8月26日現在戦災者21774世帯89780人・全焼全壊家屋14046戸・半焼半壊家屋5441戸など。
45 09 13 永積侍従、比治山迷児収容所を訪問。
45 09 23  夜、広島における原子爆弾被害に関する日本ニュース映画を、皇后と共に御覧になる。
45 09 27  午前九時五十五分御出門、聯合国最高司令官ダダラス・マッカーサーと非公式に御会見のため、東京都赤坂区内の米国大使館に行幸される。宮内大臣石渡荘太郎・侍従長藤田尚徳・侍従徳大寺実厚・侍医村山浩一・行幸主務官筧素彦(宮内書記官)・侍従職御用掛川越憲雄(皇宮警視)・臨時式部職御用掛奥村勝蔵が供奉する。十時、着御される。大使館玄関において最高司令官軍事秘書ボナー・フランク・フェラーズ、最高司令官副官フォービアン・パワーズの奉迎を受けられる。ついで両名の誘引にて次室に入られ、同所において出迎えのマッカーサーと御握手、挨拶を交わされる。さらにマッカーサーの案内により御会見室に入られる。御会見に当たっては、奥村のみ雇従し、御通訳を奉仕する。御会見室内において天皇はマッカーサーの左側にお立ちになり、米軍写真師による写真撮影三枚を受けられる。ついで御着席になり、約三十分にわたりマッカーサーと御会話になる。御通訳奉仕の奥村により作成された記録によれば、御会話の要旨は左のとおり。

元帥ハ極メテ自由ナル態度ニテ

「マ」 実際写真屋トイフノハ妙ナモノデパチ々々撮リマスガ、一枚カ二枚シカ出テ来マセン

陛下 永イ間熱帯ノ戦線二居ラレ御健康ハ如何デスカ

「マ」 御蔭ヲ以テ極メテ壮健デ居リマス。私ノ熱帯生活ハモウ連続十年二及ヒマス

之ヨリ元帥ハ口調ヲ変へ、相当力強キ語調ヲ以テ約二十分ニ亘リ滔々ト陳述シタルガ其ノ要旨左ノ如シ(英語ノ性質二鑑ミ、此ノ部分ハ此処ニハ特二敬語ヲ省略シテ訳述ス)

「マ」 戦争手段ノ進歩、殊ニ強大ナル空軍力及ビ原子爆弾ノ破壊力ハ筆紙ニ尽シ難イモノガアル、今後若シ戦争カ起ルトスレバ其ノ際ハ勝者、敗者ノ論ナク斉シク破壊サレ尽シテ人類ノ絶滅ニ至ルテアラウ、現在ノ世界ニハ今猶憎悪ト復讐ノ混迷カ渦ヲ捲イテ居ルガ、世界ノ達見ノ士ハ宜シク比ノ混乱ヲ通ジテ遠キ将来ヲ達観シ平和ノ政策ヲ以テ世界ヲ指導スル必要ガアル。日本再建ノ途ハ困難ト苦痛ニ充チテ居ルコトト思フガ、夫レハ若シ日本ガ戦争ヲ継続スルコトニ依ツテ蒙ルベキ惨害ニ較ブレバ何テモ無イテアラウ、若シ日本ガ更ニ抗戦ヲ続ケテ居タナラバ日本全土ハ文字通り殲滅シ何百万トモ知レヌ人民ガ犠牲ニナツタデアラウ、自分ハ自ラ日本ヲ相手ニ戦ツテ居ツタノデアルカラ日本ノ陸海軍ガ如何ニ絶望的状態ニ在ツタカヲ充分知悉シテ居ル、終戦ニ当ツテノ陛下ノ御決意ハ国土ト人民ヲシテ測リ知レサル痛苦ヲ免レシメラレタ点ニ於テ誠ニ御英断デアツタ。世界ノ輿論ノ問題デアルガ、将兵一旦終戦トナレバ普通ノ善イ人間ニナリ終ルノデアル。

然シ其ノ背後ニハ戦争ニ行ツタコトモ無イ幾百万ノ人民ガ居テ憎悪ヤ復讐ノ感情デ動イテ居ル、斯クシテ所謂輿論が簇出スルノデアルガ其ノ尖端ヲ行クモノガ新聞デアル、米国ノ輿論、英国ノ輿論、支那ノ輿論等々色々出テ来ルガ、「プレスノ自由」(今ヤ世界ノ趨勢トナツテ居ルノデ、其ノ取扱ハ仲々困難デアル。

陛下 此ノ戦争ニ付テハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ戦争トナルノ結果ヲ見マシタコト(自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス。

「マ」陛下方平和ノ方向ニ持ツテ行ク為御軫念アラセラレタ御胸中(自分ノ充分諒察申上グル所デアリマス。只一般ノ空気ガ滔々トシテ或方向ニ向ヒツツアルトキ、別ノ方向ニ向ツテ之ヲ導クコトハ一人ノ力ヲ以テハ為シ難イコトデアリマス。恐ラク最後ノ判断(陛下モ自分モ世ヲ去ツタ後、後世ノ歴史家及輿論ニ依テ下サルルヲ俟ツ他ナイデアリマシヤウ。

陛下 私モ日本国民モ敗戦ノ事実ヲ充分認識シテ居ルコトハ申ス迄モアリマセン、今後(平和ノ基礎ノ上二新日本ヲ建設スル為私トシテモ出来ル限リノ力ヲ尽シ度イト思ヒマス。

「マ」 夫レハ崇高ナ御心持デアリマス、私モ同ジ気持デアリマス。

陛下 「ポツダム」官言ヲ正確ニ履行シタイト考ヘテ居リマスコトハ先日侍従長ヲ通ジ閣下ニ御話シタ通リデアリマス。

「マ」 終戦後陛下ノ政府ハ誠ニ多忙ノ中ニ不拘凡ユル命令ヲ一々忠実ニ実行シテ余ス所ガ無イコト、又幾多ノ有能ナ官吏ガ着々任務ヲ遂行シテ居ルコトハ賞讃二値スル所デアリマス。

又聖断一度下ツテ日本ノ軍隊モ日本ノ国民モ総テ整然卜之ニ従ツタ見事ナ有様ハ是即チ御稜威ノ然ラシムル所デアリフビア、世界何レノ国ノ元首卜雖及バザル所デアリマス。之(今後ノ事態二処スルニ当り陛下ノ御気持ヲ強クカ付ケテ然ルペキコトカト存ジマス。

45 10 02
45 12 11
46 08 14
46 10 30
46 10 30  三十日 水曜日 午前十時五分、表拝謁ノ間にお出ましになり、地方長官会議に出席の内閣総理大臣吉田茂・内務大臣大村清一、並びに地方長官ほか五十四名に謁を賜う。
47 11 20
47 11 24?
47 11 26
47 12 05
47 12 05  それより広島県に移動され、佐伯郡大竹町の国立大竹病院に向かわれる。途中、岩国港付近の旧大刀洗航空分廠敷地跡の装束第一住宅地にお立ち寄りになり、引揚者等を激励される。同病院に御着、田中知事・同県副知事青柳一郎・同県総務部長武末辰雄・同県警察部長西原英次・広島県知事楠瀬常猪・同県議会議長小谷伝一より拝謁をお受けになり、田中山口県知事に謝意のお言葉を賜う。ついで病院長松島茂より開院の概況についての奏上を御聴取の上、内科・外科各病室を慰問される。その際、外科第三病舎において原子爆弾による放射能に被爆した患者を御慰問になる。次に同郡小方村の三菱化成工業株式会社大竹工場を視察される。最初に事務所二階の便殿において取締役社長森規矩夫より同工場におけるステ-プルーファイバー(人造絹糸)の生産状況についての奏上をお聞きになる。しばし御休憩の後、自動車にて原料倉庫、ステープルーファイバー製造場に向かわれ、工場長岩波模一の説明にて同所を御巡覧になる。また製品陳列場において、レーヨンーステープル製品、合成樹脂製品、有機ガラス製品等を御覧になり、従業員に御会釈を賜う。以上でこの日の御視察を終えられ、大竹駅より御乗車になる。宮島口駅にて下車され、御徒歩にて宮島口鉄道桟橋に進まれ、御召艇七浦丸に御乗船になる。甲板より町村民等の奉迎に手を振ってお応えになり、また宮島口駅より扈従の文部大臣森戸辰男(広島県出身)の拝謁をお受けになる。船上では瀬戸内海の島々を観賞され、宮島鉄道桟橋より御上陸になり、自動車に乗り換えられる。なお宮島は離島のため御料車ではなく県知事用の自動車を使用される。御泊所である佐伯郡厳島町宮島の岩惣旅館まで向かわれる途次、自動車が故障し、御泊所までお歩きになる。午後五時十二分到着される。
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51 10 27  午前九時十分、赤い羽根をお着けになり御泊所一茶苑を御出発、広島市に入られる。児童福祉施設の六方学園にお着きになり、門内に整列する広島県議会議員六十一名に御会釈を賜う。また玄関において、原爆傷害調査委員会視察の日程を変更して開園を訪問した崇仁親王の出迎えを受けられるに御座所において園長田中正雄より同学園の沿革及び概況を御聴取になる。ついで心理学実験室において田中園長より学園収容児の近況をお聞きになり、原子爆弾投下による児童への被爆の影響について御質問になる。工作教室において粘土細工の授業を御覧の際、手指及び順に火傷痕のある女児を認められ、田中園長よりこの女児が両親と共に被爆し、両親の死去後開園に保護された旨の説明を受けられると、深い同情を示される。講堂の児童作品展示室において皇后・崇仁親王と共に作品を御覧の後、校庭に整列する副園長以下職員・園児に御会釈を賜う。また県共同募金会会長小谷伝一、並びに藍綬褒章受章者・社会事業施設長・社会事業功労者・社会施設の代表児童等に御会釈を賜い、それぞれにお言葉を賜う。終わって崇仁親王の奉送を受けられ同所を御出発になり、県民奉迎場の広島市民広場に御臨場になる。奉迎台において広島県知事大原博夫の発声による県民の万歳三唱をお受けになり、参集の県民等に御会釈を賜う。
51 10 28
56 03 23  ニューヨーク近代美術館・米国大使館・日本経済新聞社が共催する「ザーファミリー・オブーマン写真展」を御覧のため、午前九時三十一分御出門、日本橋高島屋に行幸になる。御着後、高島屋社長飯田慶三の先導により八階展示会場に進まれ、同会場において米国特命全権大使ジョンームーアーアリソンに御握手を賜う。ついで日本経済新聞社社長万直次の先導により展示を御覧になる。会場出口付近においては米国大使に対して、このような催しが日米両国の親善を深め、世界平和のために役立つことを望む旨のお言葉を賜う。終わって十時二十一分還幸になる。なお、米国側の申し入れにより「原爆図」「被災者図」等六点の作品いについては、カーテンを掛けて御覧に入れなかったことが、翌日の新聞等に取り上げられる。
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88 08 06  広島原爆の日に当たり、お出ましをお控えになる。○侍従日誌、女官日誌、那須御用邸管理事務所日誌、那須御用邸管理事務所事務官日誌
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