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平和に生きる(村上経行後援会)

『平和に生きる』(村上経行後援会、19721001)

内容

見出し
口絵
02 まえがき
03 少年のころ
/米騒動の年/小さな正義派
08 学生時代
/早稲田へ/冬の時代/学友とマルクス主義
12 敗戦前後
/銃剣よさらば/三菱広船へ/結婚/被爆、父の死/待ちのぞんだ朝
17 党を求めて
/党本部へ/地区委員会を結成/三菱の組合づくり/////
23 日鋼闘争
/たたかいの火の手/広船の仲間と/血と怒りと/広がる支援/カチューシャのうた
27 たたかいの軌跡
三菱造船を首に/妻のたたかい/わたしと原水禁運動/署名のない手紙
28 [コラム]夫を語る 身内も難題もずばっ(妻 須美子)
30 [コラム]理路整然、純粋な人(山口勇子)

 

資料年表:村上経行

資料年表:村上経行<作成中

1918
04 広島市大須賀町で生まれる。
1942
09 広島高等師範附属中学校卒
****
**** 早稲田大学政経学部卒。この間広島鉄道局へ約1年勤務。
1944
03 三菱重工業(株)広島造船所勤務。労組結成に尽力。
1945
08 広島市南観音町で被爆。
1946
01 日本共産党に入党。
1949
1022 三菱を解雇される。長女2歳、長男は生まれて1カ月。
<以上の出典=『平和に生きる』(1972)、『広島のねがいを国政へ』(1975)>
<宇吹は大学時代、同郷ということで長女(薬学部)・長男(医学部)と面識あり>
1972
1001 『平和に生きる』(村上経行後援会)
1975
1225 『広島のねがいを国政へ』(村上経行後援会)
 1982
0111 『黒い雨』(広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会)
「黒い雨」降雨地域住民に被爆者手帳を 住民の不満や疑問 「赤旗」社会面トップに-35-<集まったのは10人ほど。民家の一室を借りておこなわれました。これには、共産党を代表して、村上経行党県経済委員長、屋敷一字広島市議らの姿も見えました>
連絡協議会役員一覧<顧問:村上経行>
 1986
 0806 『核兵器廃絶を訴える被爆者国際遊説の記録 Hibakusha Peace Tour(原水爆禁止日本協議会、19860806)』
被爆者国際遊説団名簿
●オランダA班 19850625~0708
村上経行 被爆者(広島)
1989
0806 『黒い雨』(広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会)
「まえがき」<会長:**、副会長**、事務局長 村上経行>。「あとがき」(事務局長 村上経行)
 1991
 0607  藤居会社へ。村上経行も来る。 U
1026  村上経行より電話。党史についての問い合わせ。ソ連の評価が再び問題となる。 U
 1992
 0302  村上経行より電話。今日午後来所予定であったが忘れていたとのこと。70周年党史の編さんについて。 U
 1110  村上経行より電話。原爆文献の数の問い合わせ。約6000件と答える。 U
1222  藤居より電話。12時40分-13時20分。先日、村上経行が来た。 U
 1993
 0804  藤居より電話。約30分ほど話す。先日送った資料について感想を求めたら、今朝、村上経行が来た。村上がかって「ソ連の放射能で死ぬのなら本望」と言ったことがあるだろうと確認したら、認めた。竹内は、村上のようなものと一緒にやることは出来ないと言っていた。 U
 1117  村上経行、来所。民医連に来たついで。-15時45分。ニュースステーションの「黒い雨」特集の話。矢野記者が放影研の重松に会ったら「取材のスタンスを間違えている」という不見識なことを言った。放影研関係者が、黒い雨地域の住民の話を聞いたことは一度もない。 U
1994
1212  村上経行より電話。藤居のところで詳しい年表を見た。欲しい。宇吹=13日、自宅に郵送。 U
 1215  村上経行より電話。資料(被爆者運動年表)の礼。 U
1995
 0322  村上経行から電話。風邪で入院中。予め郵送されていた「95年平和のための広島の戦争展」について。広島で、戦争展をやることには抵抗があったが、今回、やっと意志統一ができたとのこと。前面に出ることは求めないが、相談に乗って欲しいとのこと。****より頼まれた。  U
1030  村上経行、来所。-15時半。****茂美「ことりもカラスもいなくなった」を持参、センターに寄贈。****が参加した国会請願について調査(何市何郡が参加したか)を依頼される。藤居を土曜日に見舞ったとのこと。インターネットを見せる。  U
1116  村上経行へ1956年3月の国会請願の資料(***茂美関係)を送る。 U
 1221  村上経行より電話。「占領下のヒロシマ」について。藤居平一が胃ガンで手術をした由。  U
 1996
 0419  藤居通夜。田中(中国新聞)=昨年9月後も退院したり上京していた。宇吹は、大変良い仕事(「まどうてくれ」)をした。村上経行=亡くなる数日前に会った。もうあまり持たないということは、医者から言われていた。本人は死にたくない、と言っていた。 U
 0426  村上経行より電話。藤居夫人より読売新聞社(東京)が15日午後に取材に来るとの連絡があり、二人ほど立ち会って欲しいとのことであった。自分は出ないほうが良いと思う。宇吹を考えている。検討しておいて欲しい。  U
 0426  [つづき]村上経行=庄野は、吉田嘉清が弔辞を読むように勧めていたが、体調が悪いとか何とか言って、葬儀の途中で帰ってしまった。田中(中国)は、藤居のことを本にするつもりでいる。****が弔辞の朗読を申し入れたが、藤居夫人が断った。****も同様。  U
0430  村上経行来所。5月15日の読売の藤居取材について相談。-11時。村上の話=4月14日に****と藤居夫人と3人で藤居を見舞った。廊下に出たら号泣していた。低空飛行3人組、村上孝太郎ETC。 U
 0509  村上経行より電話。読売の藤居夫人取材の手順についての相談。村上も藤居夫人もあまりに大げさに考えすぎると言うと、村上は「慣れていないから」と素直に返答していた。 U
 1997
 0121  村上経行より電話。山崎文男の日記、藤居追悼集の進捗状況について。  U
1206 元大正屋呉服店(レストハウス)の保存・活用を「みんなで話し合う集い」。於国際会議場コスモス。 参加者150人。この会議では、最高の数(楠発言)。マスコミの取材多数。金沢・藪井も。松本寛・佐藤重夫・植木研介・村上経行・森脇勝義・安藤夫人らの顔を見る。 U
1998
 1209  下村仁一画集「ヒロシマ-鎮魂と怒り」刊行を祝う会。於法華クラブ10F。-8時半。司会:小笠原伸江、チェロ演奏:庄司有子、挨拶:増田勉・吉野誠・石口俊一・橋詰由美子・中村俊博・久保浩之・石川・堂垣内崇雅など。[自由発言]宇吹=30年前、下村と一緒に資本論やレーニンを読んだ。楠=下村は、レッドパージになった3人の教員の1人。徳毛宜策・村上経行・若林節美・武田寛などの顔を見かける。  U
 2000
 0714  村上経行、来所。13:00~13:30。広島大学医学部年史。  U
 0718   村上広島県「黒い雨・自宅看護」原爆被害者の会連絡協議会に医学部史を郵送。 U
 2004
0501 『黒い雨 ヒロシマからの証言』(広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会)
71p「黒い雨」と私(増田善信)<私がこの卵形の地域以外にも、「黒い雨」が降っていたことを知ったのは、1985年夏の原水爆禁止世界大会でした。当時の「黒い雨」の会の事務局長村上経行氏から教えられたもので、****>
95p <広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会名簿>の名誉役員欄に「村上経行」あり
2011
07 村上経行没。享年93歳
2012
0930 『黒い雨 内部被曝の告発』(広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会)
103p「 村上経行さんが「黒い雨の調査結果には迷惑をこうむっている」という趣旨の発言をされた。」、「村上さんは開口一番「気象の専門家として、あんなに激しい雨があんなにきれいな卵型をした地域だけに降ると思いますか」と質問された」(増田善信)

村上経行

村上経行

むらかみ・つねゆき 191804生201107没 享年93歳 『平和に生きる』(村上経行後援会、1972.10.1)、『広島のねがいを国政へ 活躍する、村上経行さん』(村上経行後援会、1975.12.25)、