児玉正昭<作業中>
こだま・まさあき |
1934生20240306没 |
広島県史編さん室勤務期(宇吹)の上司。 |
資料年表:児玉正昭
年月日 |
事項 |
備考 |
1934 |
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生 |
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1992 |
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02 |
『日本移民史研究序説』(児玉正昭著、溪水社) |
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序-本書の課題と方法-/
第一編 ハワイの官約移民
第一章 官約移民制度成立の背景
第二章 移民送出の諸要因
第三章 官約移民制度の推移
第四章 官約移民の諸相
第五章 領事報告からみた移住地の状況/
第六章 官約移民の影響第二編 移民会社と移民
第一章 移民会社の概要
第二章 オーストラリアへの移民-初期移民会社の移民募集とその実態
第三章 ガードループ島への日本人契約移民
第四章 日本人移民の増大に対するハワイの対応
第五章 海外渡航株式会社の研究
第三編 明治後期の日本人移民の諸相
第一章 移民送出の背景
第二章 一九〇〇年代の移民の概況
1 全国的概況
2 移民県広島の概況
3 熊本・福岡・山口三県の概況
第三章 アメリカ本土への移民
1 アメリカ移民の推移
2 徴兵忌避と海外移民
3 移民母村の実態
4 移民の影響
あとがき/ |
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1993 |
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0118 |
学位:博士<文学>(広島大学)取得。 |
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2024 |
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0306 |
没 |
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止
浅田常三郎
あさだ・つねさぶろう |
1900生19840307没 |
享年85歳 |
物理学者。『町人学者 産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(増田美香子編、毎日新聞社、20080419) |
止
『ヒロシマ・ノート 岩波新書 563』(大江健三郎著、岩波書店、1965/06/21)
内容<作業中>
章 |
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<挿絵カット 丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(1950.8.6 ポツダム書店発行より)> |
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プロローグ 広島へ 1<196504> |
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Ⅰ |
広島への最初の旅 15<196308> |
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Ⅱ |
広島再訪 45<196408> |
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Ⅲ |
モラリストの広島 69<196409> |
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Ⅳ |
人間の威厳について 89<196410> |
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Ⅴ |
屈伏しない人々 109<196411> |
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Ⅵ |
ひとりの正統的な人間 131<196412> |
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Ⅶ |
広島へのさまざまな旅 149<196501> |
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エピローグ 広島から 169<196501―196505> |
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止
『忘れじのヒロシマわが悼みうた 栗原貞子詩集』(栗原貞子著、詩集刊行の会、1997/06/30)
内容
部 |
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まえがき |
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1 |
ヒロシマのうたを歌い続けて |
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ヒロシマの道標 10
寂寞を希望にかえて 11
相次ぐ発禁-言論弾圧と細田民樹 13
日米ピースセンターの活動 16
悪い政治と斗って 18
崩れぬ平和都市を 19
生と死 20
ヒロシマのうたを歌い続けて 22 |
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2 |
忘れじのヒロシマ |
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原爆で死んだ幸子さん 26
夾竹桃 27
異形 29
日詰さんと原水禁広島母の会 30
黒い十字架 32
いまは安らかに眠りませ 34
眼 35
白い虹 36
愛と死 37
ケロイドの背で証言する 38
まどうてくれ 40
ヒロシマの人体実験はまだ続いている 41
原爆半世紀ヒロシマの女たちは 44 |
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3 |
歴史の立会人だったのだから |
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歴史の立会人だったのだから 48
石のなかから 49
歴史の残像 50
ヒロシマと言うとき 52
何のために戦ったのか 53
護憲の碑除幕 56
楽譜「世界とともに」 57
献詩「弟よ」 58
射程距離 60
昇天 61
終わりのとき 62
知らなかった 63
呼ぶ 64
空席 65
献詩 66 |
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4 |
物故作家を語る会の記録 70 |
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第1回 代表 田辺耕一郎 |
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第2回 代表 好村富士彦 |
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あとがき |
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止
久保田訓章
くぼた・のりあき |
生20190331没 |
享年86 |
1973~2017年広島東照宮宮司。名誉宮司。二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会会長。広島・長崎宗教者平和会議に参加。 |
資料年表:久保田訓章<作業中>
年月日 |
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1996 |
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0806 |
「序文( 広島県宗教連盟前々理事長・広島東照宮宮司 久保田訓章)」( 『広島県宗教連盟「戦後五〇年」誌-平和と慰霊・追悼の歩み』所収) |
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2004 |
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0313 |
久保田訓章「「五年後」に感じて…」(『雲雀 第4号 2004.03.13』、広島花幻忌の会) |
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2005 |
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0416 |
久保田訓章「原民喜「五年後」に感じて」(『わが昭和史 続編 中学入学60周年記念誌』)中学入学60周年記念アカシア41期会「記念誌編集発行委員会」) |
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2009 |
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0805 |
「原民喜文学碑 境内に建立へ 広島東照宮」(『中国新聞』桑島美帆・記者) |
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2010 |
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0321 |
「文学碑計画の久保田宮司 記憶 後世に残したい」(『中国新聞』梅原勝己・編集委員) |
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0608 |
「原民喜文学碑 市長が揮強へ 東照宮宮司ら依頼」 (『中国新聞』明知隼二・記者) |
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0726 |
「被爆直後のメモ 一節刻む 原民喜の追憶碑除幕 東照宮」(『中国新聞』新田葉子・記者)<除幕式:20100725> |
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2011 |
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0931 |
(『中国新聞』) |
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2012 |
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0726 |
(『中国新聞』) |
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2013 |
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0213 |
「 宗派超え平和考える 広島・長崎宗教者会議」(『中国新聞』山本乃輔)<今年で28回目> |
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2014 |
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0805 |
二葉の里歴史の散歩道ブラッシュアップ研究協議会(7社寺・広島市など)主催行事:7社寺が「平和の灯」(平和公園)から採火した約千本のロウソク点火。今年で3回目。(『中国新聞』20140730、川手寿志) |
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2015 |
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0309 |
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0520 |
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0625 |
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0804 |
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0810 |
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2019 |
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0331 |
「久保田訓章氏死去」(『中国新聞』0401) |
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止
ジョン・ハーシー
ハーシー、ジョン |
19140617生19930324没 |
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はーしーJohn Hersey |
78 |
広島のルポルタージュ「ヒロシマ」の著者。2002年の広島市の平和宣言(秋葉市長)に著書『ヒロシマ』が取り上げられる。『広島県現代文学事典』(植木研介・記)。 |
資料年表:ジョン・ハーシー<作業中>
年月日 |
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19140617 |
誕生 |
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20020806 |
秋葉広島市長、平和宣言で著書『ヒロシマ』に言及。「ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』や**さえも忘れられつつあります」 |
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19930324 |
死亡。享年78歳。 |
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止
『河村郷四追想録』(河村郷四追想録編纂委員会、19860315)
内容<作業中>
部 |
著者 |
タイトル |
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海塚義郎 |
序にかえて |
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写真集 |
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1 |
少年期より青年期へ |
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2 |
マツダと河村さん |
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3 |
広島テレビと河村さん |
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4 |
スポーツと河村さん |
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5 |
河村さんと社会活動 |
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6 |
河村さんへのレクイエム |
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荒木武 |
教育への熱い想い―河村さんとの語らいの中で |
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遺族の方々より |
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栗村良周 |
兄を偲ぶ |
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松元寛 |
仕事の中に心を見ていた人 |
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中西忠彦 |
義父河村郷四の思い出 |
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河村瑠璃<妻> |
追憶 |
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河村郷四年譜 |
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あとがき |
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止
川本義隆
かわもと・よしたか |
生20020331没 |
享年69歳 |
広島平和記念資料館館長(1983年4月~1993年3月)。<別記> |
止
資料年表:川本義隆<作業中>
年月日 |
事項 |
備考 |
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1974051 |
「脱出生徒の記録(昭和21年春広島一中第2学年のころ記す)」 『ゆうかりの友』(広島県立一中被爆生徒の会) |
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「(1氏名)川本義隆、(2勤務先)広島市役所、3(出身校)、4(被爆当時の学級)第1学年12学級、(住所)広島県佐伯郡大野町****」 pp.39-42 |
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19840301 |
「講演 (広島平和記念館館長) 川本義隆」(『平和を願う念仏者の集い 第1回-核兵器廃絶へ向けて 記録集(58.7.9)』(浄土真宗本願寺派安芸教区教化推進協議会)) pp.6~11」 |
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19850415 |
「平和を誓う場 資料館 川本義隆」(『子どもたちに平和な未来を―平和への願い第2集―』(生活協同組合ひろしま平和部会)) |
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19860301 |
「ヒロシマを語る 川本義隆 2」(『平和へのねがい 第6号』原水爆禁止西宮市協議会、西宮市編) |
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19860801 |
(制作日)被爆者証言ビデオ(広島平和文化センター) |
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20020331 |
肺がんのため広島市中区の病院で死去、69歳。 |
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20090101 |
「被爆体験記」川本義隆ほか(広島平和記念資料館)<広島平和文化センター被爆体験証言者で、証言講話を引退した人のプロフィール・体験記をファイルしたもの(啓発担当の平和学習で紹介していたもの等)> |
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止
資料年表:パール・バックとヒロシマ(主な出典『中国新聞』)
年月日 |
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19461120 |
『アジヤの友へ アメリカ人の生活と国民性について』(翻訳者:石川欣一、発行所:毎日新聞社、配給元:日本出版配給株式会社) |
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1949/1/– |
米講演旅行中の広島流川教会の谷本清牧師から近況報告。「ワシントンでメソジスト教会などの協力の下に『広島を世界平和のメッカに』の運動を始めた。パール・バック氏、ジョン・ハーシー氏らの協力も得ている」 |
1949/3/23 |
ニューヨークでヒロシマ・ピース・センター協力会が結成。「土曜文学評論」のノーマン・カズンズ主筆、パール・バック氏、スタンレー・ハイ氏(リーダーズ・ダイジェスト主筆)、ハリー・カーン氏(ニューズ・ウィーク主筆)らが中心(「広島原爆とアメリカ人」) |
1951/5/5 |
米の作家パール・バック女史が中国新聞社の創立60周年を祝い祝辞。「広島の記憶はアメリカ民衆の良心から永久に消え去ることはないでしょう。広島という名称は平和をもたらすための私たちのシンボルとなりつつあります」 |
1952/8/6 |
中国新聞を通じ8月6日メッセージ。ノーマン・カズンズ、マービン・グリーン、パール・バック、アルフレッド・パーカー、フロイド・シュモー、エメリー・アンドリュース、ウィリアム・デビン、メアリー・ジョーンズの各氏 |
1952/12/– |
米国整形外科学会からABCCテーラー所長を通じ広島県医師会に、「広島、長崎に原爆症治療班を1年の予定で送りたい。受け入れ態勢はどうか」との非公式問い合わせ。真杉静江さんら東京の作家グループがパール・バック女史を介し故ルーズベルト大統領夫人に働き掛けた結果 |
1955/6/19 |
原水爆禁止世界大会広島準備会がパール・バック女史、ジョン・ハーシー氏、キュリー夫人、アラゴン氏、サルトル氏、郭沫若氏ら70人に大会招請状を発送 |
1955/12/10 |
パール・バック、バートランド・ラッセル氏らで構成するスイスの人権アカデミー(本部ジュネーブ=1950年6月発足)が広島、長崎両市へ「原爆被災が平和運動の発端になった」とメダルを贈呈 |
1958/4/11 |
米核政策健全化委員会がニューヨーク・タイムズに著名47人の連名で、「太平洋上の核実験を停止させるためアイゼンハワー大統領に訴願書を提出する。国会議員、編集者、放送機関にも訴える」との意見広告。同委員会は前年11月、作家、牧師、教育者などの有志で結成、ノーマン・カズンズ氏が臨時議長に就任。その後、参加者はルーズベルト夫人、パール・バック女史、仏の作家アルベール・カミュ氏など多彩に |
1965/10/3 |
広島市宇品町の広島「憩いの家」で、「被爆者の集い」1,000回記念祝賀会。参加人員延べ5万3,000人。1964年、パール・バック女史、バートランド・ラッセル博士ら国際的文化人約2,000人をメンバーとする国際協力委員会広島ハウス財団(事務局ニューヨーク)が発足、2カ月に1度の割で被爆者救援の定期便 |
1967/12/23 |
ニューヨークの「広島憩いの家国際協力委員会」から広島市宇品町の広島「憩いの家」に被爆者救援金10万円が届く。「憩いの家」設立者のアイラ・モリス夫妻、バートランド・ラッセル卿、パール・バック女史ら |
1973/3/6 |
パール・バック女史が米バーモント州ダンビーの自宅で死去。80歳。 |
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小説「大地」で知られる米作家でノーベル文学賞受賞者のヒロシマ・ピース・センター運動、精神養子運動などを支援
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。