「2-4平和式典の式次第」カテゴリーアーカイブ

合唱団の構成(1991年)

合唱団の構成(1991年)

NO. 合唱団名 人員
1  広島大学合唱団 10
2 広島大学グリークラブ 14
3  広島大学東雲混声合唱団パストラール 24
4  広島女子大学 フラウエン・コール 6
5  広島少年合唱隊 72
6  広島少年合唱隊 母親コーラス 28
7  広島ジュピター 少年少女合唱団 76
8 広島放送児童合唱団 80
9  広島中央合唱団 13
10 広島ジュニアコーラス 48
11 エコー合唱団 11
12 広島合唱同好会 9
13 袋町小学校PTAコーラス部 23
14 コール・テンマ 31
15 基町小学校PTA 2
16  尾長小学校PTA ママさんコーラス 12
17 鈴が峰小学校PTAコーラス 12
18 舟入高校音楽部 8
19 ィンランド・タピオラ少年少女合唱団 39
(19団体) 518

 

 

原爆死没者名簿奉納数

表3

追加数 内数①②③ 総数
1952 57902 57902
1953 391 58293
1954 212 58505
1955 523  59028
1956 680  59708
1957 185 15   59893
1958 173  60066
1959 187  60253
1960 161 95 66 60414
1961 139 64   60553
1962 125 83 42 60678
1963 127 29   60805
1964  169 44  60974
1965 469 69   61443
1966 550 68 61993
1967 430 157 43 62423
1968 1101 521 428 121 63524
1969 9211 1390 6764 1035 72735
1970  3606   1228   1122  1196 76341
1971  1745  243   389  1107 78086
1972  2097   204 319  1567 80183
1973  2650   321  742   1575 82833
1974  1970  139  396    1429 84803
1975  2172  128  450  1590 86975
1976   2159   114  392 1647 89134
1977  2282  1 43   528  1611 91416
1978  2179  97   370  1712 93595
1979   2090  59  318 1713 95685
1980  2279  71   355  1853  97964
1981    2753  82   656  2015  100717
1982   3060  112  792   2153  103777
1983  5179  65  2648    2466  108956
1984   4315  56  1685   2573  113271
1985  25419  123  22009 3234  138690
1986   4941  165  1018 3656  143590
1987   4619  110   993  3473  148177
1988   4476   114  931  3428  152650
1989 4 424   23  921  347 4  157071
1990  10175  1565  5117 3483  167243
1991 4787 20 1081 3682 172024
 2021

注:①1945年8月6日死没者
②1945年8月6日~前年8月5日死没者
③前年8月6日~当年8月6日死没者
出典:1967年までは新聞報道、68年以降は広島市原爆被害対策部資料

平和式典(1947・52・91年)の式次第

平和式典(1947・52・91年)の式次第

1947年 1952年 1991年
開会挨拶  開会の辞  慰霊碑献水
平和塔除幕 慰霊碑除幕 開式
平和の歌合唱 原爆死没者過去帳奉納 原爆死没者名簿奉納
平和宣言 式辞 式辞
平和の鐘 平和の鐘・黙とう 献花
(平和への祈り) 平和宣言 黙とう・平和の鐘
メッセージ 放鳩 平和宣言
祝電披露 メッセージ朗読 放鳩
放鳩 平和の歌合唱 あいさつ
平和記念樹植樹 閉式の辞 ひろしま平和の歌
平和賛歌合唱 閉式
閉会の辞

出典:『中国新聞』、広島市『平成3年平和記念式典資料』

 

 

演奏と合唱(式次第)

平和式典の式次第

(5) 演奏と合唱

1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。

平和の鐘と黙とう(式次第)

平和式典の式次第

(4) 平和の鐘と黙とう

平和の鐘は、式典の中で8時15分に黙とうの合図として鳴らされるのが常であった。式典が中止となった1950年(昭和25年)にもこの鐘だけは鳴らされた。ただ、翌51年には、式次の中に「平和の鐘」が盛り込まれず、黙とうはサイレンを合図に実施された。
平和塔に設置された洋風の鐘は、当時、広島のシンボルとして扱われた。第1回平和祭で初めて鳴らされた後、この鐘は、47年12月の天皇行幸の際の天皇の相生橋通過の時、また48年2月に日本文化平和協会などが「文化国家建設学生大会」を平和塔の下で開催した時、さらに第2回平和祭において鳴らされた。広島逓信局は、第2回平和祭にあたり、平和塔、鐘、鳩の3点を図案化した記念スタンプを作成した。また、この鐘は、49年4月に東京日本橋・三越本店で開催された「広島県観光と物産展示会」の会場でも鳴らされた。
1949年6月、広島銅合金鋳造会(広島県銅合金鋳造工業組合の市内在住者を中心とした20人で結成)は、平和記念都市建設法の国会通過を記念して、「平和の鐘」を広島市に寄贈することを計画した。山本博広島工業専門学校教授の設計による鐘は、直径1.2メートル、高さ1.4メートル、重量760キログラムの洋風の鐘であった。意匠の八つがいの鳩は片田天玲画伯が筆をとり、市章と「ノー・モア・ヒロシマズ」(英文)が織り込まれた。また、49年8月4日、平和式典会場の市民広場に10メートルの鐘楼が完工した。鐘は、49年の式典前日、横川町の鋳造会事務所から花で飾った牛10頭と馬2頭に運ばせ、鐘楼に取り付けられた。
この鐘は、1949年の式典で鳴らされた。しかし、翌年以降は、式典の中止や式典会場の変更などにより、式典での役割を与えられることはなかった。52年から再開した式典での「平和の鐘」には、市内の寺から借用した鐘が使用された(「中国新聞(夕刊)1977年8月12日)。また、67年の式典からは、香取正彦(日本工芸会副理事長)が広島市に寄贈した鐘(高さ77センチ、直径55センチ、重さ100キロ。吉田茂元首相の書「平和」が刻まれている)が用いられるようになり、現在に至っている。
第1回から第3回(1947-49年)までの式典で鐘を鳴らしたのは浜井市長であった。第1回と3回では14回点打されたと報じられている。しかし、52年以降は、だれの手によって鳴らしたかは、報道されなくなった。鐘の点打者が、ふたたび、注目を浴びたのは、57年の式典においてであった。この年、来賓の三笠宮夫妻に奉呈用の花輪を手渡す役と平和の鐘を点打する役に、それぞれ若い被爆女性が起用された。これをマスコミは「原爆乙女が慰霊式に参列」と報じ、以後毎年、鐘の点打を式典の大役として大きく報道するようになった。それによれば、翌58年から60年には2人の「原爆乙女」が、61年と62年には1人の若い被爆女性が「平和の鐘」を鳴らしている。63年からは、この役は、「被爆者」に代わり男女1人ずつの「遺族」が勤めるようになった。69年には初めて既婚の男女が、80年には胎内被爆の男女が、また、81年には被爆二世の男女が、「遺族」として選ばれている。

(5) 演奏と合唱
1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。

献花(式次第)

平和式典の式次第

(3) 献花
1947年(昭和22年)から49年の平和祭には、式典で花を供える式次は存在しなかった。ところが、51年の式典からは、花を供える行事が取り入れられた。51年には、岩国基地所属のアメリカ軍機から花輪が、52年には、岩国基地と新聞社の飛行機から花輪と花束が式典上空から投下され、戦災供養塔や原爆死没者慰霊碑に供えられた。このような飛行機からの献花は、式次の中の行事ではないが、慰霊という要素が、式典に取り入れられていることを現している。また、1951年の式典では、「キリスト教の献花祈祷」、「浜井平和協会長の献花」が行われた。いずれも式典の前半に行われた慰霊祭の中の行事で、前者は、「教派神道の修祓」、「仏教の敬白文奏上・読経回向」などと、また、後者は、「藤田供養会会長の焼香」、「遺族代表の玉串拝礼」などと並んで行われており、「献花」として特別に設定された式次ではなかった。特別の式次として式典に初めて登場するのは、53年のことである。当初、名称は「花輪奉呈」であったが、68年に「献花」と改称された。
1953年の式典では、原爆死没者名簿の奉納に続いて、「花輪」が、市長、市議会議長、県知事、県議会議長によって原爆死没者慰霊碑に奉呈された。翌54年の「花輪奉呈」には、前年の4人に新たに内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長と遺族代表が加わった。「遺族代表」の参加は、浜井市長の発意で、毎年各施設に収容されている原爆孤児のなかから男女各1人の代表を選ぶことになった。54年には、新生学園(中学2年の男子)と広島戦災児育成所(中学2年の女子)が選ばれた。その後、55年は広島修道院、似島学園、56年は新生学園、光の園、57年は広島戦災児育成所、似島学園、58年戦災児育成所、新生学園、59年戦災児育成所、広島修道院、60年は広島戦災児育成所、童心園から「遺族代表」が選ばれている。しかし、61年からは、「遺族代表」の選出は、孤児収容施設からではなくなり、63年からは、「平和の鐘」を打つ役目の遺族代表が、「献花」の役目も受け持っている。
1961年には、「被爆者代表」が献花に加わった。この年の代表は、大内義直広島市原爆被爆者協議会副会長が務め、以後76年まで、慣例として同協議会の代表が「被爆者代表」に選ばれた。77年以降、「被爆者代表」は2人に増やされ、86年からは、男女2人ずつの4人となって現在に至っている。例外的に85年の「被爆者代表」は6人であったが、このうち4人は日本人であり、残りの2人は、在外被爆者の倉本寛司(米国原爆被爆者協会会長)と郭貴勲(韓国原爆被害者協会)である。さらに、73年からは献花に長崎市民代表が、また、81年からは全国都道府県から式典に招待された遺族の中から2人の代表が献花に加わるようになった。
このほか、1955年、59年、61-63年には、原水爆禁止世界大会に海外から出席した代表が、献花に加わっている。また、皇族(57、58、60年)、国連総会議長(77年)などの参列があった年には、こうした来賓による献花が行なわれた。
「献花」の順序は、当初、「市長、市議会議長」(市)→「内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長」(国)→「県知事、県議会議長」(県)→「被爆者代表」→「遺族代表」となっていたが、1968年からは、市→「遺族代表」→「被爆者代表」→国→県の順に変更され、現在に至っている。こうした改善は、70年から始まる「流れ献花」とともに、式典の市民的色彩を強めようとした措置であった。

 

原爆死没者名簿の奉納(式次第)

平和式典の式次第

(2) 原爆死没者名簿の奉納
広島市調査課は、1951年(昭和26年)5月、原爆死没者調査を実施した。再三のGHQへの陳情の結果実現したもので、7回忌(51年8月6日)を期して慰霊堂に合祀するための全死没者名簿作成を目的とするものであった。調査は、「広島に投下された原子爆弾により直接に、又は原爆の影響を直接の原因として死没された方全部」を対象としており、調査の内容としては、「1.死没者の氏名、2.性別、3.死没時の年齢、4.死没者の当時の住所、5.死没者の当時の職業(勤務先)、6.死没年月日、7.直接の原因、8.死没の場所、9.被爆時にいた場所」の9項目があげられていた。その方法は、関連者からの申告によるものとし、「広島市内及び広島県下については特別に徹底を期して、調査票も市内は全世帯に配布、県下も多量配布し、個人票以外に事業体、学校、団体、病院、寺院等には連記制調査票も配布」した。また、県外については、「各県の地方課から各市町村役場の関係課係を通じて連絡員(部落の世話人)、前国勢調査員、学校の生徒達の御協力により、或は告知板の利用等により申告者に調査票を入手させ、記入して貰う」こととした(広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意 書」)。慰霊堂の建設は、51年の式典には間に合わなかった。しかし、式典前日までに確認された氏名は、いろは別にカーボン紙に記載され、式典会場の戦災供養塔に供えられた(広島市『市勢要覧昭和26年版』、「中国新聞」54年8月6日)。
1952年7月上旬、広島市は、市内の能筆家20人に委嘱して過去帳への記載を始めた。5万7,902人の原爆犠牲者の名前を謹記した15冊の「広島市原爆死没者名簿」は、8月6日の式典で、浜井広島市長の手によって原爆死没者慰霊碑の中に設けられた奉納箱に納められた。広島市調査課は、この名簿の写しを、式典当日、原爆死没者慰霊碑と戦災供養塔前で公開し、記帳洩れの届出の受け付けを行なった。53年の式典では、この日以降新たに確認された391人の追加者の名簿が奉納され、以後、追加名簿の奉納が式典の慣例となった。
広島市は、1951年の調査に先だって、死没者の総数を20数万人と想定していた(「中国新聞」51年4月14日)。この根拠は、被爆当時の広島市内の人口を42万人(市内在住者約25万人、軍関係者約8万人、市外からの来広者約9万人)と推定、それから、50年に国勢調査付帯調査で明らかになった生存者数15万7,575人を差し引くという大雑把なものであった。ところが、51年の調査の結果は、6万人にも達せず、広島市調査課長は、53年7月に、死没者数は十数万が妥当との見解を発表した(「中国新聞」53年7月22日)。
原爆死没者名簿作成当時、この中への記帳者は、原爆被爆時またはその直後に死亡したもののみが対象との理解があった。翌1954年の式典での追加記入は212人に過ぎず、こうした結果を踏まえて、今後の追加者を加えても、名簿記帳者数は、6万人程度にとどまるのではないかとの見解が報じられている(「中国新聞」54年8月6日)。しかし、その後、被爆後数年経過した時点での死没者も記帳対象と考えられるようになった。57年には22人、58年には34人、59年には38人(原爆病院で死亡した人)が、過去1年間の死没者として名簿に追加されている。
表3は、現在までの追加数と名簿奉納総数を年別にみたものである。名簿への記帳は、遺族からだけでなく、関係団体からの申し出によってもなされた。1955年と56年には、県婦協の調査により確認された死亡者が追加され、記帳者数が増加した。69年の9,211人という増加は、市長が、被爆者健康手帳所持者で届出の無い死亡者6,844人を職権で記載したためである。また、この年には、原爆供養塔の無縁仏のうち氏名判明分1,071柱の名前が、広島戦災供養会の申し出により記入された。追加奉納された犠牲者のうち、過去1年間の死亡者の人数は、67年までは、100人未満、68年は121人であった。しかし、広島市が、市内の死亡者の中から被爆者を調査して追加奉納を行なうようになった69年以降は、1、000人を超えるようになった。
広島市は、市外の死亡者については、自動的に名簿に記載するという措置を取ることができないでいた。原爆医療法(1957年3月31日公布、正式名称:原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)、原爆特別措置法(68年5月20日公布、正式名称:原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)にもとづく行政事務は、広島・長崎両市を除き都道府県が担当しているからである。77年の場合、7月13日現在で名簿追加記帳予定者数は、1,664人(最終的には2,282人)であったが、そのうち、広島市の措置による数は、1,489人であり、遺族と名簿記入運動を進めている広島県原爆被害者団体協議会の届出分は、175人に過ぎない。この年、広島市を除く広島県内の被爆者健康手帳1,141人分が、所持者の死亡により県に返還されていた。しかし、広島県が、記帳の申し出は遺族の自主判断に任せるという方針を採っていたため、県から市へ記帳対象者として連絡されることはなかった(「読売新聞」1977年7月22日)。このような死亡時の居住地による名簿記帳手続き上の差異を無くするため、広島市は、80年、全国の原爆被爆者対策担当窓口に死没者名簿登載申請書を送った。また翌81年には、長崎市と連名で、知事 、政令市市長などを通じて、全国の遺族に犠牲者の名簿記載を呼びかけ、さらに82年には各地の被爆者団体にも働きかけを行なった。
年々の追加奉納数は、表3のように1972年と83年を画期として、それぞれ2,000人、4,000人を超えるようになっており、85年と90年には顕著な増加を示した。85年の急増は、前年、被爆者関係のデ-タ処理をそれまでの片仮名処理から漢字処理に変更した広島県が、被爆者健康手帳が交付されるようになった57年以降の死亡による手帳返還者2万865人の名前を広島市に提供したことによる。また、90年の急増は、85年に厚生省が実施した死没者調査で新たに判明した5,551人の犠牲者名が加えられたためである。
原爆死没者名簿の奉納は、一貫して市長の役割であった(ただし、1960年のみ県知事と共同で行なった)。その補助者を、69年までは市の職員が務めていたが、翌年からは遺族代表が務めるようになった。70年の補助者に選ばれたのは、この年に新たに名簿に追加された2人の死没者の遺族であった。その後、補助者は、2人(男女)が通例となった。ただ、追加者数の多かった85年と90年には3人が務めている。
原爆死没者名簿(仏式で「過去帳」とも呼ばれる)には、俗名・死没年月日・享年が記入されている。奉納された簿冊の数は、1952年の15冊から始まり、91年には、57冊となった。

 

式次第

平和式典の式次第
(1) 式次第
式次第の要素の中には、最初から一貫して存在するもの、当初には存在していたのに消えたものや、ある年のみに存在したもの、新たに加わったものがある。表2は、1947年(昭和22年)・52年・91年の式典の式次第を比較したものである。これにより、「平和の歌合唱」、「平和宣言」、「平和の鐘・黙とう(47年では平和の祈り)」、「放鳩」、「メッセージ(91年ではあいさつ)」といった要素が、順序は異なるものの、共通に存在しているがわかる。このうち「放鳩」以外は、最初から一貫して式次第に存在しているものである。
「放鳩」は、1947年の第1回平和祭から存在した。この年には、「平和のシンボル白鳩10羽が中村商工会議所会頭によって手放された」と報じられている(「中国新聞」47年8月7日)。48年には、ミスヒロシマの手によって鳩が放たれた。また、49年の鳩10羽は、くす玉に入れられており、前年同様、ミスヒロシマがくす玉を開いて、鳩を放している。当時、広島には鳩は居らず、その入手には、苦労をした模様で、放鳩に使用されたのは白鳩ではなく黒い鳩であったとか、鳩は九州の新聞社から借用したといったエピソードが伝えられている。「放鳩」は、51年から53年の式次第では消えたが、54年に再び現れた。放たれた鳩の数は、54年から59年にかけては500羽から700羽、60年から66年には1、000羽、67年と68年には1、400羽、69年以降は1、500羽と報じられている。
1947年の式次第にある「平和記念樹植樹」は、これ以後3回存在して姿を消した。「祝電披露」という表現は、51年以降は、用いられていない。単年のものとしては、「平和塔除幕」(47年)以外に、「詩・ヒロシマを思いて(大木惇夫作)」朗読、「くす玉開き」、「平和記念館設計当選者発表」(49年)、「慰霊祭」(51年)、「原爆死没者慰霊碑除幕」(52年)、「皇太子殿下追悼の言葉」(60年)、「扇ひろ子の原爆の子の像の歌」(64年)、「原爆死没者名簿引渡し」(90年)などがある。
「献花」は、1951年に現れているが、翌52年には存在せず、53年から「花輪奉呈」との名称で現れた。その後、68年に「献花」と改称され現在に至っている。また、70年以降は、「献花」に引き続いて「流れ献花」が設定された。「式辞」は、52年に現れ、現在に至っている。広島市議会議長が述べるのが通例であるが、広島県との共催で開催された60年の式典のみ、県知事が述べた。また、52年には、原爆死没者慰霊碑への「原爆死没者名簿奉納」が始まった。
開式の前であり、正確には式次第の要素とは言えないが、「献水」の行事が1974年から取り入れられた。これは、前年の長崎の式典に参列した山田広島市長が、長崎で採用されていたこの行事に感銘し、広島でも実施することとしたものである(「中国新聞」1974年7月2日)。広島市は、同年7月29日に献水の要領を決定したが、それによると、平和記念日当日早朝、市内の清流から水を集め、木曽さわら杉を使った水桶二つに入れ、式典直前に原爆死没者慰霊碑前に供え、式典後「平和の池」に注ぐことになっている(「毎日新聞」1974年7月30日)。清水を採る場所は、発足時は10か所であったが、91年には東区牛田新町浄水場、牛田新町天水、温品町清水谷、西区田方斉神、三滝町三滝、己斐上町滝の観音、安佐南区上安町荒谷山、緑井町権現山、沼田町大塚、安佐北区安佐町小河内、可部町福王寺、高陽町中深川、白木町秋山、安芸区矢野町尾崎、阿戸町景浦山、佐伯区五日市町屋代の16か所となっている。
1952年と91年の式次第は、「原爆死没者名簿奉納」→「式辞」→「献花(52年では欠)」→「黙とう・平和の鐘」→「平和宣言」→「放鳩」→「あいさつ」→「ひろしま平和の歌」である。ここでは、8時15分の「黙とう・平和の鐘」を、慰霊式と平和記(祈)念式の変わり目と理解することができる。ところが、54年から67年までは、「平和宣言」が「黙とう」より前に設定されており、式次第の上では、慰霊式と平和記念式の区別があいまいとなっていた。68年には、これがはっきり区別されるように変更された。しかし、この年からの式次第では、「ひろしま平和の歌」→「あいさつ」となっており、91年と完全に同じでない。現在の形式が定着するのは、1971年以降のことである。
平和式典の開催時間は、当初は(1947ー52年)、1時間が普通であった。ただ、慰霊祭が式次第に組み込まれた51年の式典は、8時半から11時(夏時間で、実際は7時半から10時)までの2時間半開催され、式典時間の中では最も長時間である。ところが、53年からは30分間が普通となり、70年以降は、40分間から50分の間で実施された。開始時刻は、49年以外はすべて原爆被爆時刻の午前8時15分を挟んで設定され、その時刻に「平和の鐘・黙とう」が行なわれた。49年の式典では、午前8時15分が開始時刻であり、「平和の鐘」から始められた。

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