献花(式次第)

平和式典の式次第

(3) 献花
1947年(昭和22年)から49年の平和祭には、式典で花を供える式次は存在しなかった。ところが、51年の式典からは、花を供える行事が取り入れられた。51年には、岩国基地所属のアメリカ軍機から花輪が、52年には、岩国基地と新聞社の飛行機から花輪と花束が式典上空から投下され、戦災供養塔や原爆死没者慰霊碑に供えられた。このような飛行機からの献花は、式次の中の行事ではないが、慰霊という要素が、式典に取り入れられていることを現している。また、1951年の式典では、「キリスト教の献花祈祷」、「浜井平和協会長の献花」が行われた。いずれも式典の前半に行われた慰霊祭の中の行事で、前者は、「教派神道の修祓」、「仏教の敬白文奏上・読経回向」などと、また、後者は、「藤田供養会会長の焼香」、「遺族代表の玉串拝礼」などと並んで行われており、「献花」として特別に設定された式次ではなかった。特別の式次として式典に初めて登場するのは、53年のことである。当初、名称は「花輪奉呈」であったが、68年に「献花」と改称された。
1953年の式典では、原爆死没者名簿の奉納に続いて、「花輪」が、市長、市議会議長、県知事、県議会議長によって原爆死没者慰霊碑に奉呈された。翌54年の「花輪奉呈」には、前年の4人に新たに内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長と遺族代表が加わった。「遺族代表」の参加は、浜井市長の発意で、毎年各施設に収容されている原爆孤児のなかから男女各1人の代表を選ぶことになった。54年には、新生学園(中学2年の男子)と広島戦災児育成所(中学2年の女子)が選ばれた。その後、55年は広島修道院、似島学園、56年は新生学園、光の園、57年は広島戦災児育成所、似島学園、58年戦災児育成所、新生学園、59年戦災児育成所、広島修道院、60年は広島戦災児育成所、童心園から「遺族代表」が選ばれている。しかし、61年からは、「遺族代表」の選出は、孤児収容施設からではなくなり、63年からは、「平和の鐘」を打つ役目の遺族代表が、「献花」の役目も受け持っている。
1961年には、「被爆者代表」が献花に加わった。この年の代表は、大内義直広島市原爆被爆者協議会副会長が務め、以後76年まで、慣例として同協議会の代表が「被爆者代表」に選ばれた。77年以降、「被爆者代表」は2人に増やされ、86年からは、男女2人ずつの4人となって現在に至っている。例外的に85年の「被爆者代表」は6人であったが、このうち4人は日本人であり、残りの2人は、在外被爆者の倉本寛司(米国原爆被爆者協会会長)と郭貴勲(韓国原爆被害者協会)である。さらに、73年からは献花に長崎市民代表が、また、81年からは全国都道府県から式典に招待された遺族の中から2人の代表が献花に加わるようになった。
このほか、1955年、59年、61-63年には、原水爆禁止世界大会に海外から出席した代表が、献花に加わっている。また、皇族(57、58、60年)、国連総会議長(77年)などの参列があった年には、こうした来賓による献花が行なわれた。
「献花」の順序は、当初、「市長、市議会議長」(市)→「内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長」(国)→「県知事、県議会議長」(県)→「被爆者代表」→「遺族代表」となっていたが、1968年からは、市→「遺族代表」→「被爆者代表」→国→県の順に変更され、現在に至っている。こうした改善は、70年から始まる「流れ献花」とともに、式典の市民的色彩を強めようとした措置であった。