「履歴書」カテゴリーアーカイブ

京大文学部国史研究室<宇吹在籍時>

日本史研究室の歩み<抄>

小葉田淳(1905~2001):国史学第1講座

赤松俊秀(1907~78):国史学第2講座

小葉田が昭和44(1969)年、赤松が昭和46(1971)年に退官を迎えるまで、2人は事実に基づいた堅実な学風を自ら堅持しつつ、自由奔放な戦後の若者の学問的成長を温かく見守り、多くの個性的な研究者を育て上げた。

岸俊男(1920~87):国史学第1講座

岸が教授に昇任した前後は、学生運動の昂揚期に当たっており、荒れる学生を前にして、岸は国史学の主任教授として常にこれに誠実に対処しながら、学問のあるべき形を身をもって示した。

朝尾直弘(1931~)

昭和43(1968)年に助教授になった朝尾直弘(1931~)は、第1講座の岸を助け、実質上は小葉田退官の後を受けて、近世史を講じた。当初は幕末期を研究した朝尾はやがて近世初期に研究の力点を移し、『寛永時代の基礎的研究』(1964年)で学位を得た。昭和55(1980)年に第2講座の教授に昇任した朝尾のもとで、「大学紛争」によって中絶したままになっていた読史会の大会が昭和60(1985)年秋に再開された。また長年の懸案であった文学部附属博物館の改築がなり、蒐集の古文書・古記録類は設備の整った新館の収蔵庫に収納された。朝尾は学生部長、附属図書館長などを歴任する一方、織豊政権、鎖国、身分制、都市論など近世社会に関する理論的、実証的な研究によって長く学界の指導的立場を保ち続けた。

能平のAgora一河音能平追悼文集

能平のAgora一河音能平追悼文集(刊行委員会<河音久子気付>20041011)

内容<作業中

大山喬平 刊行の辞
003 弔辞
019 河音能平の遺稿
085 河音能平の歴史学
125 さまざまな出会い
127 甲南のころ
151 「Agora」のころ
164 陳列館の前後
208 大阪市大のころ
252 関西大学大学院
257 学問の先輩・友人・後輩
293 国際交流・資料の国際比較
333 家族
351 略歴・著作目録
371 お礼にかえて

広島県立音戸高等学校の日々(抄)1969年10月1日~

広島県立音戸高等学校の日々(抄)1969年10月1日~

月日
1969
0930 職員会議 宇吹着任の挨拶
1002 朝礼 着任式(宇吹)
1006 高教組本部オルグ 副委員長 11・13の斗いについて
職員会議 高校生の政治活動について 部落研と安保
1007 今日より2週間、1年5組のHR
1011 [職員会議]②同教報告 広相就職差別事件に関連して
1017 職員会議 ②高同教大会(臨時時間割)今日・明日
1021 [職員会議]④同和講演会 22日(水)9:20~12:00 正覚寺 講師・広大 後藤陽一
1028 本部オルグ
 1102  文化祭
 1224  終業式
 1970
0108 始業式
 0209  3年期末試験。~14日。
 0301  卒業式。
 社会科教員集合写真
  ondo-001
 出典:『Graduation Memory 21th  1970 音戸県立音戸高等学校』(卒業アルバム)

 

 

被爆60年を迎えて-近況と今後の抱負(宇吹暁)

被爆60年を迎えて-近況と今後の抱負

宇吹 暁(広島女学院大学)

 被爆50周年までの原爆手記の一応の取りまとめを終えたのが1996年末、これを増補したものを1999年に日外アソシエーツから『原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945-1995』(38955編の手記を収録した3677冊を紹介)として出版することができました。この解題の中で、私は、つぎのように述べています。

原爆被害は、しばしばアウシュビッツや南京の被害と並んで取り上げられる。しかし、多くの場合、犠牲者の数の比較にとどまり、被害者一人一人の個性において表現されているわけではない。もし、30数万人の被爆者及び数不明の遺族・被爆二世などの原爆被害者が、手記を書く、つまり原爆被害への自らの思いを活字として遺すとすれば、それは貴重な「平和への道標」(1986年発行の豊中市原爆被害者の会の手記集のタイトル)となることであろう。
広島で原爆白書の作製が提案されて、30年が経過した。この間、原爆被害の実態解明の試みがさまざまな形でなされてきた。原爆被災資料広島研究会による原爆被災資料の所在確認作業、広島・長崎両市の原爆資料館をはじめとする公共機関による資料の収集・保存事業、10フィート運動による原爆映画の製作、マスコミ各社の原爆企画報道など、その量は膨大なものである。原爆白書にとって、これらの成果を踏まえることはもちろんであるが、なによりも重要なのは、原爆被爆者の体験を基礎に据えることである。その意味で、原爆手記の分析は、原爆白書の基礎と骨格を構築する作業といえよう。
被爆体験は、原水爆禁止運動・反核運動のエネルギーの源泉であった。また、1980年代からは、被爆体験の証言活動を中心とした被爆者運動は、日本の運動の中心的役割を果たしてきた。日本の運動を振り返り、運動の今後を展望しようとする際、原爆手記の分析は、多くの示唆を与えてくれるであろう。

私は、原爆手記分析が、当面の課題と考えていましたが、転職により、しばらく中断をせざるを得なくなりました。早いもので、新しい職場である広島女学院大学で、5回目の8月6日を迎えようとしています。着任当初の予定では、3年間は、新任校での教育と校務に専念し、4年目以降定年まで、原爆被害に関するテーマに取り組むつもりでおりました。この予定は、二つの点から狂ってしまいました。一つは、残念ながら、なかなか以前のようなまとまった時間が取れない日々が続いていることです。もう一つは、初年度から毎年、学生とともにヒロシマについて学び考える機会が予想外の形で起っています。

着任直後の2001年5月24日に、アメリカの提携校ランドルフ・メイコン女子大学との合同セミナーで原爆被害についての講演を行いました。新たな講義の準備に追われる日々を送っていた私にとって、それまでの自分の専門の仕事が認められる可能性を感じることができた貴重な体験でした。これ以後、本学恒例の原爆記念日の平和祈念式、キリスト教主義大学の学生を本学に招いて開いているジョイント8・6平和学習プログラムなど、原爆問題の関わる学内行事には、積極的に参加してきました。
2年目には、朗読劇「夏雲は忘れない」に被爆当時の学院長役で出演しました。この劇は広島女学院の被爆体験記集をもとに構成し、本学の原爆講座(1967年に始まり第36回目)で上演したものです。練習中、自分自身の手記理解の浅さ、追体験することの難しさを痛感し、寝付かれない夜もありました。さらに、本番でも緊張しっぱなしで、観劇した学生の話では、私だけが「ブルブル震えていてカワイカッタ」とのことでしたが、遺族・同窓生の参加も得て大成功でした。
3年目からは、「平和文化」(2003年後期のみ)、「ヒロシマ」(2004年度は夏季集中で関西学院大学との連携講座、2005年度からは前期と夏季集中)を担当しています。講座「ヒロシマ」は、関西学院大学の平和講座設置計画が、同大学の学生による平和公園の「折鶴放火事件」を契機に、女学院大学との連携講座として実現したものです。初年度には30人の学生を迎え、2年目の今年は倍の60人が来学し、8月6日を挟んで、本学の学生とともに学ぶことになっています。
このほか、中国研修(2002年8月、蘆溝橋・中国人民戦争記念館など)、韓国研修(2003年3月、戦争記念館など見学)にも参加することができました。
被爆60周年を前に、マスコミは被爆体験継承の困難さを指摘しています。昨年の8月5日に放映されたNHK「クローズアップ現代」では、関西学院大学での平和講座を聴講する学生の態度(=私語・居眠りなど)をクローズアップしていました。このように、継承の困難さの原因を、学生の側に求める意見もあります。しかし、これらの行事・講義に参加したほとんどの学生は、それぞれ深い感銘を受けています。私は、女学院での体験を通して、継承の可能性への確信を持つことができました。問題なのは、こうした機会が、教育の現場から消えていくことだと思います。

女学院大学赴任以来、原爆手記を系統的に収集し読むという作業はできずにいます。しかし、それでも被爆50年を超えて、400冊を超える手記(集)が発行されていることを確認しました。つい先日も、『爆心地中島-あの日、あのとき-』(元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会編)が出版されました。手記などこれまでの出版物の記述を詳細に検討するとともに、新たに多くの証言を得て、爆心地である中島地域の被爆状況を明らかにしたものです。60年後の現在でも、かなりの証言を得ることが可能であることがわかりました。2004年に出版された中に『「原爆の絵」と出会う』(直野章子著、岩波ブックレット)、『原爆と寺院-ある真宗寺院の社会史』(新田光子著、法蔵館)があります。前著は、被爆の実相の普及に大きな役割を果たしてきた「原爆の絵」の全体像にはじめて向き合った経験の記録です。また、後著は、実家の寺院を中心に、その被爆状況や戦後復興のあゆみを多様な資料で明らかにした学術書です。直接の体験はなくても、被爆体験は新たな担い手により、新たな形で書き継がれています。女学院では、夏に向け同窓会が、新たに体験記集の出版を準備しています。また、女学院創立120周年を来年にひかえ、女学院の平和教育のあゆみをまとめる計画もあります。

今年になって、4半世紀前にまとめられた『広島原爆戦災誌』(全5巻、1971年8月~12月刊行)のテキスト版が広島平和記念資料館のホームページで紹介されていることを知りました。現在でも広島の原爆被害を包括的に取り上げたこの本は、しばしば活用されています。しかし、手記が多数出版されるようになったのは、この出版後のことであり、内容の不十分さが目立ちます。改訂版ないし増補版の作成計画が被爆40周年、50周年にあるかとも期待していましたが、そうした動きは生れませんでした。これまで書き残された体験記を今後生かしてゆく一つの方法として、『広島原爆戦災誌』改定・増補版の作成を提案します。ただし、本を出版することは想定していません。また、広島市にその作業を全面的に期待するものでもありません。具体的作業の一例をあげれば、広島女学院部分の改定・増補を、女学院の関係者がおこない、その成果をインターネット上で紹介することです。『広島原爆戦災誌』に取りあげられている各機関・団体でこの作業が行われたとすれば、広島市が、これらにリンクを張るだけで、とりあえずは改定・増補版が出来上がります。私は、この作業が本学の学生が中心となり、教職員・同窓生を巻き込んで進められることを期待しています。

自己紹介
1970年 広島県史編纂室、1976年 広島大学原爆放射能医学研究所、2001年より広島女学院大学勤務。広島県・広島大学では被爆資料の収集・整理・分析に従事。女学院大学では、生活科学部の芸術文化分野で講義「生活文化史」・「世界遺産」・「ヒロシマ」などを担当。

出典:『自分史つうしn ヒバクシャ』第150号(編集・発行:栗原淑江、20050710)