「原爆遺跡概観」カテゴリーアーカイブ

ヒロシマ散歩 原爆遺跡・戦跡をたずねて

『ヒロシマ散歩 原爆遺跡・戦跡をたずねて』(植野浩、汐文社、19970720)

目次

004 はじめに
006 宇品地域
007 宇品地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
008 軍用鉄道宇品線ホーム跡 侵略戦争としての運命をたどった
010 船舶司令部旧蹟と凱旋館碑 海外出兵の基地にされた宇品にある二つの碑
012 宇品の軍港桟橋跡
014 旧港湾事務所
016 廣島陸軍糧秣支廠(現郷土資料館)
018 旧広島高等学校と日清戦争凱旋碑
020 千田地域
021 千田地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
022 御幸橋上の惨状
024 路面電車と広電変電所
026 広島赤十字病院
028 旧広大理学部1号館
030 国泰寺・袋町地域
031 国泰寺・袋町地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
032 市役所旧庁舎資料展示室
034 萬代橋
036 旧県立一中
038 白神社
040 旧日本銀行広島支店
042 頼山陽史跡資料館
044 袋町国民学校
046 広島中央電話局
048 アンデルセンと山口銀行
050 比治山地域
051 比治山地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
052 多聞院
054 頼山陽九輪の塔
056 旧ABCC
058 比治山旧陸軍墓地
060 旧陸軍被服支廠
062 八丁堀地域
063 八丁堀地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
064 福屋百貨店
066 広島中央放送局
068 東警察署
070 京橋と猿猴橋
072 基町地域
073 基町地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
074 歩兵第11連隊跡
076 陸軍幼年学校跡
078 広島大本営跡
080 師団司令部半地下式通信室跡
082 被爆石垣とユーカリ
084 陸軍病院跡の被爆エノキ
086 基町地域にあるその他の跡碑など
088 白島地域
089 白島地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
090  通信病院の旧外来病棟
 092  広島逓信局
094  円光寺など
 096  禿翁寺の六地蔵
 098  宝勝院と碇神社
100  牛田地域
101 牛田地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
102 工兵橋
104 牛田水源地の送水ポンプ室
106 牛田の不動院
108 二葉の里地域
109 二葉の里地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
 110 国前寺
112 広島東照宮
114 騎兵第5連隊跡
116 鶴羽神社と明星院
118 饒津神社
120 本川地域
121 本川地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
122 本川国民学校
124 清住寺
126 空鞘神社
128 寺町・横川地域 
129 寺町・横川地域 の原爆遺跡・戦跡をたずねる
130 報専坊
132 広島別院
134 市信用組合本店
136 電気試験所と光隆寺
138 広瀬・天満地域
140 広瀬神社
142 広島電話局西分局
144 天満国民学校
146 天満宮
148 江波地域
149 江波地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
150 広島地方気象台
152 慈仙寺
154 県立広島商業の本館
156  似島地域
 158  似島地域の原爆遺跡・戦跡をたずねる
 陸軍弾薬庫と見張り台
  160  横穴防空壕
 160  検疫所桟橋跡と暁部隊碑
 160  馬匹検疫所焼却炉
  162  将校宿舎と馬匹検疫所跡
 162  似島原爆慰霊碑
 164  その他の原爆遺跡
 164  愛宕こ線橋
  164  明泉寺の山門
 166  元陸軍兵器廠
 166  興禅寺
 167  鳥居の脚部
 168  西應寺峠家の墓
 168  原爆無縁墓
 168  三滝寺の参道
 170  軍都廣島を中心とした略年表
174  あとがき

ヒロシマの声を聞こう

『ヒロシマの声を聞こう-原爆の碑と遺跡が語るもの』(「原爆碑・遺跡案内」編集委員会編・刊、19900801 )

目次

碑・遺跡
発刊にあたって
04 (序)広島の碑や遺跡がわたしたちに語りかけるもの
08 原爆ドームと爆心地 核兵器廃絶のシンボル
10 原爆の子の像 子どもたちの建てたモニュメント
12 原爆供養塔 7万人の遺骨が眠る
14 慈仙寺跡の墓石 爆風の威力示す
16 平和乃観音像と復元地図 消された街への思慕
18 広島平和都市記念碑 平和公園の中心
20 天神町北組と材木町の碑 名のない死者への思い
22 峠三吉の詩碑 にんげんをかえせ
24 全損保労組の記念碑 あの日を問い続ける
26 ジュノー博士記念碑 医薬品15トンで救援
28 広島市立高女の慰霊碑 「校歌」を歌いながら死んだ少女たち
30 嵐の中の母子像 核兵器から子供を守って
32 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑 私たちの死をむだにしないで
34 県立二中と広島市商の慰霊碑 可憐なる学徒はいとし
36 義勇隊の碑 一瞬に消えた部落中の働き手
38 韓国人原爆犠牲者慰霊碑 祖国を奪われ異郷の地で被爆
40 本川小学校 爆心地にいちばん近い学校
42 原爆犠牲ヒロシマの碑 原爆瓦に託す高校生の誓い
44 原民喜詩碑 生きのびてこのありさまを
46 広島城跡の地下壕・大本営・ユーカリ 広島全滅の第1報は13歳の少女
48 陸軍病院跡の被爆榎 子どもたちに守られてきた
50 縮景園 遺骨を抱いた傷だらけの名園
52 昔のおもかげを残す京橋 被爆者が殺到した橋
54 比治山陸軍基地と放射能線影響研究所 戦争・被爆の惨状を語り続ける
56 陸軍被服支廠の倉庫跡 爆風にひん曲がった鉄扉
58 さくら隊原爆殉難の碑 全滅した劇団
60 広島赤十字・原爆病院 その日1万人を治療した
62 似島 被爆者の眠る島
 64 (案内地図)
表紙・カット 四国五郎
写真 池上利秋
校閲・編集 金子一士・高橋信雄・武田寛・村中好穂

 

 

 

広島市戦災復興事業誌(目次)

戦災復興事業誌(広島市都市整備局都市整備部区画整理課、19950104)目次

章節項 事項 備考
口絵
あいさつ(平岡敬広島市長)
あいさつ(藤田雄山広島県知事)
発刊に当たって(広島市都市整備局長)
1 戦前の都市づくり
1-1 城下町時代の都市づくり
1-4 被爆そして復興
2-2 応急対策
2-2-1 原爆死没者の改葬事業
2-2-4 危険建造物処理事業-除却の対象となっていた原爆ドーム
2-2-7 広島平和記念都市建設法の制定
2-2-8 広島平和記念都市建設計画
2-2-9 広島平和記念都市建設法の効果
5 戦災復興土地区画整理事業の実施状況
5-3 建物移転
5-3-1 不法建築物による事業の遅延
5-4 街路事業
5-4-3 百メートル道路(平和大通り)
5-10 平和記念施設
5-10-1 平和記念資料館(陳列館)
5-10-2 平和記念館(本館)
5-10-3 広島市公会堂
5-10-4 原爆死没者慰霊碑
5-10-5 原爆ドーム

広島平和記念都市建設法と平和への歩み(宇吹)

特集 広島平和記念都市建設法制定60周年(『平和文化』No_172、201006)

宇吹暁「広島平和記念都市建設法と平和への歩み」

平和都市法
広島平和記念都市建設法(以下、平和都市法と略称)は、その目的を、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」(第1条)としている。
法制定に尽力した広島市出身の寺光忠参議院議事部長によれば、その趣旨は、次のとおりである(寺光忠『ヒロシマ平和都市法』、中国新聞社刊、1949年)。
日本は、新憲法において、あきらかに、戦争の放棄を宣言している。この恒久平和の人間理想を象徴し、同時にまた、わが戦争の放棄をも象徴するものとして、1つの都市を、この地上につくりあげるということは、日本の歴史においてはもとよりのこと、世界史的にみても大きな意義をもつものであろう。
平和都市法は、その後、国庫補助率の引き上げや国有財産の譲与などの形で、広島市の復興に大きく寄与した。また同時に、広島市の都市建設に、政府が今日に至るまで関心を寄せ続ける契機となった。1952年・53年に当時の内閣総理大臣であった吉田茂の広島市平和式典に寄せた式辞が残っているが、いずれにおいても、「世界の平和を目指して、民主々義に基く、文化国家を建設することは、わが国憲法の理想とするところであり」、「新しい広島市の建設」は、「平和的文化的なる日本国家の成長を表徴するもの」と平和都市建設の国家的意義を明らかにしている。その後も、総理大臣の挨拶のほとんどで、広島市の「平和都市」(1979年からは国際平和文化都市)建設への努力に敬意が表明されている。
戦災復興としての政府の事業は、1960年代後半に一応の収束を見る。しかし、この法律の精神は生き続けており、2000(平成12)年5月にも、この法律を適用することにより、爆心地近くの貴重な被爆建物である旧日本銀行広島支店が、国の重要文化財に指定されることを条件に、広島市へ無償譲与されることが決定された。
「被爆国」という言葉が、国内で広く使用されるようになるのは、1954年3月のビキニ水爆被災事件以降のことであるが、平和都市法の成立と展開の背景には、議会や政府の「被爆国」としての自覚を確認することができる。また、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法と略称。1957年4月施行)や閣僚・総理大臣の平和式典への参列(1960年代半ば以降)、広島・長崎両市への国立原爆死没者追悼平和祈念館開設(2002年、03年)など、政府による原爆被害への新たな関与を通して、「被爆国」という認識の内実が形成されていると考えることができよう。
平和都市法が公布・施行(1949年8月6日)された当日に広島市長が読み上げた平和宣言には、次の文言がうたわれていた。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
これと同じ文言は、1947(昭和22)年の第1回平和祭(広島市平和記念式典の始まり)での平和宣言および翌年の宣言にも確認することができる。このことを考えれば、平和都市法は、広島市の意思が「法律の形式においてあらわされた、国民の意思の表明」(寺光前掲書)に高めたものといえよう。
寺光の構想がそのまま法律になったわけではない。彼は、法律名にある「広島」、「記念」、「建設」について、それぞれ、「一地域を限る特別法という感じを与える」、「原子爆弾を追想させたり又は戦災復興を連想させたりするだけ」、「物的な建設事業だけを目的としているかのよう」と違和感を述べ、ただの「平和都市法」が良いとしている。
広島の復興と原爆遺跡
戦前の広島市には、「大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等」があり、全国から観光客を引き付けていた。しかし、これらは「昭和20年8月6日の戦災により潰滅」した(『広島市勢要覧 1947年版』)。そのかわりに「新しい観光資源」と考えられたのが、「爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンク」といった「原爆記念保存物」である(『同要覧 48年版』)。
広島市の企図は当たり、「日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れ」たため、「外客専用の観光ホテルの設置が強く要望」された(『同要覧 49年版』)。
このような『市勢要覧』の記述は、広島市の都市復興の過程で、原爆遺跡が観光資源という大きな役割を担っていたことを示している。ところが、広島市の原爆遺跡に対する関心は、平和都市法の施行後、次第に薄れて行く。その代わり、新たな観光資源として「広島平和記念都市そのもの」や「原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室」(1955年に広島平和記念資料館として開館。通称「原爆資料館」)などが登場する(『同要覧 49年版』)。その後の『市勢要覧』を見ると、「平和記念館」・「原爆資料館」・「平和大橋」「慰霊碑」など、平和都市法に基づいて建設された施設が新たに加わってゆく。1950年の市勢要覧の表紙は、原爆投下の目標となった相生橋と思われる橋の向こうに近代的なビルが並ぶ図柄であり、本来存在するはずの「旧産業奨励館」(原爆ドーム)の姿はない。

50年度版には原爆ドームが消えている!!!

1948年版
48
1949年版
49
1950年版
50

広島市が原爆ドームの保存に乗り出すのは、1966年のことである。それまで保存に消極的だった浜井信三市長が保存募金活動では先頭に立った。しかし、浜井の場合、原爆ドームを「唯一」の「原爆の跡」と考えており(浜井の原爆ドームの保存に向けた「訴え」)、他の遺跡に目が向くことはなかった。
被爆資料は、一般に、「原爆の痕跡をもつ資料」と考えられてきた。ところが、1979年には、必ずしも被爆の痕跡を残していない「被爆樹木」が、さらに1985年には解体された広島市庁舎の礎石である「被爆石」も被爆資料と考えられるようになった。これは、被爆資料の基準が、「被爆の痕跡」から「被爆当時に存在していたもの」に変化したことを示している。

平和都市の現状と役割
平和都市広島の政府とのつながりは、復興のための都市計画でいえば建設省(現在の国土交通省)から始まり、1970年代後半からの国際的な反核運動の高まりの中で、外務省と密接な関係を持つようになる。被爆40周年に当たる1985年に、広島市は長崎市とともに、初の「世界平和連帯都市市長会議」を開催し、政府レベルとは別に、都市同士の連帯による平和構築の努力を積み重ねている。さらに近年では、文化庁(文部科学省)との関わりを深めている。平和都市施設の中核をなす原爆ドーム・広島平和記念資料館・広島平和記念公園は、同省によりそれぞれ史跡(1995年6月)、重要文化財(2006年7月)、名勝(07年2月)に指定された。このうち、原爆ドームの史跡指定は、世界遺産リストへの登録へ向け、それまでの史跡の基準を変更しての指定であり、残る2件の指定も、戦後の建築物として、また、戦後建設された公園として初の指定であった。
文化財としての評価は、とりもなおさず平和都市が歴史的な扱いを受けていることである。歴史化する平和都市には、新たな歩みが求められるであろう。原爆遺跡は原爆ドームだけでない。旧日銀広島支店やアンデルセン、レストハウスなど広島の遺跡にとどまらず長崎の遺跡をも巻き込む世界遺産の拡大登録が考えられないだろうか。広島の景観は、城下町の軍事都市化、原爆と復興により大きな変貌をとげ、さらには現在の都市再開発で新たな変化の波に直面している。平和都市の景観はどうあるべきか、近代のみならず近世の文化を貫いて見直す視点の出現も期待される。

原爆遺跡の保存を求める決議(1990年3月27日)

広島市議会「原爆遺跡の保存を求める決議」
1990年3月27日
世界最初の原子爆弾投下による広島市の惨禍は、人類の未来に対して大きな警鐘を打ち鳴らすものであり、この惨禍を二度と繰り返させてはならない。
そのために、原子爆弾の被災による実相を世界の多くの人びとに伝えることは、広島の責務であると考える。
しかしながら、近年、原子爆弾の被災を受けた建物が、老朽化等の名のもとに次々と取り壊されている。
今後、被爆の実相を広く伝えるためにも、これらの被爆建物に対する対応の仕方については、慎重かつ十分な調査研究の上にたって、その歴史的財産を後世の広島市民に伝承すべきである。
以上、決議する。
1990年3月27日
広島市議会

旧陸軍被服倉庫(広島市基町)消滅過程に見る原爆遺跡存廃論議

問題の発端

『中国新聞(夕刊)』1970年6月11日

広島市教委は、同市基町地区の再開発事業によって破壊される恐れがある旧陸軍輜重(しちょう)隊倉庫などいわゆる〃原爆遺跡〃を保存するよう、このほど市に文書で要請した。史跡として保存するとなれば、再開発計画を一部手直ししなければならず、保存か取りこわしかをめぐって論議は〃原爆遺跡〃にまで及んできた。

市教委が保存を要請したのは、輜重隊倉庫(第二基町バス停前)、陸軍病院門柱(第五基町バス停前)、陸軍病院の由来を記した石碑(県営アパートわきの不法住宅地内)の三件。(中略)

三つの〃遺跡〃のうち、門柱と石碑は場所を移すなどすれば保存も可能だが倉庫は延べ二百六十二平方メートルもあって移転は困難。しかも被爆後二十五年もたって荒れ方がひどく、ブロックもくずれ落ちている。この付近は、市の基町再開発計画で中央公園の芝生広場に予定され、近くに市立図書館や野外音楽堂を建てることになっている。

計画通り工事が進められるとなると、倉庫は取りこわしの運命にある。このため市教委は、先に開かれた市文化財審議会にはかり「補修して現位置に保存するのが望ましい」との結論を得た。

市教委の要請に、対して基町再開発事業を進めている都市計画局では、門柱と石碑の保存には問題ないとしながらも、倉庫については公園計画との関連で慎重な態度をとっている。公園計画を担当する市建設公園緑地課の浅地課長は「史実を後世に伝える意味で保存は必要だと思う。しかし史実を伝える場合、建て物跡を表示する方法もある」と言っている。(後略)

 

存廃論議

年表:1976~78(昭和51~53)年の動向

 動向
76 01 24 中国新聞「30年ぶりに全容-旧陸軍”被爆倉庫”-広島市が周辺取り壊し-惨状伝える壁・ガレキ-”第2のドーム”-関係者ら保存訴える」
76 02 04 中国新聞(夕刊)「水曜グラフ:姿消す”戦争と被爆の遺跡群”-再開発進む広島市基町地区-旧軍の施設が次々」
76 04 30 広島市基町の住民有志で作る「基町明治会」の代表5人、基町公園内の旧第5師団経理部倉庫と県立体育館裏の柳の木3本(樹齢60年以上)を保存するよう求めた要望書を広島市に提出。
76 06 23 広島市、基町の被爆倉庫の保存の検討作業を始める。
76 06 24 広島ユネスコ協会、例会と理事会を開催。基町の陸軍被服倉庫の保存について協議。運動を始めた「基町明治会」を支援する方針を決定。
76 06 29? 広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動に乗り出すことを決める。
76 07 04 広島県被団協(森滝市郎理事長)、日本被団協総会で広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動を全国的に広げるよう提案。
76 07 07 広島市基町の旧陸軍被服倉庫の保存運動を進める「基町明治会」、写真家佐々木雄一郎が昭和26年当時に同倉庫を撮影した写真を入手。
76 07 07 フリーの映画監督楠木徳男、広島市基町の旧陸軍被服倉庫をテーマにした映画のロケを開始。
76 07 07 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存を広島市に要望。
76 07 13 読売新聞「保存に賛否両論-広島の旧陸軍被服倉庫-「被爆のあかし」地元老人らが運動-意義に疑問も「ドームだけで十分」
77 01 13 広島市、基町の旧軍被服倉庫を撤去することを決定。
77 01 17 中国新聞「記者ノート:原爆遺跡の保護対策を」
77 07 13 中国新聞(夕刊)「消え行く原爆遺跡<広島>-実態つかめず風化-問われる市の保存行政」
78 05 10 広島市、庁内関係課長等12人で構成する原爆遺跡選定調査会議を設置(広島市資料)。原爆に関係のある155件の建物・橋梁などが候補にのぼるが、そのうち重要なものとして41件を選ぶ。
78 06 01 広島市基町の旧軍被服倉庫の取り壊し開始。

 

『中国新聞』1976年1月24日

原爆資料保存会などの関係者=都心部でこれだけの施設がいまだに残っているのはまれだ。都市化で原爆資料が年々姿を消しており、被爆を伝える生きた証言として残すべきだ。

この建物の隣に住む高野千都子=被爆直後の広島の面影です。このガレキの上で下で、たくさんの人が死んだのだろう、とここを見ると手を合わせたくなる思いです。

原爆資料保存会の横田工会長=外国の平和運動家からもなぜもっと原爆の惨状を残さなかったのかと言われる。原爆の継承の意味からも保存するよう市に働きかけたい。

『読売新聞』1976年5月1日

基町明治会が広島市に提出した要望書=レンガ造りの被服倉庫は崩れ落ち、柳も被爆したため幹の半分近くが枯れているが、いずれも原爆を知らない戦後生まれの若い人たちのために残すべき資料。

『毎日新聞』1976年6月18日

片島薫(元同盟通信記者で基町明治会の会員)=被爆の事実が忘れられてゆくなかで、被爆したままの姿で出てきた倉庫は、どうしても残しておくべきだ。撤去せず公園の一部に、歴史の資料としてとどめておくのが、ヒロシマの願いでもあり、義務だと思う。

『毎日新聞』1976年6月19日

いぬいとみこ(東京在住の児童文学者)=ドームは、現在、単なる観光の象徴となってきている。ヒロシマをとどめておく意味でも被服倉庫跡を保存することは重要な意味を持つ。

田中千禾夫(作家)=原爆ドームにしろ被爆の痛ましい残がいは、すべて残しておくべきだ。残がいは生きている。現実に平和を訴える”証”として現代に息づいている。半永久的にドームを保護した広島市は、ぜひ残しておくべきだ。

栗原貞子(地元の詩人)=ヒロシマのありのままの歴史を伝える建築物がどんどん姿を消している。原爆ドームは今や観光のトレードマーク。原爆のツメ跡がくっきり残った残がいはきちんと保存しておくべきだ。

竹内武広島県被団協事務局員=私有地で見つかった残がいならば買い取るといった問題があると思う。しかし、今回のケースはそれと違い国有地の中。ぜひとも保存してとどめておくべきだろう。

広島市建設局公園緑地部=あの残がいは、公園予定地(5ヘクタール)のちょうど真ん中にあたる。あれが残っていると支障があることは事実。また、建設省の最初の指導指針でも、一切の建物を建てず、広場だけの公園を作るようにといっている。しかし、爆心地にあれほど近く、原爆の惨状を生々しく伝える貴重な残がいであるということは十分認識している。

『毎日新聞』1976年6月24日

野村哲夫基町明治会会長=この倉庫が当時どうなったのかを、こうした証人の人の話を集めれば、原爆で空白になった部分を解明できる。この倉庫は軍隊の施設だったから残すという考えではなく、原爆の悲惨さを訴え、平和のために残したい。

広島ユネスコ協会=被爆体験の継承に役立つ貴重な被爆建築物。

『毎日新聞』1976年6月24日

広島市勢要覧にみる「観光都市広島」

広島市勢要覧にみる「観光都市広島」

1947(昭和22)年版

観光

広島市は日本三景の一つである厳島を控へ、国立公園随一、詩の瀬戸内海に面し、デルタ上を六つの清流が貫き、山紫水明で、而も海陸交通の便極めてよく、北に行っては桜と鵜飼の三次、つつじと、スキーの道後山、及び芸北の仙境三段峡等があり、又泉都別府、道後に船の旅を楽しむもよく、而も原子爆弾により、国際的に有名化し、世界に冠絶した観光都市として内外人の訪客を受けようとしつつある。殊に終戦後は、軍国の黒衣に包まれていた瀬戸内海島の要塞地帯の景勝地を、あます所なく開放し、更に貿易港としての指定を受けることになれば、観光上喜びにたえないところである。

市に於ても本年1月商工会議所に観光協会を設立し、地方産業、経済並びに文化の向上に寄集すると共に国際親善を期しつつあり、其の最初の事業として市の緑化を企図し、4月に植樹祭及び緑の週間を実施した。次いで8月15日の貿易再開を機にバイヤーの誘致につとめ「かき」、「のり」、「缶詰」、「縫針」等広島の特産品を通じ外貨獲得による日本経済再建をもはかりつつある。

史蹟、名勝等

本市には大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等があったが、これらも昭和20年8月6日の戦災により潰滅して漸くにして戦禍を免れ又は其の面影を残しているものは次の通りである。

千田廟と千田男爵銅像

往年日本の大玄関として名声のあった宇品港は、明治17年時の県令千田貞暁によって起工せられ、工費30余万円5カ年の歳月を経て完成を見た。

其の後4年日清戦役勃発するやこの宇品港は一躍重要基地として国運の進展に寄与し、次々の事変戦役にも重要役割を果たしてきた。

市民は千田県令の偉大なる事業を偲び大正4年宇品町御幸通りの中央に高く広島湾の海波を望んで銅像を建立し、後更に千田廟を祀り毎年4月盛大なる千田祭を執行して来ったのである。

不動院(牛田町)

天正2年僧行基の開基と伝へられ、当時は行基自ら観音像を彫刻し、七堂伽藍を創建して新日山蓮華王寺と称し、方7町12の末寺を備へていたと云う。その後大永年間兵火にかかって荒廃したが、安国寺恵瓊豊太閤に請うて再建し不動院と称し、豊太閤、朝鮮征伐の途次当院に滞陣した。背後の丘には、豊太閤及び福島正則の遺髪の塔がある。

不動院は、現に古義真言宗仁和寺の末寺、金堂は天文年間の建立、天井画龍の落款に「天文庚子冬十月日僧永怡筆」とあり純乎たる唐様禅宗建築堂層入母屋造で、一見鎌倉円覚寺舎利殿を大きくした様なもので、室町時代禅宗建築の傑作の一に数えられている。尚当院には豊臣時代の古文書多数所蔵されて居り、豊太閤と縁故の深い事を物語っている。

頼家の墓(比治山本町)

頼家一門の門主たる人々の墓は、比治山公園多聞院付近にある。春水、梅颶、聿庵、杏坪等20数基に上るが、山陽三樹三郎の墓はここにない。春水は竹原(賀茂郡)の人、山陽の父で山陽3歳の時招かれて藩儒となり、大阪より移って7代重晟、8代斎賢藩主に仕へた朱子学者である。

杏坪は山陽の叔父、春水と同じく朱子学者で、始め広島藩に仕へ後自ら願出で三次奉行となって令名高く、芸藩通誌の著者として著名である。

梅颶は山陽を生み、山陽を育しみ、山陽を大成せしめた賢夫人、人の子の真の母親として亀鑑又立派な学者であった。聿庵は山陽の長子で春水の跡を継ぎ、広島藩に仕へた。

1948(昭和23)年版

観光

本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし、西に岩国、北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは、芸備線で更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園瀬戸内海の島々及び四国の道後、松山次いで遠く九州の泉都別府とは定期船で広島港に継がっている。

本市は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から吾々の新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンクがそれである。今後日本に来遊する国際観光客の殆ど全部は、広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールの主要部分とするであろう。

観光ホテル

本市には外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられていたが、昭和23年11月2日観光審議会に於ては本市に近代施設を完備した国営の観光ホテルを建設することに決定した。

右は国庫支出に係る5カ年計画事業で床敷100床を設備するものである。その場所は全市を俯瞰する比治山か或は瀬戸内海を眺望する向宇品かの何れかに選定する可く考究中である。

平和記念館

原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室や平和塔を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺50分の1の模型13景を作成することとなり、その数個は既に出来上っている。

史蹟、名勝

本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが、何も戦災により壊滅したが、戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。

東照宮

市内尾長町の中腹に在り天保年間藩主浅野光行の創建に係り徳川家康の霊を祀っている、境域5300平方米、社殿は南面し石階51殿である。往時は社殿壮麗を極め祭礼儀頗る盛大であったとゆわれている。

不動院[略]

頼山陽文徳殿

比治山公園の山腹に在り、頼山陽の百年祭を記念するために広島市単独の事業として計画し山陽文徳殿建設翼賛会の努力により完成、昭和9年10月15日の竣工である。

頼家の墓 頼山陽の父春水を初め頼家一門の墓は比治山公園多聞院付近にある。

千田廟と千田男爵銅像[略]

1949(昭和24)年版

観光

本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし西に岩国北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは芸備線で、更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園、瀬戸内海の島々及び四国の道後松山、次いで遠く九州の泉都別府とは1000噸級優秀定期船で広島港に継がっている。

市内は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、産業奨励館、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、大阪銀行、国泰寺の石塔、御幸橋、ガスタンク等がそれである。日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れて居る。そして更に今後建設されてゆく広島平和記念都市そのものが人々のこよなき観光対象となってゆくであろう。

観光ホテル

本市は外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられているが、泉邸を利用して総工費4500万円で和洋折衷の高級ホテルが計画され第一期工事は昭和25年3月15日に着手することとなっている。

又洋式ホテル並にレストランを目的として児童文化会館付近に建坪210坪総工費1億1千万円を以て広島国際観光文化会館が計画されている。

平和記念館

原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室、平和塔等を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺1/50の模型13景を作成することとなりその数個は既に出来上っている。

史蹟名勝

本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが何も戦災により壊滅したが戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。

東照宮[略]

不動院[略]

頼山陽文徳殿[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

1950(昭和25)年版

観光

広島市は今日に於ては世界隈なくその名を知られ、全世界の人々から異常か関心を以て注目せられて居る都市であり、当市に杖を曳く世界の人々は夥しい数に上っている。古来山紫水明、温和な気候風土の地として観光面に優秀な素質を有していた広島市は戦災で殆ど凡ゆるものを失ったけれども新たに世界著名観光地の序列の中に加って、その保有する素晴しい観光資源の力を大いに発揮せしめると共に海外一流観光都市の夫々の部面が持つエッセンスを巧みに取入れて一大観光理想郷たらしめようとしている。

勿論広島は360年の歴史の上に立って落ち着きのある風格を有する都市であり、広島市の新しさはこの性格の上に立つものである。そしてこの新しい広島平和記念都市が今後保有するであろう観光資源は次のようなものであろう。

1.都市自体が有する平和の雰囲気、(精神的面の資源で今後の完成に期待される。)

2.模範的に建設された都市形態美、(人工的面の資源で着々建設されつつある。)

3.市内並びに周辺の天然の美、(自然的面の資源で今後一層磨きをかけられてゆくのもである。)

山容、河川、海沿いの美しさ

4.その他一般的観光資源

原爆の遺跡、教養、文化、歓楽施設、市に近接する著名観光地

現存する観光対象物として次のものが挙げられる。

原爆資料館

市内基町中央公民館傍にあり、原子爆弾による本市災害に関する種々の資料を一堂に蒐集して一般の縦覧に供している。世界各地からの参観者は本館を見て8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念する。

東照宮[略]

不動院[略]

三滝観音道場

市内三滝町の山林中にあり1000年の昔、弘法大師唐国より帰朝の砌当地に巡錫、聖観音菩薩の種字を天然石に刻し岩窟に安置した。爾来其の霊験の著しいことと四季山水の風致幽邃雅趣の深さにより一般信徒の杖引く者絶えず、現在は水害、原爆の被害により道場の荒廃甚だしくこれが修築工事中である。

千田廟と千田男爵銅像[略]

1951(昭和26)年版

観光

 『ひろしま』・・・・・

本市は、古来山紫水明温和な気候風土に恵まれ、観光面には幾多の優秀な素質を有していた。

特に市街を流れる七つの川は、山容を影し家々を写して、その壮麗さは水都の代表的存在であった。しかるに、原爆の一せんは市内の由緒ある社寺仏閣、伝統を誇った名勝旧蹟を壊滅し去ったのである。そして、これに代って新たに原子力時代を告げるには、余りにも痛ましい犠牲を宿す原爆遺跡と、10数万犠牲者の無言の警告が残された。

この遺跡と、警告により世界の恒久平和を念願して立上がった市民の真剣な復興意欲は、理想的都市の建設を早めている。最近、躍進するその後の本市をわざわざ視察するため訪問する内外人は、おびただしい数に上っている。特に、訪日観光団等は必ずそのスケジュールに本市訪問を組み、母国への土産話としている。なお、本市近郊には東に旧軍港呉市、西には日本三景の一つである厳島、その他湯来温泉等があり、南は瀬戸内海に面し海陸交通の便は極めてよく、別府及び道後温泉への快適な船旅が出来る。更に、北には桜と、う飼の三次、つつじとスキーの道後山、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡等がある。

次に本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し、市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。

主なる市内の観光対象物を挙げると・・・・・

平和記念館

本館は、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設の一部である。

平和大通り(幅員100米)に近く、横に長い壮麗な建物で、完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の左側に2500人を収容出来る大集会場を、右側に平和文化運動の事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。目下建築中の陳列館の階下は平和大通りの公園に入る玄関として通り抜け出来るように、柱ばかりの廊下になっている。なお南側には米国の有名な彫刻家イサム・野口氏の設計による平和大橋及び西平和大橋が、美麗な姿を清流に映している。

原爆資料館

基町、中央公民館の傍にあり、原爆に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。

産業奨励館

爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょは当時の惨禍を如実に物語っている。

死の影像

紙屋町電停の南側大阪銀行支店の玄関敷石の上には、あのピカの瞬間、開店をまっていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられている。原爆10景の一つである。

商工会議所

旧産業奨励館と電車道を隔てた所にあり、鉄筋コンクリート建築物で、強烈な爆風によりゆがめられた壁やバルコニー等が、原爆の威力を表示している。

元護国神社跡

商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でザラザラに焼けただれている。

不動院[略]

東照宮[略]

三滝観音道場[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

向宇品[略]

似島

宇品港より約30分、市の南端瀬戸内海国立公園内にあり、安芸の小富士と呼ばれ、戦時中は東洋一の陸軍検疫所があった。現在戦災孤児収容所の似島学園がある。

広島城跡

西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模制をこの地に移し、2年の歳月を経て築城した広島城(在間城、鯉城、当磨城、石黒城の別名あり)5層の天主閣は、原爆により焼失した。

明治27年日清戦争の時大本営が設置され、続いて終戦まで師団司令部がここにあった。

国泰寺墓地

国泰寺墓地の墓標は、爆風の方向に或いは反対の方向に倒れたが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、レンガの破片を食わえ込んだ塔石の珍しい風景である。

比治山公園

市の東部にあり、山容が虎に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めをほしいままにした昔の面影は留めないが、市内の展望には絶好の場所で市民散策の好適地である。南側にはABCCがあり、西側山腹には山陽文徳殿及び多聞院がある。

頼家の墓[略]

縮景園[略]

長寿園

市の北端、太田川の清流に沿う約300米の堤で、桜樹多く市民の散策地として有名である。

1952(昭和27)年版

観光

概要

本市は、清流太田川の河口三角州に位置し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれており、広島につえ引くものの遊覧コースには必ず広島城跡、大本営跡、旧北治山御便殿、浅野泉邸等々が組まれ観光遊覧地として好適であった。しかしこれらの名所、旧跡のほとんどは、戦禍に消えうせ、終戦後の数年間は本市を訪れる観光客の観光対象となったものは原爆による荒廃であった。従って一時は顕著な原爆被害記録物とそれに伴う記念物の羅列になっていた。しかし本来の観光資源も年とともに整備され、真に楽しめるものが復活して来ており、また世界的に注視を集めている平和記念都市が着々と建設されているので、都市自体が観光の意義をもつようになり、世界平和のメッカとして平和を愛好する内外の人々の来訪が著増しつつあるのも本市観光の特色である。特に訪日観光団はそのほとんどが本市訪問をそのスケジュールに組んで母国への土産話にしている。

市街を貫く七つの川は、その水清く山海を映し河畔の民家を写し夜のネオンを流して市街を一層麗しくし、相生橋をはじめ30有余の橋りょうとともに水都広島の美観一入である。この水の注ぐ波静かな瀬戸内海国立公園は大小様々な島々を浮べその風光の美をたたえられている。東に進めば平清盛が開いた音戸の瀬戸があり、旧軍港呉市、野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに日本三景の一つ安芸の宮島がある。更に北方には桜と、う飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡がある。これらはいずれも本市からの交通も至便であるので、四季の移り変りに遊ぶ人歩多く、本市の観光を中心とする広範囲な観光ルート圏を形成している。

本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。

市内の観光対象物の主なるものは次のようなものである。

観光施設

平和記念館

幅員100米の平和大通りと爆心地との中間に建設中の本館は、東西に長い壮麗な鉄筋コンクリート建造物で、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設である。完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の西側に2500人を収容出来る大集会場を、東側に平和文化運動事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。これをつなぐ陳列館の階下は平和大通りから公園に入る玄関として巨大な柱の間を通り抜けられるようになっている。

原爆資料館

基町、中央公民館の北隣にあり、原爆被害に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。

産業奨励館

爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょと化した容姿は当時の恐るべき破壊力と惨禍を今日も如実に物語っている。

死の影像

紙屋町電停の南側住友銀行広島支店の玄関敷石の上には、あの原爆さく裂の瞬間、開店をまって石段に腰かけていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられた石面に残っている。原爆10景の一つである。

元護国神社跡

商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でざらざらに焼けただれている。

似島

宇品港より船で約30分、瀬戸内海国立公園内にある市内南端の島で、その山容美しく安芸の小富士と呼ばれている。戦時中は東洋一の陸軍検疫所があったが、現在戦災孤児育成所の似島学園がある。

国泰寺墓地

国泰寺墓地の墓標は爆風の方向にあるいは反対の方向に倒れたものが多かったが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、飛散してきたレンガの破片をくわえ込んだ塔石の珍しい風景がある。

不動院[略]

東照宮[略]

三滝観音道場[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

向宇品[略]

広島城跡

広島城は西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模してこの地に天正19年2カ年の歳月を費して築造したもので鯉城、在間城、当磨城、石黒城等の別称があった。明治27年日清戦争の時大本営が城内に設置され、続いて師団司令部があったが、5層の天主閣をはじめすべての建物は原爆により焼失して、今では壕と築石が昔をしのばせている。

比治山公園

市の東部にあり、山容が虎のふした形に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めを楽しめる丘陵公園であり、山頂より南面すれば広島湾の風光を、西面すれば市街の8割を展望出来る絶好の場所で市民散策の好適地である。

西側山腹には山陽文徳殿、頼家の墓及び多聞院があり、南側山頂にはABCC(原爆傷害調査委員会)がある。

山陽文徳殿[略]

頼家の墓[略]

縮景園[略]

長寿園[略]

広島遊園地

仁保町本浦にあり、つつじ、藤の名所として有名である。

慰霊碑

爆心地に近い中島の平和記念公園内にあり、昭和27年8月6日の式典において除幕式を行い昭和20年8月6日の原子爆弾にたおれた死没者の氏名を全国にわたって調査して謹記された過去帳がこの慰霊碑内の石函の中に安置奉納された。この石函の正面には「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。毎年8月6日にはこの地点で盛大な平和式典がとり行われる。

平和大橋

百米道路が貫く中島の東側の元安川にかかる平和大橋と、西側の本川にかかる西平和大橋の欄干はともにイサム野口氏の設計によるもので、その新たなる感覚によるデザインは平和都市にふさわしい逸作である。

来広観光客数及び推定消費金額

(昭和27年中、推定総数)(国鉄、汽船、郊外電車、バス調)

 

外来客区分 人 員 1人平均
消費金額(円)
金額(円)
総数 1157420 1243821640
県内客 866757 1000 866757000
県外客 289013 1280 369936640
ハワイ等観光客(39団体) 672 4000 2688000
国外観光団(4団体) 450 4000 1800000
国外個人観光団 528 5000 2640000

 

広島名産

縫針 ミシン針 ゴム製品 かん詰 除虫菊製品 製線 和かさ 仏壇木製品 機械工具 かき羊かん 桜羊かん くり羊かん 味付のり のしかき 川魚料理 生かき 広島菜 かきめし かき船料理 清酒

1953(昭和28)年版

観光

概要

本市は清流太田川の河口三角州に発展し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれ、優美な風景の土地として知られてきた。かつて天正17年毛利輝元がこの地に移り広島と命名してから、すでに364年を経過したが、この間封建時代の城下町としてあるいは諸戦役・事変の軍事基地として幾多の変遷をとげ、多くの遺跡を残し広島に遊ぶ人の目を楽しませてきた。しかし、これら多くの遺跡は戦禍によりほとんど消え失せ、代って原爆の戦火を経た新しい国際的観光都市となり、観光対象物は原爆の破壊力を示す若干の被害記録物とこれを乗り超えて進む生存者の建設譜であり、徹底的な破壊に打ち勝って建設されつつある平和記念都市の姿である。本市は高度の技術を結集した平和記念施設たる中島の平和記念公園をはじめ大小の公園緑地、川を生かした河岸緑地、交通量に留意した街路網等を有する理想的平和記念都市建設を推進しているので、将来はこの近代的都市自体が観光対象となり、広島を世界恒久平和の発祥地たらしめること望む平和愛好者及び諸団体の来訪が予想され、すでに世界連邦アジア会議や世界連邦アジア会議が進んで広島の地で開催されている。このように内外を問わず来訪客 の著しいのも本市の平和都市の性格に立脚した観光都市の特色である。

市街を合流する七つの川は、その水清く山緑を影し民家を写し夜のネオンを浮べて市街の美観を一入増し、相生矯をはじめ30有余の橋りようを縫ってゆるやかに瀬戸内海に注いでいる。おだやかな瀬戸内海は市の前面に大小様々な島を浮ベ、その風光の美は遊覧客を陶酔させるに充分である。夏は至る所にキャンプ村や海水浴場が設けられ、レクリエーションを楽しむ人々でにぎわう。東方には呉港や、瀬戸内海の風光を一望できる野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに子供の別天地楽々園、日本三景の一つ安芸の宮島、再建された岩国の錦帯橋、湯来温泉がある。さら北方背後地には桜と鵜飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、冠山高原、芸北の幽境三段峡及び帝釈峡、西日本の軽井沢と言われる八幡高原等将来性のある県立公園がある。別府温泉や道後温泉は海路至便の距離にあつて広島市の観光lこ気軽く接続できる。これらはいずれも本市観光とタイアップされた広範囲な観光ルート圏を形成しており、四季を通じてこれら各地を巡遊する人がすこぶる多い。

本市の観光行政に協力するため、広島市観光協会が設けられ、観光誘致宣伝、市内観光ルート・ミス広島の選定及び観光客の案内等活発に活動している。

なお、本年4月より中国観光バス(株)が誕生して観光客の遊覧案内の業務を開始した。

観光施設

[平和記念館、旧産業奨励館、慰霊碑、原爆資料館、似島、不動院、東照宮、三滝観音道場、向宇品、千田廟と千田男爵銅像、広島城跡、比治山公園、山陽文徳殿、頼家の墓、縮景園、広島遊園地、長寿園、東亜殉道無名士女之碑、平和大橋の写真入り紹介-略]

東亜殉道無名士女之碑

本市新川場町の本照寺境内に満蒙同胞援護会広島県支部(支部長 本照寺住職 筧義章氏)によって昭和28年3月31日建立・除幕式を行い、同時に碑の内部に大東亜戦争並びに原爆による行方不明者の氏名を謹記した小石を納入、入魂式を挙行。その碑には極東軍事裁判にインド代表として出席し、唯一人日本無罪論を主張したダバビノール・パール博士によってベンガル語碑文が刻み込まれている。

1954(昭和29)年版は発行せず

1955(昭和30)年版~1958(昭和34)年版

[市内観光地の簡単な紹介]

1959(昭和34)年版

平和記念施設

1960(昭和35)年版

世界最初の原爆罹災都市として、本市の観光は大きく姿を変えた。戦後の主な観光対象は、大なり小なり原爆に関係又は起因するものによって占められている。然し都市の復興に連れて、名勝・旧蹟も復旧され、古い行事等も往昔の繁盛を偲ばせる迄に回復した。

市内観光

[平和記念公園、原爆ドーム、慰霊碑、平和記念資料館、花時計、原爆の子の像、平和大橋、西平和大橋、広島城、三滝寺と多宝塔、長寿園、縮景園、比治山公園、元宇品公園、黄金山、不動院、竜泉寺の滝、広島遊園地、広島ユースホステルの簡単な紹介]