呉市役所内で見つけたヒロシマ(20220809)
撮影者:宇吹 |
原爆供養塔納骨名簿 |
ヒロシマ・ナガサキ被爆の実相に関するポスター展 |
止
呉市役所内で見つけたヒロシマ(20220809)
撮影者:宇吹 |
原爆供養塔納骨名簿 |
ヒロシマ・ナガサキ被爆の実相に関するポスター展 |
止
『呉の戦災 あれから 半世紀くりかえすな』(呉戦災展実行委員会編、呉戦災を記録する会刊、19950622)目次
備考 | ||
はじめに―被災50周年記念が問いかけるもの | ||
朝倉郁夫(呉戦災を記録する会) | ||
Ⅰ | 戦争への道 | |
1 | 呉と海軍・海軍工廠 | |
2 | 日中15年戦争とアジア・太平洋戦争のはじまり | |
3 | 日本の戦争加害 | |
Ⅱ | 戦時体制と空襲 | |
1 | 戦時体制下でのくらし | |
2 | 日本への空襲 | |
Ⅲ | 呉の空襲 | |
1 | 呉が「真珠湾攻撃」された日 | |
2 | 恐怖の白昼爆撃 | |
3 | 呉海軍工廠、壊滅 | |
4 | 呉市街地夜間無差別大空襲 | |
5 | 帝国海軍、最後の日 | |
6 | 爆弾と焼夷弾 | |
7 | 原爆投下計画と呉 | |
8 | 呉空襲の特色 | |
Ⅳ | 呉の現在 | |
1 | 呉と基地 | |
2 | 呉の戦災遺跡 | |
Ⅴ | 資料と参考文献 | |
1 | 呉空襲の記録とアメリカ軍の記録 | |
2 | 参考文献 | |
おわりに―呉の戦後は終わっていない | ||
アジア・太平洋戦争および呉の戦災 略年表 | ||
編集委員:朝倉邦夫(呉戦災を記録する会)、是恒高志(全教広島海田支部)、武智碩一(歴史教育者協議会)、林茂(非核の呉港を求める会)、平岡典道(高教組平和教育推進部)、平賀伸一(呉戦災を記録する会)、吉田昭雄(呉戦災を記録する会) | ||
『改訂版 呉空襲記』(中国新聞呉支社、19790531<初版発行は19751220>)
頁 | ||
007 | 海軍管理都市 | |
憲兵隊が呉市長を逮捕 目隠しの生活 サイレンで年明け |
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014 | 三月十九日 | |
初の爆撃に衝撃 民間の死者29人 土佐沖から350機 民家に爆弾直撃 国民学校も破壊 |
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022 | 広・11空廠 | |
B29百三十機が来襲 待避ごうを直撃 動員学徒も死ぬ 機械500台が被害 ものすごい爆風 |
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031 | 呉工廠 | |
20分間隔で爆撃 電動機吹き飛ぶ やっと警報解除 早瀬地区(音戸)に爆撃 隣組全員命拾い 爆弾投下336発 |
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爆弾投下336発(抄) 製鋼部は第二甲鈑鍛錬工場、製鋼実験部付近、第一製鋼工場に集中投下された。 第一製鋼工場にいた広島県賀茂郡豊栄町、農業柳井順三さん(60) の記憶。 「爆撃の威力は相当なもので、ごうの前にあった爆風よけのコンクリートが基部から完全に爆破され跡片もなくなっていた。 午後からガス工場を見回っていると、発生炉のそばにある水そうに爆弾が落下し、水そうの横をレールが通っていて、そこに止まっていた機関車は爆風で持ち上げられ脱線していた。 鋳物に使う約1トンの鉄の円盤が30メートル余り吹き飛ばされ、高さ10数メートルもある鋳物工場の屋根に投げ上げられていた」<柳井順三は宇吹の義父> |
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042 | 市街地 | |
B29八十機が来襲 全市が火の海 家族もバラバラ ごうで550人死ぬ 一夜で焦土 前進はばむ炎と煙 海軍施設でも被害 投下焼イ弾8万個 焼け跡で炊き出し もう日本はダメ |
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060 | 呉沖海空戦 | |
係留艦の燃料なし 艦載機870機が猛爆 戦艦「伊勢」に空爆 民家に米軍機墜落 「青葉」も大破、着底 「日向」夜通し炎上 ロケット弾サク裂 重巡「利根」も大破 「大淀」に水平爆撃 無傷「榛名」に猛爆 8艦で死者839人 |
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079 | 広島被爆 | |
被爆者救援 海軍救護隊も出動 |
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083 | 終戦 | |
忘れられぬ記憶 玉音放送に涙 戦災の跡に台風 焼け野原に驚く 代用食でしのぐ |
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093 | 海軍解体 | |
GHQ命令出る 水道を市に移管 機雷掃海を要求 |
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099 | 米軍進駐 | |
早速戦犯を追及 弾薬を海に投棄 遺骨も同時収容 |
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104 | 慰霊の軌跡 | |
炎天下650人参列 先細る慰霊法要 25年ぶり奉納へ 二つの碑を建立 市の手で慰霊を |
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114 | 歳月 | |
支給されぬ年金 焼イ弾右腕奪う 「よう生きて…」 まず幹線道造り 広がる記録運動 |
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124 | 被災地広がる | |
尾道市 県下初の空襲 福山市 市街地の八割を焼く 岩国市 終戦前日の猛爆 徳山市 無差別爆撃で廃墟 光市 一瞬で散った動員学徒 宇部市 空と地上からの火柱交錯 下関市 海峡も陸上も墓場に |
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147 | 呉空襲関係資料 | |
広島県下に於ける空襲被害状況表 呉空襲被害一覧表 広・11空廠工場配置と待避ごう位置図 昭和20年呉市の警報発令状況 呉市学童疎開先一覧表 勤労動員一覧表 第二次世界大戦関係雑件(被害調査)(呉市に関する報告) 呉沖海空戦の主な軍艦と戦歴 |
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181 | あとがき | |
『非戦を生きる-高良とみ自伝』(高良とみ、ドメス出版、19830325 )
目次
章 | ||
プロローグ | ||
Ⅰ | 生いたち | |
婦人運動の先駆者、母邦子 | ||
父のこと | ||
キリスト教の家 | ||
寄宿舎生活 | ||
タゴールとの出会い | ||
「中条百合子<宮本百合子>さんについて」 | ||
Ⅱ | 行動する心理学者として | |
アメリカ留学 | ||
女子教育者として | ||
「友和会設立」 | ||
暗い時代へ | ||
「空襲・疎開・敗戦」 | ||
Ⅲ | 平和を求めて | |
復興への息吹の中で | ||
呉市助役として | ||
戦後初の婦人議員に | ||
極東裁判の印象 | ||
新憲法発布 | ||
緑風会へ | ||
世界平和者会議ヘ | ||
ローマ法王に戦犯の減刑請願 | ||
全インド婦人会議 | ||
全面講和か片面講和か | ||
売春防止法制定にむけて | ||
“鉄のカーテン”をくぐる | ||
モスクワへの道 | ||
モスクワでのこと | ||
モスクワ経済会議 | ||
グロムイコ会見 | ||
モスクワ見聞記 | ||
シベリアのラーゲル訪問 | ||
日中第一次貿易協定を結ぶ | ||
新しい中国の内側 | ||
スイスの赤十字へ | ||
高良とみ帰国歓迎会 | ||
日本婦人団体連合会結成 | ||
在中国同胞引揚げ交渉に再び北京ヘ | ||
アジア・アフリカの婦人と共に | ||
「妻として母として」 -内側から見た高良とみ |
高良留美子 | |
解説 | 柘植恭子 | |
高良とみ年譜 |
『父は沖縄で死んだ』(大田英雄、高文研、19890613 )
目次
章 | 見出し | 備考 |
Ⅰ | 沖縄県民かく戦えり | |
◇還ってきた父のシャレコウベ◇沖縄”捨て石”作戦◇武器は「竹槍」だった◇海軍部隊の最期◇二つの電文◇壕の中の遺骨◇命沖縄の土になった「父」 | ||
Ⅱ | 家族の見た父の肖像 | |
◇命父と母の出会い◇軍人とその妻◇「武人」の横顔◇子供たちの目に映った父◇六番目で最初の男の子◇かいま見た太平洋戦争の実態◇佐世保に移る◇坂に消えた白い手袋 | ||
Ⅲ | 遺族たちの「戦後」 | |
◇初めての呉空襲◇学童疎開先で知った父の死◇八月十五日の夕焼け◇墨を塗らされた教科書◇食うためのたたかい◇離散したきょうだい◇新制中学の授業◇高校時代の記憶◇一度は考えた防大受験◇「沖縄」を避けていた大学時代◇教会活動・洗礼・就職 | ||
Ⅳ | 教師として生きる | |
島の分校の新米教師 | 倉橋分校? | |
***倉橋分校?。昼間定時制 | ||
生徒に教えられたヒロシマ | ||
***体育祭の仮装行列で原爆被災者を演じる。 | ||
「瀬戸の花嫁」 | ||
末弟も防衛大へ | ||
職員会議で罵倒された私 | ||
***1963年4月広島県立賀茂高等学校へ赴任。「日の丸」問題。滝尾英二先生のアシスタントとして社会科研究クラブの研修旅行「大和路の旅」へ生徒を引率。 | ||
古墳にとりつかれて | ||
呉市に戻る | ||
***1967年4月広島県立呉宮原高等学校へ赴任。 | ||
モーニング論争 | ||
同和教育運動のなかで | ||
防衛大へ行った教え子 | ||
***呉でも大学セクトの指導でアジト。宮原高校も一つの拠点。「反戦高校生」は「呉黄幡弾薬庫や江田島秋月弾薬庫」などを取り上げる。 | ||
自衛隊員の子女に自衛隊をどう教えるか | ||
***1983年に盛岡で開かれた「第32次全国教育研究集会」の「人権と平和」教育分科会にレポーターとして参加。助言者に森田俊男先生。 | ||
Ⅴ | 平和教育にとりつかれて | |
映画「沖縄」の上映運動 | ||
カヤさん、マキさんとの出会い | ||
***1972年カヤ(萱原威=被爆者。広高校の数学の教師)先生が中心となり県下に先がけ高教組呉地区支部内に平和教育推進部を結成。マキ(牧岡宏明。広高校の数学の教師)。972年カヤ、マキらで全国高校生活指導研究協議会呉支部(略称:呉高生研)結成。 | ||
呉空襲を記録する会 | ||
***1974年歴史教育者協議会呉支部を中心に 呉空襲を記録する会を結成。1975年『呉空襲記』(中国新聞社、吉川記者)刊。 | ||
平和教育読本をつくる | ||
***呉地区の平和教育推進部の提案で高教組本部に編集委員会設置。『明日に生きる』 | ||
平和教育推進部 | ||
***1977年カヤさんが広島商業高校に転勤。 | ||
呉地区高校生「平和の集い」 | ||
***1973年、平和教育推進部で貸し切りバスを仕立て第19回原水爆禁止世界大会の文化集会に生徒ともども参加。上条恒彦の声に圧倒される。翌年、生徒の要望で世界大会そのものに参加。1975年2月、第1回呉地区高校生「平和の集い」(呉地区高校生徒会連絡会主催、平和教育推進部・呉高生研援助、原水爆禁止呉協議会・歴史教育者協議会呉支部後援)。 | ||
「高校生平和ゼミナール」の出発 | ||
***1977年(松崎徹、沢野重男ら)「広島平和ゼミナール」結成。 8・6高校生平和集会への道= 1975年第19回原水爆禁止世界大会高校生分科会終了後、松崎から大田に相談。 第20回原水爆禁止世界大会高校生分科会終了後、指導者会議に提起。 第21回原水爆禁止世界大会高校生分科会で学園に根差した高校生の活動報告。 大阪清水谷高校の文化祭での平和問題への取り組み。 以後、3年のうち2回は広島県高校生平和ゼミナールが、1回は長崎高校生平和ゼミナールが、地元実行委員会として世話役。 |
||
平和は創りだすもの | ||
***呉地区高校生「平和の集い」=2月と6月の2回。第3回、第5回、第6回の内容 | ||
すばらしい生徒たち | ||
***第7回、第13回、 | ||
「原爆瓦」に負けるな | ||
***戦跡フィールドワーク。1982年2月第15回「平和の集い」。 | ||
一年六組の旗 | ||
***1982年4月、ホームルームを担当。6月の第16回「平和の集い」 | ||
盛岡の誓い | ||
***「第32次全国教育研究集会」(1983年)。広島(沢野重男・大亀信行)・長崎・埼玉(小岩井増夫)・呉で「8・6全国高校生集会」。森田塾。 | ||
VI | 沖縄で見た「父」 | |
父の「電文」との出会い | ||
歴教協・呉支部をつくる | ||
海軍壕で見た「父」 | ||
基地オキナワの現実 | ||
安仁屋政昭氏との再会 | ||
「兄は反戦教師、弟は自衛官」 | ||
二度目の訪沖 | ||
平良知事の涙 | ||
三度目の訪沖 | ||
VII | 沖縄戦“追体験”の旅 | |
「観光コースでない沖縄」 | ||
本島中部の戦跡と基地 | ||
糸数壕にて | ||
摩文仁の丘にて | ||
平和祈念資料館にて | ||
「ひめゆり」の衝撃 | ||
父の「電文」の背後にあったもの | ||
旅の終わり | ||
VIII | 呉にも「沖縄」があった | |
軍港都市・呉の誕生 | ||
海軍・戦争とともに歩んだ呉 | ||
呉空襲の被害が大きかった理由 | ||
呉の「摩文仁ヶ丘」と「健児の塔」 | ||
呉にもあった「ひめゆりの塔」 | ||
戦艦「大和」の碑 | ||
壕の中の地獄 | ||
帝国海軍の終焉「呉沖海空戦」 | ||
「軍都」呉は、いま | ||
あとがき |
こうの史代:女性漫画家、イラストレーター
代表作
『夕凪の街 桜の国』(双葉社、200408刊)
『この世界の片隅に』
『夕凪の街 桜の国』(双葉社、双葉文庫、20080420)
夕凪の街=被爆10年後の広島が舞台
桜の国=42年後~59年後の東京と広島が舞台
『波乱の生涯を全力でつくした七十年の斗魂』(金本邦夫著、財団法人富士社会教育センター刊、19960520刊)目次抄
章節 | |||
出版に寄せて | |||
はじめに | |||
1 | 小さい頃と両親のこと | ||
2 | 小学校時代のこと | ||
3 | 青年団活動 | ||
4 | 大東亜戦争のこと | ||
4-12 | 原爆と終戦 | ||
5 | 音戸町体育協会のこと | ||
6 | 全力つくした町議会議員 | ||
6-1 | 戦後第1回統一地方選挙に出馬。<音戸町議員> | ||
6-2 | 戦争未亡人救済の町営授産場設立に努力 | ||
6-3 | 町立保育所の設立を実現 | ||
6-4 | 音戸高等学校誘致に死力をつくす | ||
7 | 呉造船労働組合時代 労働運動に生涯をかける決意 | ||
7-1 | 労働運動に入るきっかけ | ||
7-2 | 給料遅配に特別交渉委員。出征兵士見送り同様の壮行会で上京 | ||
7-6 | 全国初の厚生年金還元融資の串山住宅 | ||
7-7 | 中国労災病院呉誘致に一役買う | ||
7-9 | 呉造船独立と労働組合 | ||
7-10 | 生協売店市中進出反対デモの応対。本部建設に一役、音戸取次所を自宅に | ||
7-12 | 労働組合長に就任 | ||
7-13 | 年満者夫婦の招待慰安旅行の実施 | ||
7-16 | 組合特自の共済規定の実現 | ||
7-17 | 家族会の結成と家族相談室の設立 | ||
7-19 | 年満者引続き雇用を要求・遂に呉船産業株式会社設立を実現 | ||
7-20 | 毎日新聞全国版(1961年2月4日)に40代の顔として紹介される | ||
7-22 | 組合結成十五周年記念事業として十五年史発刊と会館建設を実施 | ||
8 | 広島全労議長として活躍 | ||
8-1 | 造船総連、総同盟等の上部役員 | ||
8-2 | 広島全労議長に就任 | ||
8-3 | 県関係の各種委員に任命される | ||
8-4 | 日本生産性本部米国派遣視察。労働者チーム十二名の団長として | ||
8-4-1 | 出発に郷里で見送り壮行会 | ||
8-4-2 | いよいよアメリカ、主要都市周辺のこと | ||
8-4-3 | 労働組合が国旗と組合旗を尊重 | ||
8-4-4 | 徹底している産業別組織の確立。大手鉄鋼会社で県出身二世課長の案内 | ||
8-4-5 | 組合大会を見学、幹部と懇談。働きすぎの日本におひやかされる | ||
8-4-6 | 日系人のこと | ||
8-4-7 | 手土産と家庭訪問 | ||
8-4-8 | 余話 | ||
8-5 | 最賃法裁判で基準局賃金課長を激励 | ||
8-7-1 | |||
8-6 | 憲法調査会の公述人として意見陳述 | ||
8-7 | 核禁会議の結成で原水協とテレビ対決 | ||
8-8 | 労済、労住、労福協の結成 | ||
8-8-1 | 植木仙次郎氏8-5の功績 | ||
8-8-2 | 広島県労働者共済生活協同組合の設立 | ||
8-8-3 | 広島県労働者住宅生活協同組合の設立10月 | ||
8-8-4 | 広島県労働者福祉対策協議会結成 | ||
8-8-5 | 結成周年記念式典の思い出 | ||
8-8-6 | 焼山政畝団地造成の思い出 | ||
8-8-7 | 音戸波多見竹田浜埋立団地に | ||
8-9 | 労働争議の斡旋、調停、指導 | ||
8-9-1 | 西美電気西光精機(現テンパール工業) | ||
8-9-2 | 府中町静養院の争議 | ||
8-9-3 | ニコニコバスの争議 | ||
8-9-4 | 日東製網の争議解決に努力 | ||
8-9-5 | 佐竹新労結成は暴力を排除して | ||
8-9-6 | 激しかった当時の労働争議 | ||
8-9-7 | 国鉄、電産のスト、労使に苦言 | ||
8-9-8 | 地労委としての私の基本的考えと携わった事件 | ||
8-9-9 | |||
8-9-10 | メーデー改善を訴える | ||
8-9-11 | 講演依頼やテレビ、ラジオの対談。常にマスコミの対象にされる | ||
8-9-12 | 同盟会議結成の準備と全労議長退任 | ||
9 | 職場復帰で全力投球 社長表彰、更に営業で実績 | ||
10 | PTA活動と小、中学校の分離推進で中学校建設に献身 | ||
11 | 生涯民社党を貫く | ||
12 | 思い出深い選挙活動 | ||
まえがき | |||
12-1 | 衆議院議員前田栄之助先生を支えて | ||
12-2 | 民社党結党直後の衆院選、私に出馬要請されるも遂に辞退 | ||
12-3 | 永野巖雄先生とのかかわり | ||
12-4 | 二区衆議院選に香河直祐氏。選対委員長を引受けて闘う | ||
12-5 | 山田節男先生と私。参議院選挙と広島市長選挙 | ||
12-6 | 浜田光人先生、衆院選擁立について | ||
12-7 | 保野健治郎先生の選挙 | ||
12-7-1 | 呉市長選擁立に社公民三党の話合い | ||
12-7-2 | 二回目の市長選は未曽有の激戦 | ||
12-7-3 | 衆院二区に擁立して健闘。事務長を引受ける | ||
12-8 | 小西博行先生擁立に主役。経緯と参院選 | ||
12-9 | 永末英一選対委員長来呉で二区衆院候補擁立について話合う | ||
12-10 | 全国初の公民協力、勝谷勝弘氏を支援 | ||
12-11 | 盟友玉野晃君と県会議員選挙 | ||
12-12 | 玉野君病で引退説得を依頼される。後任混乱。私は苦しみ抜き、党のため遂に候補受諾 | ||
12-13 | 次期県議候補に柳田稔氏を説得 | ||
12-14 | 参院地方区佐々木秀隆候補は呉支部党員 | ||
12-15 | 呉市議選につくした私の役割 | ||
12-15-1 | 組合長在任中二回の補欠選挙に勝利 | ||
12-15-2 | 出崎文三氏をわが社社員で市議へ | ||
12-15-3 | 榊原伍市議との交友 | ||
12-15-4 | 横田勝信市議とのこと | ||
12-15-5 | 民社の申し子、重盛親聖市議。永年の結びつきと選挙を思う | ||
12-15-6 | 組織外から森岡よし子氏擁立に一役。平成七年統一地方選に初の女性市議 | ||
12-15-7 | 成功しなかった市議選 | ||
12-16 | 川尻町長選に花田博幸氏、惜敗する | ||
12-17 | 音戸町長選(平成五年)を思う | ||
12-18 | 公職選挙法違反で留置場十九日。会社、団体等役員十九件を辞任 | ||
12-19 | 民社党候補者探しは私の役目として努力 | ||
13 | 会社設立し理想に向って | ||
13-1 | IHIを中途退職して外で行動 | ||
13-2 | 株式会社くれせん設立 | ||
14 | 家庭、家族のこと | ||
15 | 大東亜戦争戦没者慰霊碑建設と老人福祉施設の建設を希求して | ||
むすびに | |||
金本邦夫略年譜 |