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回顧五年-原爆ヒロシマの記録(1947年)

『回顧五年-原爆ヒロシマの記録』(瀬戸内海文庫、19500505)

報道篇(1947年)

見出し 掲載紙 掲載月日
 広島・長崎の再建  毎日  0103
 広島・長崎の居住害なし  毎日  0119
 米記者団一行の広島訪問感想記  中国  0220
 原子爆弾で奇形児生る  毎日  0328
 自然の恵みを生かせ  中国  0430
 広島の焼跡に颯爽?登場  中国  0430
 爆心に祈る孤児にうるむ愛の瞳  中国  0501
 米国版「広島の声」  中国  0515
 ベル博士と本川校結ぶ愛情  中国  0516
 UP特派員の広島訪問記  中国  0519
 人間は一撃で死んだ  中国 0605
 原爆症診断に都築博士来広  中国 0624
夏草原子爆弾模様 朝日  0628
 爆心地に「仲よしくらぶ」  中国 0630
 広島こそ平和のメッカ  中国  0729
  高らか平和の鐘  毎日 0629
原子医学は世界一  中国  0801
 ピカッと来た途端に産ぶ声  朝日  0801
 市街の八割三分復興  朝日  0801
 あれから三年アトム広島変遷記 中国  0802
 平和のメッセージ  朝日  0802
 母の愛か奇跡の生  中国  0803
 原爆患者を慰問  中国  0803
 平和の書「ヒロシマ」後日物語り  中国  0803
 平和な悲願の旅路  中国  0804
 広島へマ元帥の特使  朝日  0804
 世界語「ピカドン」  中国  0805
 空から見た広島  毎日  0805
 原爆のヒロシマの体験録音で全米に放送  朝日  0805
 きょう原爆二周年  毎日  0806
 高鳴る平和の鐘  朝日  0807
 安らけし平和の日  中国  0807
 マ元帥メッセージ  中国  0807
 文明の魁に広島市長宣言  毎日  0807
 正一君をたずねて幾千里  朝日  0807
 我が家の焼跡巡禮  朝日  0807
 落とすなかれ三発目  中国  0809
 広島、長崎の原爆影響調査  中国  0903
 「原爆の乙女」が再生の航路  朝日 0904
 広島、長崎の幼児発音調査  中国  0906
 原子都と観光瀬戸内海  中国  0908
 似島に原爆千人塚  中国  0920
 轟け平和の鐘  中国  0924
 つゆ草の遺伝変種発見  中国  0926
米に新しき友  毎日  0928
 広島こそ世界のメッカ  中国  0928
 吹き飛んだ二〇キロ  中国  1004
 アチラの友達から広島の学童へ贈物  中国  1005
  広島児童文化会館地鎮祭  中国  1005
 原爆から二年、脚光を浴びる似島  中国  1014
原爆千人塚除幕式 中国 1014
 沙漠に学童の天国  中国  1122
 実験室に新しき生  中国  1129
広島で平和の世界会議  朝日  1207
  アトム洗禮の神父遍歴の旅から還る  朝日  1208
 お土産はアトム教会 朝日  1208
 原爆の都にわれらの天皇 世界に伝わる“天皇と広島”  中国  1208
 原爆地に千萬ドルの贈物  毎日  1215
 ヒロシマに原爆研究所  毎日  1217

国立予防衛生研究所

国立予防衛生研究所 1957年5月21日設立

年報目次(抄)

年度 章節 見出し 備考(抄録)
1947 1 沿革
1-1 誕生
1-2 設立の趣旨及び機能
1-3 予研の将来
1-4 運営方針
1948 原子爆弾影響の医学的調査に関する米国Atomic Bomb Casualty Commision (ABCC)との協同研究
1949 原子爆弾影響研究所
1950 原子爆弾影響研究所その他における協力
1951 原子爆弾影響研究
1952 ⅩⅤ 広島・長崎支所
1953 ⅩⅤ 広島・長崎支所
1953 ⅩⅥ 原爆症調査研究協議会
1954 ⅩⅣ 放射能研究委員会
1954 ⅩⅥ 広島・長崎支所
1954 ⅩⅦ 原爆症調査研究協議会
1955 ⅩⅣ 放射能研究委員会
1955 ⅩⅥ 広島・長崎支所
1956 ⅩⅣ 放射能研究委員会
1956 ⅩⅥ 広島・長崎支所
1957 ⅩⅤ 放射能研究委員会
1957 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1958 ⅩⅤ 放射能研究委員会
1958 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1959 ⅩⅤ 放射能研究委員会
1959 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1960 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1961 ⅩⅧ 広島・長崎支所
1962 ⅩⅧ 広島・長崎支所
1963 ⅩⅨ 広島・長崎支所
1964 ⅩⅨ 広島・長崎支所

国会会議録の中のヒロシマ・ナガサキ(第1~11回)

国会会議録の中のヒロシマ・ナガサキ(第1~11回)

第1回参議院議員選挙(1947(昭22)0420)

第23回衆議院議員選挙(1947(昭22)0420)

1121 非戦災者特別税法案(内閣提出) [質問]北村徳太郎、[答弁]栗栖赳夫 衆財 [財政及び金融委員会議録]、広島・長崎の焼け残った家。
1208? 広島市及び長崎市の復興助成の請願に関する報告書(12月8日付) [請願者]長崎市長大橋博外1名 衆財 [財政及び金融委員会議録第51号付録]
1208 請願 [採択]、広島市及び長崎市の復興助成の請願。

第1回特別国会(1947(昭22)0520-1209)、片山内閣(0524成立)

第2回通常国会(1947(昭22)1210-19480705)、芦田内閣(0310日成立)

0702 社会事業振興に関する小委員長報告 [請願の審議経過・結果報告]姫井伊介 参厚 [決定]。模範社会事業都市建設に関する請願
0705 請願 [厚生委員会の審議経過報告]塚本重蔵 [採択]。模範社会事業都市建設に関する請願

第3回臨時国会(1948(昭23)1011-1130)、第2次吉田内閣(1015日成立)

第4回通常国会(1948(昭23)1201-1223解散)

第24回衆議院議員選挙(1949(昭24)0123)

第5回特別国会(1949(昭24)0211-0531)、第3次吉田内閣(0216成立)

0326 [3月25日]世界連邦建設運動と日本国会の参加 [自由討議]菊池義郎 原子力の惨害
0426 広島市を平和都市に指定する件 [発言]石田博英 衆議 原子爆弾の惨害、
0427 広島市を指定都市にする件 [発言]石田博英、中村寅太、神山茂夫 衆議 長崎の扱い、
0510 広島平和都市建設法案及び長崎国際文化都市建設法案の取扱いに関する件 [経過説明]石田博英、[質疑]土井直作、浅沼稲次郎、神山茂夫、林百郎、大池眞事務局長。 衆議 委員会審査省略を決定。

第6回臨時国会(1949(昭24)1025-1203)

1025 [広島平和記念都市建設法・長崎国際文化都市建設法の賛成投票の結果の確定通知(8月4日付)] [内閣総理大臣]吉田茂
1130 湯川秀樹君表彰の件・永井隆君表彰の件 [参考人]仁科芳雄、亀山直人、武谷三男、[質疑]福井勇、小林進、木村榮、浦口鉄男、神山茂夫。 衆考特
1203 湯川秀樹君表彰の件委員会報告に関する件 [質疑]浦口鉄男、木村榮、福井勇 衆考特 [考査特別委員会]、[可決]。

第7回通常国会(1949(昭24)1204-19500502)

1215 永井隆君表彰の件 [参考人]田川房太郎、[質疑]岡延右衛門、内藤隆、横田甚太郎、梨木作次郎。 衆考特 永井隆の人物・病状・生活の現況。
1223 永井隆君表彰の件調査報告書に関する件 [討論]吉田甚太郎<共産党> 衆考特 [多数決採択]

第2回参議院議員選挙

第8回臨時国会(1950(昭25)0712-0731)

第9回臨時国会(1950(昭25)1121-1209)

第10回通常国会(1950(昭25)1210-1951年0605)

510525 平和に関する請願(今野武雄紹介第2350号) [趣旨説明]砂間一良 衆外 東京都北多摩郡清瀬村上宮教会清瀬療園平和懇談会(佐藤己未夫外134名署名)、「日本人として人類最初の原子爆弾をこおむり、その惨禍を身をもって味わいました」

第11回臨時国会(1951(昭26)0816-0818)

0819 [8月18日]国務大臣の演説に関する件 [質問]岩間正男、[答弁]吉田茂 平和運動への弾圧、広島・長崎を再び繰返さない、

広島大学新聞(創刊~9号)

広島大学新聞(創刊~9号)

号数 発行年月日 主要記事見出し
発行者:広島文理科大学新聞部
創刊 19470215 創刊を祝う(長田新(学長))
広島学生連合会結成-早速震災地救援活動
無から有へ-原子爆弾その後
広島文化運動の展望
2 19470405 広島学生連合ついに誕生-盛上がる学生の熱意をこの一線に
広島学生連合規約
不適格教授をめぐり学生再び動く-教・倫の立場
ペスタロッチー運動の回顧(長田新(学長))
3 19480115 総合大学目差して運動展開-要望される県民の協力
深い御造詣-御進講の両教授は語る
ようこそ陛下広島へ
全国学生運動の統一なる-広島学生自治連発足
我観-窮処守高(長田新(学長))
中国地区ワークショップ-広師で開催
4 19480225  平和日本建設の道(長谷信夫)
国立広島総合大学の設立-その構想と実現(長田新(学長))
邁進せん平和国家建設へ-広島学徒大会開かる
国立総合大学は何故広島に必要か?
5 19480515 ペスタロッチー運動の回顧(承前)(長田新)
決定は6月中か-其の後の総合大学問題
論説:大学の自治と学問の自由
新教育の方向(今堀誠二)
イールズ氏来広
授業料値上げを排撃-国立大学学生自治連起つ
6 19481210 本年度学士院賞-藤原教授受賞
CIEイールズ博士来広-つぶさに各校を視察
活発に動く自治連-広島の場合
払えない授業料-値上げ反対の波全国に及ぶ
論説:文教政策と学生の態度
7 19481210  本学から4教授を推薦-日本学術会議
論説:学生運動の在り方
石門心学会広島支部発会式における高松宮殿下の御言葉
学生厥起大会-県庁にデモ
6、7両日本学で講演-英連邦軍教育顧問-ブランデン氏
廃墟に返り咲く文化-学園文化祭終る
民科文理大班発足
自治会の在り方-来広のタイバー氏語る
総大に夜間部を-夜間部学生起つ
A級に編入か-その後の総大問題
高松宮さま-学生代表と御懇談
広高生百余名-本学教授会にデモ
米国人文科学顧問団来広-中・四国大学高専代表と会議
文部省大学法試案を廻って各方面に波瀾-本学の態度
学生新聞の在り方(糸川成辰)
回想:学生運動1ケ年の回顧
8 19490125  民科啓蒙講座開設
広島総大設立予算全額県民負担-全額国庫負担にせよ-県民学生の猛反対
学友会刷新成るか-授業料不払を解く
論説:1949年と闘う
中国研究所広島支部発会
第1回学術会議に3名当選-第1部長田・古賀両教授、第4部三村教授
YMCAの動き
9 19490309  論説:総長選挙と今後の問題
三者協議会誕生か-其の後の学友会刷新
学内のセクト主義を破れ
マルキシズムと学生-社会心理学的調査
総大総長-初代総長は長田現学長か-決定権は文部省に
100 19601210
発行者:広島大学新聞会
著者 タイトル
論説委員会 □巻頭言□ 学生新聞と中立
特集・教育の危機を考える
長田 新 国民教育の大道

創刊号

同志社大学神学部新島講座

同志社大学神学部新島講座 1947年8月4日~8日

『原子力時代に於ける基督教-新島講座記念論文集』( 有賀鉄太郎編、聖光社刊、19480215 刊)=1947(昭和22)年8月4日-8日、同志社大学神学部で開かれた「新島講座」の講演記録。

目次

著者 タイトル
有賀鉄太郎
「この書に収められた諸篇は、昭和22年8月4日から8日に亘って同志社大学神学部に開かれた「新島講座」の講演に基づいたもの」
湯浅八郎 原子力時代に於ける基督教
「文明のかかる欠陥を痛感するアメリカの学会は、戦時中より科学、宗教、哲学の三分野に亘り学会の権威をコロンビア大学に招集し年一度綜合研究会を開催することを試みた。1946年には第4回目の会合がコロンビア大学で開かれたが、その時最も大きな感銘と衝撃とを与えたものは、サタデー・リビュー・オブ・リテラチュアの主筆、カズン[ノーマン・カズンズ]氏の原子力時代に関する論文であった」
山崎亨 旧約に於ける世界思想
富森京次 新約に於ける世界思想
有賀鉄太郎 初代基督教徒の世界思想
大塚節治 基督教世界観
湯川秀樹(招聘) 現代科学思想
 細野軍治  国際連合に就て
 安田貞雄(発題者)  懇談会:農本文化と農村文化
 J.G.ヤング  宗教教育の諸問題
魚木忠一 新島先生に於ける国家思想

 

編年資料:ヒロシマ-1947

編年資料:ヒロシマ-1947

 

月日 資料名
0215 広島大学新聞創刊号
0710 島師範新聞創刊号
0721 広島市の平和祭構想
0806 広島市の第1回平和祭
0806 広島市平和宣言(浜井信三)
0908 広島文理科大学長長田新「世界平和への道」(抄)『中国新聞』
10 広島高師学生新聞創刊号
1207 天皇「ヒロシマ巡幸」
1220 広島女高師新聞創刊号

【資料】天皇「ヒロシマ巡幸」1947.12.7

【資料】天皇「ヒロシマ巡幸」 1947.12.7

[広島市民広場での]御言葉

[『天皇と廣島』(小野勝、広島文化社、1949)所収]

この度は皆の熱心なる歓迎を受けて嬉しく思う。
本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。
我々はこの犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。

THE NEW YORK TIMES 1947.12.8

Hirohito Rules Out New ‘Pearl Harbor’

by The United Press

HIROSHIMA, Japan, Dec. 7 –Emperor Hirohito pledged today that Japan never again would pursue policies that might lead to another “Pearl Harbor” as he addressed 40,000 persons at this atom-bombed city on the sixth anniversary of the attack on Hawaii.

In an unprecedented and unexpected speech, the Emperor said the Japanese people “must work to contribute to world peace and rebuild the country.”

He expressed the deepest personal sorrow at the atomic disaster that had befallen Hiroshima, but said Japan faced the future hopefully

Emperor Hirohito stood alone and unattended on a raised openair platform in the center of the atomic bomb. Australian military police aided in controlling the crowds.

厚生省予防衛生研究所のABCCへの協力(1947年6月~52年12月)

 『国立予防衛生研究所年報 昭和23年版』[抄]

原子爆弾影響の医学的調査に関する米国 Atomic Bomb Casualty Commision(A.B.C.C)との協同研究

 本協同研究は昭和22年6月3日ABCC代表者より本研究所に協力申入れがあったことに端を発している。これに先立ちABCCの代表は現地に於て予備的調査を行った。又同年8月中旬 Stanford 大学の Glenrich 博士は被爆小児の発育に関する予備的調査に来朝した。

 その後ABCCの一行は帰米され、同年10月16日軍籍を脱した。 J. Neel 博士は再び来朝、予研に浜野局長、小川課長、小林所長及び小島副所長を訪れ、重ねて協同方を申入れた。

 同博士は米国 National Research Council, Committee on Atomic Bomb Casualtties に提出した genetic program に関する報告及び予研宛の Memorandum を提示して、特に  genetic program の早急な着手を要請された。厚生省ではこれらの資料に基き、早急具体的実施計画の樹立に努力する旨回答して散会した。

 小林所長及び浜野局長は予研永井技官を広島に派遣して従来の genetic study の状況を調査せしめ、これを参考資料として具体的実施計画を樹立せんとした。その際永井技官は現地に於て Neel 博士、広島市保健課長松林博士、広島県衛生部長藤井義明博士と会談、ABCCが既に実施中の hematorogical survey の情況を聴取し、且つ genetic study に必要な人員構成等についても一致点を見出して帰京し、これに基き第1回の具体的草案を作り上司に報告した。

 永井技官は小林所長、浜野局長の命により具体案をたて、これを資料として予算案を作製し、12月15日頃予防局長に提出した。

 前項具体案はABCC Neel 博士にも提示して一部に訂正をうけた。

 厚生省に於ては前項の予算案を以って、数度大蔵省と折衝を重ね結局約150万円の予備金支出の承認を要求することとした。

 昭和22年11月25日小林所長は東京、京都在住の遺伝学者10名の参集を求め具体案につき総合的な意見を徴した。その際予研の東京に於ける責任者として熊本医大教授木田文夫博士が推せんされ、予研は同博士を予研嘱託とした。

 ABCC Neel 博士は広島に於ける使用建物につき考慮中であったが、在広島の浅野図書館の戦災建物を借入れ、修理してこれにあてることを希望し浜野局長にこれが借入斡旋方を依頼した。依って同年12月24日浜野局長は木田博士、永井技官を帯同して広島に赴き、広島市長と折衝し、その結果広島市は該建物を20年間ABCCに提供し、これに対しABCCは広島市に200万円を謝礼として支払う協定案を作製した。

 尚 Neel 博士はこの旨 Washington に承認手続きをとった。一方広島財務局管理中の宇品町所在の旧凱旋館の一部借入れの了解を得た。

 その後久しからずしてabcc顧問建築技師 Pfeiffer 氏来朝、浅野図書館を検査した結果戦災のため強度を減じ、修理しても使用には安全でない事が明らかになったので該建物借入を中止し、旧凱旋館の一部を借入れるとともに別に適当な市内地に永久的な建物を新設する事に決定した。

 昭和23年1月佐世保検疫所勤務の厚生技官田中正四(元京城大学衛生学教室)を広島駐在連絡員に任命し、同時に広島県衛生部勤務参事高島哲造を庶務主任に委嘱した。

 一方昭和23年3月上旬本研究に要する経費は漸く2~3月分のみ認められ令達をうけた。之れは1月から2月に渡る内閣交代による政治空白によっての所以であった。

 昭和23年4月6日小川課長及び永井技官は広島に赴き一般情況を視察した。調査は専らABCCの指揮監督により、予研所属の集計員、書記等のみがこれに当り、予研の幹部は殆んど与る所なく、従って予研の幹部の意向は全体の運営にも又現場下級職員にも全く反映せず、命令系統を明かにする要を痛感した。よって永井技官はこの間の事情を、PHW Section Lt. Col. Thomas Dr. Hamlin の提唱により厚生省の浜野局長、小川課長、予研の小林所長、小島副所長、永井技官が参集してこの問題につき懇談会を催した。

 席上予防局並に予研より問題の核心を述べたる所ABCC側より予研は更に適当なる責任者を参加せしむべきであって、然る後に初めて本問題を更めて討議し得るものと考えるとの意志表示があった。これに対し浜野局長より現在結核予防会に勤務中の槙弘氏が最も適当であると考えられるので、同氏の参加を求める方向に努力する旨を提案して散会した。

 なお槙弘は6月29日厚生技官に任命され、8月31日付を以って広島原子爆弾影響研究所長に就任した。

 次に一方長崎に関しては昭和21年中 Warren 大佐、Tessmer 中佐、 Neel 中尉等の最初の予備的視察以来 Owen 博士等が一度視察をした事があるが、広島の場合と異り日本側に於ても調査をした事なく、ABCCとしても先ず広島に於て陣容を整備し、然る後に長崎に着手する方針をとり、昭和23年7月迄は何等の積極的活動は行われなかった。

 然し昭和23年5月以前に Owen 博士、Tessmer 中佐、北村博士等視察の際に予研から木田博士も同行長崎医科大学有力者等との数次の会談があり、長崎におけるこの問題は微妙なものがあった。

 7月12日、ABCCは統計学者 brewer 及び倉田医師を長崎に派遣、長崎に於ける活動の第一歩を踏出した。予研は従来、長崎県衛生部赤星勝義氏及び雇員2名を以って本調査に関する事務を担当せしめ、長崎に於ける活動に備えた。現在の情況は長崎保健所に一室を借り調査登録に数名の係員を置き漸く登録を開始した程度である。

 本調査の円滑なる運営のためには一つの運営機構を必要とすることは何人も認める所であるので、9月2日の会議席上予研試案を提出して考慮を求めた。その後9月16日の会議の席上ABCCより資料[別紙資料略]の如き試案を提出、この案は厚生省、予研並にSams 准将の承認を得て9月20日の会議の席上採択を決定、即日これが運営規程草案に着手した。

 12月18日小林所長は平尾庶務課長・永井技官・小松事務官を帯同し広島・長崎に出張、現地に於てABCC幹部と運営方針並びに本建築の問題に就き懇談し、相互の理解認識を深めると共に、テンポラー、ラボラトーの建設、職員の養成等に重点が置かれたが、ABCCとの関係の緊密化とともに、24年度の研究には多大の期待が懸けられる。

 『国立予防衛生研究所年報 昭和24年版』[抄]

    Ⅶ.原子爆弾影響研究所

 ABCCはかねて仮研究所の開設の準備を進めていたが遂にその完了を見たので7月14日開所式を挙行した。当日は特にGHQ SAMS 准将の臨席を得て関係各官公庁、日本学術会議、各医科大学、医師会その他各関係諸団体の代表者など約100名を招待し、ABCCから Tessmer 中佐以下各幹部、NIHから小林所長、平尾庶務課長、内外技官、槙支所長外幹部職員が列席した。席上多数名士の祝辞があり茲に改めてABCCの沿革と事業の将来が社会に発表せられ本研究所に対する一般の認識を一段と深め事業運営上多大の成果を終めたものと確信する。

 『国立予防衛生研究所年報 昭和27年版』[抄]

    原子爆弾影響研究所の概要

施設 Atomic Bomb Casualty Commission は、昭和26年1月広島市比治山の本建築5棟に宇品仮研究所から移転したが、同27年10月更に2棟の増築が竣工したので、12月末宇品に残留していた部分が運輸部を残して総て比治山に移転集中したので、業務は一体として円滑に進む様になった。