「1986年」カテゴリーアーカイブ

アジアの声-侵略戦争への告発

『アジアの声-侵略戦争への告発』(戦争犠牲者を心に刻む会編、東方出版、1987年3月27日)

見出し 備考
001 集会報告集の刊行にあたって
003 趣意書
009 呼びかけ人名簿
015 開催にあたって(小山仁示)
019 第1部 各国からの証言
021 強制連行指揮官の戦争犯罪(日本)吉田清治
戦争犯罪者の証人として/従軍慰安婦の悲劇/被爆者は日本人だけではない
026 日本軍の侵略と泰緬鉄道の惨状(タイ)テーパンヤ・スティー
泰緬鉄道の犠牲者たち/ジェス博物館を世界中の人々に
031 非人道的な日本軍の虐待(シンガポール)陸培春
母の戦争体験/イナゴに似た残酷な日本軍/拷問の手口/許しがたい靖国神社公式参拝/日本人に期待したい良識ある行動
043 捕虜への虐待、バターン死の行進(フィリピン)マリア・フェリア
バターン降伏で約八万人の捕虜が死の行進/母の死/日本軍の無差別な拷問と虐殺/今も続く日本の侵略
〈日本軍によるフィリピン住民虐殺のレポート〉
はじめに/バタンガス/日本軍によるフィリピン占領/聞き取り/日本人に対して思うこと
059 広島が私の顔を奪った(韓国)辛泳洙
日本語は屈辱の言葉/いまだ迷える韓国人の霊たち/被爆によって別人になった/「不幸な歴史」を再び繰り返さない/真の日韓親善を
068 父の死と日本人の戦争犯罪(中国)陳貞馥
日本軍が約三○万人の中国人を虐殺/過去の罪を認めない日本
073 沈黙の時(上杉聰・沙田明)
一五分間の沈黙に思いを馳せる/詩
080 不戦の誓い(大島孝一・伊勢谷功・松井義子)
当集会開催までの経過/不戦の誓い
087 第2部 シンポジウム アジアの中の日本-過去と今
日本人は、いま何をすべきか/タイの八月一五日/在日アジア人は虫けらか/関西新空港はアジア侵略の基地/広島・長崎には本当に原爆が落ちたのか!/平和のために/良識を問う日本政府の言動/歴史をゆがめた教科書に抗議の輪を/各地の運動からの肉声/すべての日本人が加害者の立場で
123 第3部 タイ現地集会
悲願の平和寺院を建立/泰緬鉄道建設隊の死の体験/タイの地に立って思うこと/敗戦前後の模様/教育の場で伝えたい日本の戦争犯罪/親日感情に甘えは禁物/一人一人の心で世界平和を
145 第四部 経過報告・資料
第一回呼びかけ人会議/第二回呼びかけ人会議/賛同人と事務局について/第一回実行委員会/第二回実行委員会/ホームステイ/知事訪問と戦争資料室/八・一五集会/関連集会/会計報告/反省と今後
161 賛同人名簿
173 「一五年戦争」と靖国神社にかんする参考資料目録
181 あとがき-集会アンケートにふれて

趣意書

 一九八五年八月一五日、中曽根首相による靖国神社公式参拝は、内外からの厳しい批判の声にさらされました。私たちの多くも、さまざまな形で、この公式参拝に異議を申し立ててきました。その理由の一つは、憲法が強く要求している政教分離の原則を踏みにじり、信教や思想の自由を侵すものであると考えるからです。

しかし、私たちの批判は、それにとどまりません。靖国神社への公式参拝は、本当の意味で、戦没者を追悼することにならないという思いを強く抱きつづけてきたからなのです。

靖国神社に祀られた戦没者の多くは、侵略戦争に駆り出されていった人たちです。たとえば、全合祀者の九五パーセントは、「満州事変」以来の「一五年戦争」ヘの参加者です。そこには、周知のように、A級戦犯さえも含まれています。靖国神社は、これらの人々を「英霊」とし、誉め讃える施設です。首相がいかに宗教色を除くように配慮したと強弁しても、この施設に崇敬の意思表示をしたことは、紛れもない事実です。

首相自ら、一九八五年七月の自民党第五回軽井沢セミナーで、靖国神社に祀られた人たちを「国のために殉じた人」と呼ぴ、「感謝をささげるのは当然。さもなくば誰が国に命をささげるか」と演説しました。

これは、アジア・太平洋地域および対戦国の人たちに重大な惨害をもたらした戦争犯罪を免責するだけでなく、人々の死を政治的に利用し、再び同じ誤ちを繰り返すと宣言したと同じことです。アジアからの強い抗議は当然のことですが、加えて、死者を著しく冒涜するものであると言わざるをえません。

これまで、私たちは、靖国神社に祀られている戦没者の多くを、むしろ侵略戦争に強制動員された被害者であると考えてきました。したがって、その追悼は、「英霊」として讃えることではなく、戦争犠牲者として苦しみと悲しみを胸に刻みつけ、悲劇を二度と繰り返さないために、私たちこそが責任を果たしつづけることでなければならないと考えてきました。そして、ささやかながら今日まで、私たちは、それぞれの立場と方法でそれを実践してきました。

私たちの親や兄弟、親族そして友人、またその周囲には数多くの戦死者がいます。そして、その人たちに悲しみの思いを馳せるにしたがい、私たちは重大なことに気付いてきました。

それは、私たちの知己、親族を、戦争による「犠牲者」と呼ぶなら、私たちの国によって踏みにじられ、辱めを受け、虐殺されていったアジア・太平洋地域での死者を何と呼べばよいのか、ということです。むしろ、私たちが真っ先に思いを馳せ、心に刻み、悲しみのうちに記憶しつづけなければならなかったのは、私たちの親族や友人によって傷つけられ、殺されていった人たちの方ではなかったか、ということなのです。

南京で無差別に虐殺された二○万人とも三○万人とも数えられる人たち、重労働や拷問で殺され、捨てられ、埋められた万人坑の人たち、生体実験や解剖に付され、「丸太」と呼ばれて人間の尊厳の一切を奪われて死んでいった七三一部隊による犠牲者、強制連行によって奴隷労働を強いられ、従軍慰安婦として軍人に凌辱され、空襲で、原爆で、病で、異邦の地に絶望のうちに死んでいった朝鮮の人たち、銃剣や日本刀によって切り裂かれたルソン島の幾千とも幾万ともいわれる老若男女、バターン半島の「死の行進」で斃れた幾千ものアメリカ軍捕虜の人たち、食糧の供出と苛酷な労働で殺されていったインドネシアの人たち、「枕木の数だけ死者をだした」といわれる泰緬鉄道の建設現場に斃れていったタイ・ビルマ・マレーシアの「ロームシャ」や、イギリス軍捕虜の人たち、そして、シンガポールで虐殺された数万の「華僑」の人たち、皇民化政策によって文字や文化を奪われ、侵略者である日本のために徴兵され、傷つき、斃れていった台湾の人たち、そして、アジア全域に広がる抗日闘争での犠牲者。私たち日本人の多くは、四○年間にわたって、この人たちのことを忘れ、頬かむりをし、ただ ひたすら身内の死のみを悼んできたというのは言い過ぎでしょうか。

一九五二年以来、八月一五日に開かれる政府主催の「全国戦没者追悼式」には、原爆や空襲による民間日本人の被害者が加えられていますが、アジア・太平洋地域で命を奪われた人たちは除外されています。そして、戦後四一年目の八月、中曽根首相は、それにもあきたらず、日本の軍人・軍属のみを神と祀る靖国神社へ、国の最高責任者として崇敬の意を表したのです。

私たちは、激しい憤りを押さえきれません。同時に、心の奥深くに強い苦悩を抱かざるをえません。私たちの国を代表するはずの戦後歴代の政府は、過去の誤ちを世界の人たちの前に、一度として慚愧したことがありません。そして、私たち自身も、そのことを真の課題となしえないままに、ここまできてしまいました。政府は、再び新たな誤ちへとすすみつつあります。

今、首相が過去の罪責を忘れることを「戦後政治の総決算」と呼ぴ、新たな犯罪へすすもうとするのであれば、私たちは、それに正面から抵抗して、過去の罪責を深く心に刻み、そこから立ち直る新しい道を捜し求め、渾身のカで歩みはじめるほかありません。そのためには、四○年間放置してきたところから出発する必要があります。

このような考えから、私たちは、靖国神社の公式参拝にかわる、すべての戦争犠牲者と向き合う新たな追悼と平和追求のあり方を生みだすために、模索を開始することにしました。

これまでの討議から、私たちは、次のような原則と方法を提案したいと思います。多くの方がたが賛同くださり、集会の実現に協力、参加いただきますよう呼びかけます。

一、原則

(1)「一五年戦争」における日本の戦争犯罪の犠牲となった人たちに、さらに広く深く思いを馳せ、それを心に刻もうとすること。そのために、関連する事実の発堀に努めるとともに、アジア・太平洋地域で亡くなった人たちの遺族を訪れ、また招き、交流しつつ、直接被害者の声にぷれながら、私たち自身の変革をめざすこと。

(2)以上を基礎とし、日本の戦争犠牲者-思想的、宗教的信条ゆえに弾圧を受け、生命を奪われた人たち、原爆・空襲・沖縄戦で斃れた民間人、またアジア・太平洋各地で、また日本本土内で犠牲になった日本人軍人・軍属など-ヘの思いを整理し、「英霊」として讃えるのではなく、悲しみのうちに記憶し、長く語り継ぐ努力を積み重ねる。

(3)犠牲者の死は、また生き残った人たちの苦しみは、今日生きる私たちが過去の誤ちを反省し、再び同じ誤ちを繰り返さないために、あくまで平和を守る責任を負いつづけることによってしか償うことができないことを明らかにし、そのための道を捜し、また歩みつづけることを言う。

(4)以上について同意する人たちが、宗教や思想・信条・社会的立場の違いを超えて、共同して集まりをもてるよう、相互に最大限の努力をはらう。

二、方法

(1)以上の原則を実現するために、宗教的儀式等によらないで、「一五分間の沈黙の時」を中心に据え、内外の犠牲者の証言や表現活動などで構成する集会を開催する。

(2)集会は、アジアの人たちにとって解放の日であるとともに、日本の民衆にとっても解放の日となるべき八月一五日に大阪地区において開催し、その前後に可能な限り日本全国とアジア各地で同趣旨の集会を実現するよう努める。

(3)集会の実現、とりわけアジア・太平洋地域の遺族への訪問、招請に向けて広範に賛同人を募り、一口一○○○円の基金を集める。賛同人は個人の資格とするが、団体の協力は広く求める。

以上

一九八六年三月二六日


OATH OF PEACE--NO MORE WAR

First of all, we would like to extend our heartful thanks to the guests from abroad for their participation in this forum.

It is 41 years since the end of the ‘Fifteen-Year-War’ which was provoked by Japan and has brought about. the great and severe damages and left the scars to the various parts of Asia.

Today’s forum gave us an opportunity to listen to the strong appeals from the war victims and their families in the Asian-Pacific region.

We find no words to express our astonishments and grief by learning the brutarity of the war crimes which were committed by Japan in the past as well as the seriousness of continuing discrimination, oppression and economic invasion by Japan against countries in the region.

On August 15, 1985, Prime Minister Nakasone visited Yasukuni Shrine which symbolizes worship of the Japanese dead soldiers as gods and praises a death for war as the highest virtue. His visit was made in the capacity of a head of state, which no other post-war prime ministers had ever done.

However, severe criticism arose immediately after his visit in different parts of the world, and it finally became a great power to make him refrain from this year’s visit.

Comparing with these critical voices from abroad, criticism inside the country was very weak, of which we are deeply ashamed.

Moreover, some people have started fighting back with hostility, claiming that the sensible voices from overseas are “interference in the internal aftairs”.

However, Iistening to the acute and grave cries of the foreign guests, we ascertained that the criticism from abroad has no single indication of interference. On the contrary, it is a warning of the risk that Japan may repeat the same error since the Japanese society as a whole has shown no reflection on the invasion into the Asian countries during the war, which was the worst “mterference m the mternal affairs”.

We will engrave in our mind the seriousness of the war crimes cornmitted in the pas_t and the great weight of the innumerable deaths thereupon, and we will act to come up to the expectations of those who gave us valuable speech today.

We hereby swear :

1 . that we will further strengthen our movement for peace and disarmament so that the Japanese military and weapons will never crush and destroy your land again,

2 . that we will strengthen our appeal for prompt and sincere measures on behalf of the Hibakushas living in Korea towards the Japanese govern-ment, who does not yet clearly admit the responsibility for war and has not made even the minimum compensation to them as pointed out in the speech of the Korean Hibakusha,

3 . that we will give our thorough consideration to the fact that the Japanese society still has bias and discrimination against people in the Asian-Pacific region and economically oppresses them, and we will further strengthen our efforts to change our society and way of living.

On August 15, 1986

By all participants of “Forum to Ponder on the War Vrctims m the Asran Pacific Region and Engrave It in Our Mind”.

 

原爆体験記読書会(198604~198703)

原爆体験記読書会
呼び掛け人:田原幻吉・宇吹暁
全11回(198604~198703)

原爆体験記研究会1986a

 

出席者
1 04 08 「絶後の記録」

参加者:大野・中川・豊永・宮道・舟橋・冨沢・春日・羽原・内田・宇吹・田原

2 05 13 参加者:中川・若林・江崎・豊永・宮道・冨沢・羽原・内田・渡辺・宇吹・田原
3 06 10 「原爆の子」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・宮道・舟橋・宇吹・田原

4 07 08 参加者:大野・中川・豊永・羽原・内田・宇吹・田原
5 09 09 「星は見ている」。

参加者:大野・若林・江崎・豊永・舟橋・宇吹

6 10 14 参加者:大野・若林・舟橋・内田・宇吹・田原
7 11 11 「天よりの声」。

参加者:中川・豊永・舟橋・内田・宇吹・田原

8 12 09 「もうひとつのヒロシマ」。

参加者:中川・若林・江崎・豊永・舟橋・羽原・内田・宇吹・田原

9 01 13 参加者:若林・江崎・舟橋・内田・渡辺・宇吹・田原
10 02 10 参加者:江崎・豊永・宮道・内田・宇吹・田原
11 03 10 参加者:大野・若林・豊永・宮道・舟橋・羽原・内田・島津・宇吹・田原

年表:原爆展(1986年)

年表:原爆展(1986年)

記事
01 08? 広島市、 4月下旬にカナダ・バンクーバー市で原爆展を開催することを決定。
02 05 大分県中津市の市民グループ、来広し、 3月に中津市で開かれる博覧会での「非核平和展」開催について、広島市に協力を要請。
02 05 大分県中津市の市民グループ、長崎市を訪れ、 3月に中津市で開かれる博覧会での「非核平和展」開催について、長崎市に協力を要請。
02 14 「核軍縮を求める22人委員会」、東京で、定例総会を開催。 5月の先進国首脳会議(東京サミット)にあわせて、東京都内で原爆写真・資料展を開催することを決定。
02 20 ブラジル・サンパウロ市で開かれた南米初の「広島原爆平和展」が 同国マスコミ協会の「1985年優秀展覧会賞」に選ばれたことが、判明。
03 05 「核軍縮を求める二十二人委員会」、 5月の先進国首脳会議(東京サミット)にあわせての都内での原爆展開催などについて、政府に協力を要請。
03 07 外務省、 5月の東京での先進国首脳会議に合わせて開かれる原爆展について、PRなどの協力はすると発言。
03 11 国際軍縮促進議員連盟、外相に、 5月の先進国首脳会議の会場などに、原爆資料を展示することを提案。
03 21 大分県中津市の博覧会パビリオン「非核平和館」で、広島県の児童が原爆死没者を描いた「十四万人の顔」を展示。
03 22 中曽根首相、先進国首脳会議の関連施設での原爆資料展開催について、協力するのは困難との考えを表明。
03 28 長崎市、中国・北京で10月に開催予定の「核兵器-現代世界の脅威」展への代表団派遣計画を発表。
04 04 広島市、カナダ・バンクーバー市での原爆展に向け、写真・資料などを送付。
04 05? 東京での先進国首脳会議(5月 4日- 6日) に合わせて開く原爆写真展の開催場所( 国会前の憲政記念館) ・日程(6- 7日) など、内定。
04 09 外相、衆院外務委で、 5月の先進国首脳会議会場での原爆資料展開催は困難だが、広島・長崎両市長と各国首脳の会見を取り次いでもよいとの考えを表明。
04 16 テレビ番組「ひろしまTODAY60’」( 広島テレビ) 、カナダでの原爆展について放送。
04 21 中国・北京で、10月に「核戦争の脅威と核エネルギーの平和利用展」( 国連広報局・創価学会共催) が開催されることが決定。
04 24 カナダ・バンクーバー市で、「原爆資料展」( 同市主催) 、開催( 26日まで)広島市長ら、開会式に出席。
04 25 イタリア・コモ市で、「世界平和連帯都市欧州市長会議」開催。同会議にあわせて、原爆展開催( 27日まで) 。長崎市、市長代理として収入役を派遣。
05 02 先月訪朝した自民党広島県議団、北朝鮮での初の原爆展開催の可能性が大きいことを発表。
05 06 国際軍縮議員連盟・広島・長崎両市など、先進国首脳会議にあわせて、東京で、「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真・資料展」を開催(7日まで、約 480人入場、各国首脳の入場はゼロ) 。
05 12 ブラジル・サンパウロ市で昨年開かれた「ヒロシマ平和展」が縁で、サンパウロ州政府スポーツ観光局広島事務所が開設。
05 23 長崎市、10月に北京市で開かれる「核兵器-現代世界の脅威」展への代表派遣計画を見送ることを決定。
06 09 広島県庄原市で、「ひろしま・ながさき原爆写真展」( 広島・長崎両県共同企画) 開催( 12日まで) 。
06 23 ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展(広島・長崎両県主催)、呉市で開催(28日まで)。
06 25? 広島市安佐北区の高陽公民館で、原爆写真展開催(8月 7日まで) 。
07 22? 大竹市の郵便局で、原爆資料写真展開催。
07 29 広島県佐伯郡大野町、「町民のつどい」を開催(8月 3日まで) 。「市民が描いた原爆の絵」の展示・原爆映画上映会など。
07 30? 長崎県南高西有家町で、ナガサキ原爆写真展( 町・県被爆者手帳友の会西有家支部共催) 、開催( 30日まで) 。
08 01 広島市役所に旧庁舎地下室を利用した被爆資料展示室、開設。被爆写真・遺物など84点を展示。
08 02 「平和のための京都戦争展」、京都市で開催( 今年で 6回目、10日まで) 。テーマ「ノーモア、ヒロシマ、ナガサキ、ビキニ」他。
08 05 八王子市、国際平和年記念事業として、原爆資料展を開催( 17日まで) 。
08 07 「ながさき原爆の写真展」、長崎市の平和公園で開催(10日まで)。
08 14 広島市民の描いた原爆絵画展、京都市で開催 (19日まで) 。
08 23 長崎青年会議所、島原市での青年会議所九州地区会員大会に合わせて、「長崎・広島原爆写真パネル展」を開催(24日まで)。
08 24 「反トマホーク・戦艦ニュージャージー寄港反対全国集会」、佐世保市で開催 (約9500人参加) 、被爆写真展・原爆映画上映など (30日まで) 。長崎県被爆者手帳友の会会長ら、参加。
08 31 広島市社会福祉協議会、東京での第23回国際社会福祉会議会場で、原爆資料展を開催。原爆被害の概要をまとめたパンフレットを配布。
09 04 仏ベルダン市で、「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展」開催。(約1カ月)。広島市平和文化センター、被爆写真パネルなどをベルダン市に寄贈。
10 21 中国・北京市で、「核戦争の脅威と核エネルギーの平和利用展」(国連広報局・創価学会主催)、開催(30日まで)。長崎市長、開幕式に出席。広島市、訪問団を派遣。
10 29 長崎県江迎市北松世知原町で、同町初の原爆写真展開催(30日まで)。
11 02 長崎県松浦市北松福島町の第8回文化祭で、原爆写真展・原爆映画映写会開催(3日まで)。

資料調査通信(広島大学原医研)1986年

資料調査通信 1986年

第50号(1月号)-第59号(11・12月号)

 

分冊 記 事
50  1 1 被爆問題年表 1986年1月 1 7
50  1 1 原爆関連テレビ番組一覧 1985年 8 18
50 2 1 資料:原爆報道 新聞連載一覧 長崎編(1945ー1984) 1 48
50   1 資料調査通信索引 (1~50号) (別紙リーフレット) 1 2
51   2/3 被爆問題年表 1986年2月 1 6
51   2/3 被爆問題年表 1986年3月 7 14
51   2/3 原爆関係新聞社説・投書一覧 「「中国・朝日・毎日・読売・長崎「「1985年 15 24
52   4 被爆問題年表 1986年4月 1 8
52   4 THE NEW YORK TIMES の中のヒロシマ・ナガサキ (9)1977-1983年 9 13
52   4 原爆関連テレビ番組一覧 (1982-1984年) 原医研ビデオ所蔵分 14 18
53   5 被爆問題年表 1986年5月 1 10
53   5 トピック 原爆供養塔の遺骨をめぐって 11 11
53   5 トピック 新聞による年表―原爆供養塔の遺骨引き渡し(1968ー1985年) 12 16
54   6 被爆問題年表 1986年6月 1 9
54   6 被爆後1年間の長崎-慰霊行事表   10 12
54   6 被爆後1年間の長崎-慰霊行事表 弔辞と1945-1952年の関係記事 13 23
ヒロシマの「史点」 占領下の原爆文献考
55   7 被爆問題年表 1986年7月 1 15
55   7 被爆者対策史 年表 1945(昭和20)年 16 22
56   8 被爆問題年表 1986年8月 1 25
57   9 被爆問題年表 1986年9月 1 6
57   9 被爆者対策史 年表 (2)1946-1948年 7 18
58   10 被爆問題年表 1986年10月 1 8
58   10 被爆者対策史 年表 (3)1949-1950年 9 16
59   11/12 被爆問題年表 1986年11月 1 7
59   11/12 被爆問題年表 1986年12月 8 13
59   11/12 連載記事一覧 1986年 14 29

 

失った日から-原爆・引揚・教育・戦中の暮し体験記

『失った日から-原爆・引揚・教育・戦中の暮し体験記 』(広島県退職婦人教職員の会戦争体験記編集委員会、19861022)

内容

発刊に寄せて 空辰男(広島県教職員組合 執行委員長)
はじめに 森本喜代子(広島県退職婦人教職員の会 会長)
抑留そして引揚げ-敗戦の混乱の中で-
失った日から  高松キヌヨ /夫は現地召集で北満の戦場へ  藤本ツヤ子  /満州の修羅場に病癒えず  阪田セツエ  / 引揚者の姉  久保井ミツル  / 飢えと乾きと恐怖と  江口昌子  / 三十八度線を越えて  永井安子 / 国語教師として四年半  樋田美和 / 海岸線を引潮にそって  金子雪美 /  出産前零下二十度の海辺を  村上愛美  / 行きます の一言を残して  中岡梅代  / 別離の悲しみ  亀山芳枝  / 身も心も朽ち果てて  浜岡千代子
火傷の熱き教え子なりき-被爆体験・救援活動の記録-
番号になってしまった骨たち  樫木静子  /青春を襲ったケロイドに死を  半田孝江  /かぼちゃ の味  藤野美奈子  /ひとりだけの火葬  吉川哲子 /4 瞼に焼けつく郊外での体験  吉川昌子  /うじが連なって出てきた  藤川トシ子  /教室内は生地獄  吉宗英子  /火傷の熱き教え子なりき  八尾井弘子 /何処で命つきたか  甲斐美重子  /祖母から孫へ  下岡好枝  /一滴の涙もこぼれなかった  井岡清子 76 / なにひとつ語らず  渡辺ツユ子
君を縊ったその綱の端を-戦時下の学校教育-
負けないと信じて  小林恵美子  / 栄養補給を山羊乳で  宮本イズミ / 東の空が真っ赤だ  森本喜代子  / 厳寒も素足で-教師一年生  山口妙子 / 養護教諭として  平林艶子  / 教師として出征兵士の妻として  奥とわ  / 空襲のあいまを縫って学校へ  岡野聖子  / 前線もなく銃後もなく  秦三枝  /戦争と増産作業と疎開児と  立石ハルエ  /右向け右!  豊獄満起子  / 一堂に会して竹槍訓練  広沢綾子 /戦争さ中を教員生活  長岡キヨコ  /毒ガス島へ教え子を  奥田澄江  / 砂にしみ込む水のように  阿川智子  /騙されていた教育  前田典子  /戦中のこと  久保美智子  /勝つことを神国を信じ込まされ  宮崎瞳  / 青春のすべてを費やして知った  野曽原登美恵  /戦時下の生活  三上末美 /奉安殿は未婚の女子の守る所  佐伯静子 124 / 戦争まっただ中の学生生活  高垣ミエ子  /ススメススメヘイタイススメ  高橋郁子 /
楽しかるべき日々を失って-学童集団疎開-
飲まず食わずで七十余軒 井岡清子
欲しがりません勝つまでは-戦時下の暮し-
お父さん!帰って来て!-家族の想い-
降りそそぐ焼夷弾の下で-空襲の日々-
呉市大空襲の夜 渡辺美智子
わが青春死線を越えて-従軍看護婦の軌跡-
あとがき

 

 

 

高校生の平和ハンドブック

『高校生の平和ハンドブック』(森田俊男・小岩井益夫・沢野茂男著編、平和文化刊、19860707 )

目次

 核廃絶を求める高校生の平和アピール  (19820805)
長崎高校生平和ゼミナール 広瀬方人(世話人)
埼玉高校生平和ゼミナール 小岩井増男(世話人)
呉・高校平和の集い 大田英雄(世話人)
広島高校生平和ゼミナール 横山英(校長)
 はじめに:地域にねざし、人類の課題を担う日本人ヘ 森田俊男
1 ここまできたぞ高校生
1-1 雨ニモマケズ、風ニモマケズ
1-2 核時代を生き抜く力を
1-3 ノエルベーカーの手紙
1-4 高校生は世界史をつくる
1-5 ヒロシマの叫びを ともに
1-6 人類の良心を引き継ぐもの
1-7 いつでもどこでも平和ゼミ
1-8 平和のための学力を
1-9 明日ではおそすぎる
2 ワイワイ、ガヤガヤやってるぞ!
報告
1 長野  1160名の「生徒会平和宣言」  宮下与兵衛
2  山形 「ノエルベーカーの手紙」運動《国際版》  管幹雄
3 高知  いま、「足もと」から平和と青春を考えよう  上岡橋平
4  呉 戦跡フィールドワークを受け継ぐ高校生-呉地区高校生平和の集いの12年  大田英雄
5 神奈川 「ヒロシマ研究旅行」は生徒を変える  亀井博
6 広島  ヒロシマからの報告-合唱構成詩「見えてきたヒロシマ・ナガサキ」  沢野重男
7 埼玉 「50字メッセージ」から「平和討論会」  小岩井増男
特別報告・京都 現代を生きる高校生たち―同和教育にかかわってきた道をふりかえりながら  石田真一
3 平和学習講座を自主編成してみよう!
3-1 物理・原爆炸裂時の火球表面温度の推定、他  大亀信行
3-2 現代社会・核戦争はおきるか-ザ・ディ・アフター   沢野重男
3-3 英語・平和を求める手紙を英語で書いてみよう!  管幹雄
3-4 国語・峠三吉の生き方  深川宗俊
3-5 国語・ヒロシマの詩の艦賞と創作  山岡照
3-6 美術・美術と平和のかかわり・ゴヤの生き方と作品を通して  鈴木勉
3-7 家庭・戦時食を調理・試食してみよう  辻井敏子
3-8 書道・書(道)で平和を訴える  森下弘
3-9 音楽・「鳩の絵を書こう」  黒板正文
4 高校生は世界史をつくる
4-1 18歳公民権をにないうるものに-国民主権と人権の感覚を
4-2 18歳以下の青少年に意見表明の権利を-国際的な動向をふまえ
4-3 高校生は世界史をつくる
おわりに 小岩井増男

 

 

真珠と桜

『 真珠と桜 「ヒロシマ」から見たアメリカの心』(秋葉忠利、朝日新聞社、19860720)

目次

章(頁) タイトル メモ
はしがき
怒涛
009 アキバ・プロジェクト  ローカル・ジャーナリストを広島へ
(『ヒロシマ』森下弘)あなたの目で確かに見つめなさい
039 平和の使徒 アメリカ人の原爆観
(アメリカ合衆国国家)赤いロケットの焔/空中に炸裂する爆弾/それは星条旗が翻っている証(しるし)
058 卑劣な日本人 悪の原点=パール・ハーバー
(能『葵上』)今の恨みはありし報い 瞋恚の炎は身を焦がす 思い知らずや 思ひ知れ
079 一人ひとりの顔 記者たちの広島体験
(『法句経』友松円諦)われらはここ 市の領域に近し… このことわりを知る 人々にこそ かくしていさかひは止まん
源流
097 鎖を断つ プロジェクト実現まで
118 他人の痛み 私の見た平和運動
136 道端の焼夷弾 私の戦争体験
156 カラオケに耳を覆う 文化の壁は越えられるか
179 プラウド・オブ・ユア・サン アメリカで父になる
分水
201 ビッガー・ザン・ユー カウボーイ社会アメリカ
225 医者と患者の関係 エキスパートの支配
243 ワシントン・シンドローム 忘れられる過去
265 死を歓迎する心 被爆者は『生ける屍』か
281 二重被爆者神話 アメリカ社会の無力感
303 現実と想像力 平和への意志
327 あとがき

ヒロシマの「史点」―占領下の原爆文献考(目次)

ヒロシマの「史点」 占領下の原爆文献考<『中国新聞』19860630~0812、30回連載、担当:冨沢佐一郎記者)。

目次

No. 見出し(文献名) 見出し
1 石うすの歌 初の被爆テーマ小説 小学国語のテキストに
2 終戦経緯報告書 国が被害データ発公表
3 絶後の記録 被爆直後の壮絶なルポ
4 ちちははの鐘  自分の理念盛った三吉
5 回顧五年原爆広島の記録  「8・6」の思い込める
6 原子爆弾傷  「ガス」の部分伏せ字に
7 原爆体験記  根拠薄い初刊本発禁説
8 月刊中国  1年後廃虚の街を特集
9 原子爆弾と世界恐慌  知られていない小冊子
10 原爆の子  素朴な表現で反響呼ぶ
11 科学朝日  投下操縦士の証言掲載
12 原子爆弾(同盟通信版)  GHQ意識 外電で構成
13 原子爆弾の法律観  国際法の精神転換迫る
14  御楯隊しのぶ学徒の声
15 ヒロシマを忘れるな  禁止訴え署名呼びかけ
16 原子力の軍事的利用  極秘に印刷された2冊
17 反戦詩歌集  人類の愚挙へ怒りの声
18 ピカドン  絵で告発した最初の本
19 生ましめん哉  最も早い時期の有名詩
20 原子爆弾の効果 兵器としての威力誇示
21 ヒロシマ日記  米国で出版され逆輸入
22 あの当時  両親慕う孤児の思い
23 天よりの大いなる声  1年半も出版ためらう
24 原爆体験記(京都大学版)  学生が危機感抱き編集
25 ヒロシマ  悲惨さを世界に初紹介
26 夏の花  体験記の枠超えた傑作
27 屍の街  初版本は5節分を削除
28 さんげ  被爆の非情短歌で告発
29 原爆詩集  峠三吉の唯一の作品集
30 まとめ  ”神話”の洗い直し急げ
プレスコード神話、強すぎた自己規制、収集保存に努力を
「メモ(抜粋)この企画は、30年間にわたって原爆文献を収集、調査してきた「 ピカ資料研究所」( 田原幻吉(ピカ資料研究所代表))の資料を中心に構成した」>

 

ヒバクシャ-ともに生きる第5号

『ヒバクシャ-ともに生きる第5号』原爆被害者相談員の会、19861211

目次

 鈴木 勉 はじめに
第二回・平和的生存のためのボランティア講座
被団協調査
 原爆被害者相談員の会事務局 日本被団協調査のとりくみをふりかえって
証言活動
  久保浦寛人 証言のつどい五年の歩みから
一九八六年度証言活動一覧
活動報告
 広瀬 勝 原爆遺跡めぐりに参加して
 加藤礼子 中国を訪問して