霊は人を生かす 

『霊は人を生かす 松本卓夫の生涯』(加藤裕子編、加藤清光発行、新教出版社造本、19880930)

内容

著者 タイトル
1 松本卓夫 自伝 牧師の子
1 執筆の由来 3
2 父の回心 5
3 父の結婚 9
4 牧師の餓鬼ども 13
5 卓夫はまだ生きているか 17
6 私は放浪児だった 20
7 わやぁよそもんのよいで 24
8 父の鹿児島伝道 27
9 神の子海に漂う 32
10 笹森宇一郎先生に怒鳴られる 36
11 神学生のころ 41
12 伝道界への初陣 46
13 婚約 51
14 米国における大学生活第1年 57
15 ドリュウの森における神学生生活 62
16 フィラデルフィアにおける1カ年 67
17 シカゴにおける1カ年 72
18 帰朝、青山学院神学部就任 77
19 聖地旅行 83
20 阿佐ケ谷在住と阿佐ケ谷教会 90
21 京城へ行く 92
22 広島時代 97
1 広島女学院 97
2 8月6日 100
3 女学院の復興 108
4 牛田教会 112
23 新約聖書の口語訳にとりくむ 113
24 静岡英和女学院時代 熊倉孝安 115
25 日記より 127
2 平和巡礼
平和巡礼 松本卓夫 139
第1回世界平和研究使節団 143
1 第1回平和巡礼に参加して 芝間タツ 143
2 トルーマン大統領と会見 145
会見記その1 満井晨 145
会見記その2 満井晨 147
会見記その3 森下弘 148
会見記その4 バーバラ・レイノルズ 149
会見記その5 原田東岷 150
第2回世界平和研究使節団 原田東岷 151
3 遺稿 松本卓夫
『コイノニア』誌の発刊を祝して 157
強いられた十字架 160
訪米旅行の回想 166
1979年のクリスマスを迎えて思うこと 170
真の世界平和は 172
静岡英和女学院短期大学における説教 174
1 テサロニケ伝道のいきさつ-Iテサロニケ1・1 174
2 愛と真実の指導者パウロ-Iテサロニケ2・6-12、17、-20 184
3 青年テモテの事ども-Iテサロニケ3・1-7 190
4 キリスト教倫理の本質と実践-Iテサロニケ4・1-12 198
5 常に備えある生活-Iテサロニケ5・1-11 207
静岡英和女学院中学・高校における説教 219
1 復活の力を知る-ピリピ3・8-12 219
2 祈りの母-IIテモテ1・3-5 226
3 精霊の働き-使徒2・1-12 233
4 ヘレン・ケラーの想い出-ヨハネ9・1-3 237
4 追悼文集
1世紀にわたる旅路 大村勇 245
「存在の重み」ということ 大村勇 248
阿佐ケ谷教会と松本先生 加藤信子 250
松本先生について 川村菊枝 253
祈りによって 新居美代 255
父比屋根安定と松本先生 岩原さかえ 256
松本先生との40年 今石益之 258
パパちゃん帰る 小黒薫 264
親愛なる加藤夫人さま バーバラ・レイノルズ 267
40年にわたるわが友松本卓夫先生の思い出 メアリ・マクミラン 270
口語訳新約聖書改訳者としての松本卓夫先生 鈴木二郎 275
さようなら松本卓夫先生 鎌倉孝安 279
働き続けられる先生 宮川満夫 281
藤沢教会と松本先生 内須川信子 286
広島女学院での追悼思い出会より 1986年12月 288
1 広島女学院の復興と松本先生 広瀬ハマ子 288
2 松本先生と時子夫人 上野信子 293
3 松本先生と私 原田寿 296
4 松本先生と聖書 原田東岷 303
5 牛田教会の誕生と私 松原静江 305
エデンの園にて 島田愃平 307
十字の園の松本先生 綿鍋義典 307
松本兄上様 佐伯潔子 310
義父の愛 松本博子 311
父を語る 加藤裕子 312
松本卓夫略年譜 323
松本卓夫著作目録 333
あとがき

松本卓夫

 松本卓夫

まつもとたくお 19生
19861128没
原爆被爆時の広島女学院院長。1948年9月~50年1月、渡米。[50ヒロシマ・ピース・センター理事]。1964年に広島・長崎世界平和巡礼団団長として各国を歴訪。

 

参考資料 平和巡礼
文献 原爆体験と世界平和
(『その日の広島-キリスト者の原爆体験』所収)
『関西学院史紀要』第9号(2003年3月24日発行 A5版244頁)
[シリーズ・関西学院の人びと] 神田 健次5.松本卓夫6.谷本 清
年表

 

 

1947/8/– 米でも8月6日に「広島デー」。松本卓夫広島女学院長に友人の米人宗教家から連絡
1948/1/– 米教育界から広島女学院に留学の招請状。松本卓夫院長にも被爆状況の講演依頼 出 典(新聞掲載日など):
1950/1/8 1948年9月以来、渡米し平和講演などしていた広島女学院の松本卓夫院長が広島帰着 出 典(新聞掲載日など):
1964/1/17 広島・長崎世界平和巡礼団の広島関係メンバー決まる。松本卓夫元広島女学院長、志水清広島大原医研教授ら15人 出 典(新聞掲載日など):
1964/4/16 第2回広島・長崎世界平和巡礼団が広島出発。広島市平和記念館で結団壮行式。団員40人が2カ月をかけ欧米、ソ連など8カ国を回る。松本卓夫団長(元広島女学院長)が「原爆という共通の苦悩を背負っ
1964/7/4 1964/7/6 市民 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1964/7/6 広島・長崎世界平和巡礼団が広島市の平和記念館で市民への帰国報告集会。松本卓夫団長が「巡礼団は世界平和のためのタネまきだった。今後はその成長と収穫を繰り広げなければならないと痛切に感
1970/6/22 米市民に核兵器の廃絶と世界平和を訴える「広島・長崎平和使節団」(団長、松本卓夫広島ワールド・フレンドシップ・センター館長、6人)が羽田を出発 出 典(新聞掲載日など):06・23
1970/8/2 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)がミネソタ州セントポールの教会で原爆慰霊式 出 典(新聞掲載日など):08・3夕
1970/8/3 訪米中の広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長、6人)が国連で記者会見。松本団長「原爆の無差別殺害は正当化できない犯罪である」。会見に先立ち、リーゼン・ニューヨーク市長らと懇談 出 典(新聞
1970/8/22 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団(松本卓夫団長)の6人が帰国。6月22日に日本を出発し、米の50余りの都市を訪問 出 典(新聞掲載日など):08・22夕
1970/8/30 全米で核兵器の廃絶と世界平和を訴えた広島・長崎平和使節団が広島市の平和記念館で報告会。松本卓夫団長「今回の使節団は個別に行動し、小さな集会に主眼を置き平和を訴えた。25周年というこ
1971/7/17 1964年、広島・長崎平和巡礼団の一員としてトルーマン米大統領に会見した松本卓夫団長が、中国新聞のインタビューで「原爆投下を命じた責任者の口からは、通りいっぺんの返事しかなかった。

出典:その日の広島-キリスト者の原爆体験(新教出版社編集部編、新教出版社、1965年7月31日)
翌年の二月には、牛田山の校地にバラックの校舎と講堂とを建てて、はじめて学院自体の設備で授業を行ない、二年後には、上流川町の校庭に、やや校舎らしい建築をし、大講堂を加えた。市内の諸学校の中で、このように復興し得たのは広島女学院が最初であった。当時の文部大臣森戸辰男氏はわざわざ東京から来て、鄭重な祝辞を述べて下さった。
この建設が一応完成したころ、わたしの容体がまた悪化し出したので、米国メソジスト教会世界伝道局の招きにより渡米療養をすることになった。わたしは、被爆者にして渡米した最初の日本人であったため、かなり好奇の的になり入院中はモルモット扱いされて、いろいろの治療を実験的に試みられた。しかし、どうやら一カ月余にわたる治療のおかげで健康を回復しえたのであるが、その後一カ年半の長きにわたって、ほとんど米国全土を旅行し、諸教会、諸学校、またいろいろの文化団体の招きを受けて、原爆の経験を語り、平和を訴えて回った。
このような非人道的な戦争や手段を今後絶対に防止し、真の世界平和を実現しなくてはならないことを痛感し、平和運動を促進している人々や団体が数多くあることは、周知のとおりである。
とくに、広島および長崎の被爆者たちは、彼らの悲惨な体験から、ノー・モア・ヒロシマを訴える使命を痛感し、昨春、世界平和巡礼団を組織し、北米、カナダ、英国、フランス、東西ドイツ、およびソヴィエト・ロシアの諸国をニカ月半にわたって歴訪し、講演、座談、論議、合同研究を試みた。総勢四○名(通訳者として同伴した一二名の学生を含めて)であったが、抽象的な一般論でなくて痛切な被爆の体験に基づいて訴えたので、聴く人々に非常な感銘を与えた。また、社会の各層を代表する多種多様の者たちを網羅した巡礼団であったことも、特色があり有意義であったと思う。農家の主婦あり、保育院の保母あり、労組の主事、文筆家、新聞記者、学校長、教員、仏僧、医者、科学者といった顔ぶれであり、したがって諸外国のそれぞれのグルーブと懇談し意見の交換をする便宜を得た。
事実、この巡礼団の目的は、あわれなお涙ちょうだい式の泣きごとを述べ歩くことではなく、諸外国の人々と研究的に語りあい、どうしたら戦争を防止し平和を促進しうるかについて意見を交換することにあったのである。したがつて、われらの同志科学者は、しばしば、フランスやアメリカの知名な物理学者たちと個別的に対談したし、わたしはたびたぴキリスト教指導者たちとの会合に臨んだし、医者たちは先方の医師会の人々と医学的方面からの合同論議に参加するという方法をとった。もとより、大きな講演会を催して大衆に訴えることもした。ニューヨーク市力-ネギー・ホールに約三千人を集めての講演会、パリの公会堂における盛大な平和強調の会、モスクワのゴリキー記念公園内で数千の聴衆を迎えての大会など、その著しい例であった。知名の士との面接も有意義であった。米国元大統領トルーマン、カナダ外相バウル・マーティン、国連事務総長ウ・タント、ベルギー王バウドワンのかたがたとの面談は、単に儀礼的なものではなかったと思う。ワシントンの国会議事堂内で、上院下院議員がたとかなりつっこんだ論議を試みたが、これまた効果的であったと信じる。諸大学での率直な議論は痛快でもあった。巡礼旅行の全行程中で行なった会合は約五百回にのぼった。ラジオ、テレビなどには数十回もひっぱり出されたが、これらのマス・コミをとおして、わたしたちは数百万の人々に語りかけることができたと言えよう。

1942年 4月 松本卓夫が、院長兼専門学校長、高等女学部長として就任。
1943年 4月 高等女学部は高等女学校令による「広島女学院高等女学校」として、文部省によって認可を受け、松本院長が校長を兼ねた。
1945年 8月 6日午前8時15分、広島に原爆投下。生徒・教職員330余名の犠牲者を出し、校舎、施設のいっさいを失った。
1945年10月 牛田国民学校の一部を借用して授業を再開。
1946年 2月 牛田山の校地にバラック校舎を建築、授業を継続。
1947年 4月
新制中学校発足。高等女学校は中学校3年と高等学校3年に改編されることとなり、当時の高女1年生は、そのまま「広島女学院中学校1年生となった。
1947年 8月 上流川校地(現上職町)に仮校舎と講堂、寄宿舎を建てて、牛田の校地より復帰。
1948年 4月 新制高等学校発足(普通科科、英語科、家庭科)。
1948年 8月 高等学校木造校舎、東校地の西南側に建築。
1949年 4月 新制大学発足。牛田校地に大学英文学部英文学科開学。
1950年 4月 牛田校地に短期大学部家政科開学。