演奏と合唱(式次第)

平和式典の式次第

(5) 演奏と合唱

1947年(昭和22年)の第1回式典では、平和の塔の除幕と平和宣言の間で、FK(NHK広島放送局の略称)放送管弦楽団・同混声合唱団により「ひろしま平和の歌」が合唱され、式典の最後でも、市内男女中等学校生徒100余人により「ひろしま平和の歌」が合唱された。これ以後、演奏と合唱は、平和式典に欠かせないものとなっている。
合唱は、FK混声合唱団(1947年)、広島放送合唱団(49年と52年)、YMCA合唱団(51年)、市内の職場の合唱団(55年と56年)、市内の学校と職場の合唱団(57年と58年)、市内の学校の合唱団(59~61年)などさまざまな団体によってなされた。しかし、62年からは、広島少年合唱隊によって合唱がなされるようになり、68年からはこの合唱隊に、市内の大学、高校、職場、同好会、婦人などの合唱団が加わるようになった。合唱団の規模は、広島少年合唱隊のみの場合は100~200人であったが、その後、500~600人規模へと増加している。なお、91年の合唱団は、表4のような19団体所属の約500人によって構成されていた。
演奏は、当初、FK放送管弦楽団(47年)、NHK管弦楽団(48年)、広島吹奏楽団(49年)、広島フィルハーモニー(51年)、広島交響楽団(53年)、天理スクールバンド(55年)、広島放送管弦楽団(56年)など専門的な楽団によってなされていた。ところが、56年からは、地元のアマチュア楽団が演奏を担当するようになった。同年は、広島市職員組合ブラスバンドが担当し、翌57年からは市内の学校のブラスバンドが担当するようになった。当初のブラスバンドを構成したのは、国泰寺、段原、観音、江波、宇品などの中学校のものであり、68年からは、市立基町高校が加わった。91年の式典では、市立の中、高等学校4校(国泰寺中、宇品中、基町高、舟入高)の吹奏楽部が演奏している。なおこの間、皇太子明仁親王(現天皇)を来賓として迎えた60年の演奏は、広島県警本部のブラスバンドが、また、64年から67年にかけてはエレクトーンの演奏が採用された。
表5は、第1回式典で合唱された「ひろしま平和の歌」(重園贇雄作詩、山本秀作曲)の歌詞である。この歌は、これ以後現在に至るまで歌い継がれている。55年、56年、58年には、この歌とともに「原爆許すまじ」が合唱された。また、64年には、コロンビア専属の新人歌手扇ひろ子(本名=重松博美)が式典の最後に「原爆の子の像の歌」を独唱した。扇は、生後6か月で広島で被爆、建物疎開に動員中の父親を失っていた。「原爆20回忌には、おとうさんの眠る広島で歌いたい」という扇の熱意に、石本美由起と遠藤実が、この歌を無報酬で作詞、作曲、レコード会社もテスト版を作成しただけで市販せず、版権を広島市に寄贈することとした。これを受けた広島市は、平和式典を延長するという異例の措置で、この歌の独唱を取り入れた。
「ひろしま平和の歌」には慰霊の要素は無い。しかし、演奏では、慰霊の曲が採用された。曲目は、「霊祭歌」(55年)、「鎮魂曲」(56年と57年)、ショパン作曲「葬送曲」(58年と59年)、ベートーベン作曲「憂いの曲」(60年)、賛美歌「日暮れて四方は暗く」(61年)、「仏教賛歌」(62年と63年)、シューマン作曲「祈祷曲」(65年)と年々変えられていたが、68年からは、式の開始時に「慰霊の曲」(大築邦雄作曲)が、また、献花時に「礼拝の曲」(清水修作曲)が演奏されるようになった。その後、75年に献花時の演奏曲が川崎優作曲の「祈りの曲第一哀悼歌」に変更され、現在に至っている。