第1節 大学紛争と大学改革構想
「六〇年安保闘争」後下火になっていた学生運動は、昭和四〇年(一九六五)以降、米軍のベトナム参戦と日本国内における米軍基地問題、日韓条約の締結、米原子力潜水艦の横須賀・佐世保などへの寄港などの問題をめぐり、新たな高揚を示すようになった。また、これらの問題とともに学費値上げ反対や大学民主化といった大学独自の課題をめぐる動きも見られた。さらに、昭和四三年(一九六八)に入ると、東京大学・東京教育大学・東京外国語大学・日本大学・九州大学などで全学的規模の「大学紛争」が生じたが、これらは大学の歴史の中でかつてみられなかった新たな事態であった。
東京大学での紛争は、一月二九日に医学部の学生が登録医制度に反対する無期限ストに突入したことに端を発し、六月には学生による安田講堂占拠に発展、さらに、これに対する機動隊導入により一挙に全学にエスカレートした。日本大学では、四月に大学の多額の使途不明金が明らかになったことが契機となり、学園民主化闘争が始まった。五月、全学共闘会議が結成され、体育会右翼系学生や警察と対決する中で全共闘系学生はヘルメットと角材で「武装」し、各学部に強固なバリケードを構築してストに突入した。九月に入り機動隊が導入されたが、全共闘は再三にわたってバリケードを構築し、九月三〇日には五万人の学生を結集して総長との大衆団交(団体交渉)をおこなった。
昭和四三年になんらかの紛争が起きた大学は、全国で一一六校にのぼっている。この年の紛争の原因では、学生会館・学寮をめぐる問題が最も多かった。そのほかに学園民主化問題、統合移転問題、学生処分問題などがあげられるが、大学ごとに見れば、ほとんどは、複数の問題を抱えていた。大学で繰り返されるバリケードによる学園封鎖とそれに対する機動隊導入といった事態は、大学だけでなく、社会全体に大きな衝撃を与えた。
広島大学では、昭和四三年二月、いわゆる羽田闘争・佐世保闘争に参加して逮捕された学生に対し、育英会奨学金が停止されたことをめぐって、育英会に抗議せよと主張する学生による川村智治郎学長の缶詰事件が起こった。さらに、この事件に対する処分をめぐり教育学部長拘禁事件が起こり、七月には青医連問題をめぐって医学部で短期ストが行われた。しかし、この年は、全体として平静であった。
昭和四四年一月九日、教養部学友会の活動家学生を中心に、広島大学学園問題全学共闘会議(広大全共闘)が結成された。彼らは、結成と同時に、①新学生ホールの自主管理、②生活協同組合の設立、③大学会館の自主管理、④体育館の自主管理と西条大学村の建設、⑤学生準則の撤廃、⑥寮炊婦の公務員化、⑦東大入試中止にともなう振り分け増募粉砕、⑧全学自治会連合の公認、の「八項目要求」を掲げた。このうち⑦は、文部省が東京大学の紛争激化にともない昭和四四年の入学試験を中止し、その定員を他の大学に振り分ける方針を決めたことに対し広島大学がその方針に追随しているとして、かれらが重点的に取り上げたものであった。また、二月八日の教養部の学生大会では、「八項目要求」に①オリエンテーション・セミナーを学生の手に、②大講義室の使用反対、の二項目を加えた一〇項目要求についてスト権確立の採決が行われ、その結果一一六五対一〇四一でスト権が確立された。
評議会は、二月一二日と一九日に全共闘との「団交」に応じたが、これには、それぞれ二〇〇〇人を超す学生が参加するという関心の高まりが見られた。しかし、この間の一五日に川村学長が疲労により辞任、交渉も成果をあげることができないまま、二四日の一部学生による教養部新館封鎖、二八日の全共闘学生による大学本部封鎖・占拠という結果を招いた。その後、紛争は学部ごとに進行した。封鎖も逐次拡大し、東千田地区のほとんどの建物と霞地区の医学部の建物が封鎖されるにいたった。四月以降、ストライキ決議をした学部・学科はもちろん、スト決議がなされないまま封鎖された学部においても授業の実施は困難であった。さらに、三月三・四の両日に学外で実施された昭和四四年度入学試験による合格者を迎え入れることもできない状況であった。
昭和四月二四日の投票で選出された飯島宗一学長は、就任受諾後の記者会見で、①どんな学生とでも徹底的に話し合う、②大学紛争の根本問題は、社会の急激な変化と学問の進歩についてゆけない大学の体質にあり、学内改革を全教職員で積極的に進める、③その場合、一大学の問題ではないので、社会一般や政府・文部省にも国立大学の一員として働きかけ理解を求める、と抱負を述べた。これらの抱負は、五月七日の発令直後から具体化された。学長は、五月一二日および一五日に、学生の要求する団交に応じた。二回の団交は、封鎖戦術による「帝国主義大学解体」やバリケードの中での「闘う秩序の形成」といった全共闘の要求と、学長の「バリケード封鎖を一手段として提起された課題にこたえるための封鎖解除要求」という対立点を明確にした。全共闘は、これ以後学長との団交には消極的となった。一方、教養部教官会をはじめ各学部教授会は、学長の話し合い路線を受けて、五月から七月にかけ、しばしば学生側との話し合い(団交)の場を持ち、事態の打開を目指した。
政府は、中央教育審議会の答申を経て、五月二四日、「大学の運営に関する臨時措置法」(大学立法)を国会に上程した。この法案は、紛争校の学長や文部大臣に、紛争を収拾するための教育・研究機能の休止・停止権を与え、収拾が困難な時の廃学措置までも盛り込んだもので、五年間の時限立法であった。大学側や野党は、この法案に強く反対したが、実質審議もないまま八月三日に可決成立し、八月一七日から施行されることとなった。
文部省は、八月一六日、この法律に基づく適用対象校(国立三八校、公立七校、私立二一校、計六六校)を発表した。広島大学もこの中に含まれ、教養部・理学部・教育学部は紛争六か月以上、文学部・政経学部・医学部も紛争中とみなされた。これにより、広島大学長は、文部大臣に紛争状況を報告する義務を負うことになり、また、発生後九か月まで紛争が続いた場合、文部大臣により大学の「機能停止」措置が取り得ることとなった。
紛争によって生じた長期間にわたる授業の行えない状況は、大学や学生にとって切実な問題となってきた。教務委員会の検討により、冬期休業を全く実施しないとしても、八月一八日に授業が再開されないければ、大量の留年が発生するということが判明した。留年学生には奨学金の停止措置がなされるという問題もあった。全共闘の方針に反対し、バリケードの封鎖解除、大学の正常化を要求する動きが目立つようになった。
地元市民や父兄の間からも紛争収拾への要望が現れるようになった。七月七日、東千田町構内周辺の一〇町内会長が、営業上の不利・損失、日常生活を脅かす騒音・示威等をあげて、不当行為の禁止と一日も早い紛争解決への努力を学長に要請した。八月三日には、教養部父母の会が初めて開かれ、学長に一日も早い授業再開を要望した。
飯島学長は、五月の学生との団交以来一貫して封鎖解除を学生に要請していた。六月二〇日と七月一四日には、大学立法の動きや学内の状況を踏まえ、改めて文書で学生・教職員に封鎖解除と大学の改革への理解を訴えた。また、八月四日には、全共闘議長宛ての公開質問状を発表し、八月一八日以降において授業を再開する用意があるとの意志表示を行い、自主的な封鎖・占拠の解除を求めた。
学内では、封鎖支持派の学生による学生・教職員に対する暴力事件が発生していた。また、広島大学の封鎖は、強固なものであり、封鎖解除の断行にあたっては、教職員・学生の人的被害の発生が予想された。学内には、警察力の導入に対する批判もあったが、学長は、警察力に頼る道を決断した。
学長は、七月下旬に、封鎖解除のための出動要請を県警本部長におこなった。しかし、警察側の準備等の都合から、それは、八月一七日に決行されることになった。同日午前五時、学長の退去命令伝達と同時に、県警始まって以来と言われる一二〇〇名の機動隊等による封鎖解除が開始された。バリケードのブルドーザーによる排除、学生の火炎ビンなどによる応戦、ガス弾の発射と放水が繰り返され、解除が終了したには、翌一八日一一時一五分のことであった。この後もしばらく、学内デモ、再占拠・再封鎖の動きがみられたが、これを契機に、学内の正常化は進展した。九月一日から教養部と理学部が授業体制に入った。また、一〇月に医学部の研究室封鎖が自主解除された。
広島大学の改革の必要性は、紛争を契機に、学内の共通認識となった。中国放送調査部が封鎖解除の一週間後に広島市民二〇〇人(二〇歳以上の無作為抽出)と広島大学教官一〇〇人(回収は九四人)を対象に実施した世論調査によれば、広島大学の紛争の原因についての回答は表*のようなものであった。学生側に原因があるという意見が半数近くある一方で、紛争の原因は社会の矛盾や大学自体が持つ古い体質にあるとするものが多く、それは、市民の間より教官に多く見られた。また、教官のほとんど(九〇人)が「大学改革をやるべきだ」と回答していた。
表1 広島大学紛争の原因について
市民 | 教官 | ||
教職員の指導力不足と怠慢 | 24% | 22% | |
全共闘など一部の過激学生のハネアガリ | 46 | 47 | |
大学自体の古い体質・あり方 | 37 | 61 | |
日本の社会全体の矛盾のあらわれ | 41 | 68 | |
その他・わからない | 6 | 11 |
広島大学では、紛争が激化してまもない昭和四四年三月末に大学問題検討準備委員会が組織された。その意図は、単に紛争を解決するという視点からではなく、大学のかかえる問題を明らかにしようとしたものであった。この委員会は、四月三〇日に、大学紛争の根源を、「国際的緊張の持続と分極化、原子力戦争の危険、急激な技術革新に伴う高度産業社会ないし大衆社会化」といった国際的・社会的・文化的な変容に適応できない点にあるとし、諸問題の改革を検討するために大学改革委員会を設置することを求める答申をまとめた。飯島新学長は、就任直後の五月九日に広島大学改革委員会を設置した。さらに、同月二七日には広報委員会を設置し、紛争の状況や改革の動きなどの学内情勢を「学内通信」(昭和四四年六月二五日創刊)を通じて詳しく知らせる体制を整えた。
大学改革委員会は、紛争最中の五月下旬から、①広島大学の将来像、②当面する諸問題に関する改革、という二点の検討作業を開始した。その結果は、①の作業については「仮設(ヴィジョン)」という形で、また、②については建議シリーズとして公表された。結論を提示するのではなく、こうした形式がとられたのは、「運動としての改革」を目指していたからであった。
大学改革委員会が昭和四四年七月三一日に公表した「広島大学への提言(仮説0)」は、広島大学として初めて本格的に検討した大学の将来像であった。封鎖解除後の八月から九月にかけて部局ごとの説明会や討論会が行なわれ、一〇月には全教職員・学生を対象とした「『仮設0』に関する意見調査」が実施された。「仮設0」公表の二カ月後の九月二八日には、初めての建議(「当面の改革に関する建議-第一次」)が学長に提出された。この中で、当面の課題を詳しく検討し具体化するために、専門委員会を設置することが提案されていた。これを受け、既設のカリキュラム専門委員会(七月一五日設置)に加えて、「管理運営」・「大学院」・「財政問題」・「学生部改組」・「学内規則・処分制度」・「教育系」・「医歯学系」をそれぞれの検討課題とした専門委員会が一〇月から一一月にかけて設置された。また、各部局でも各種の改革委員会・検討委員会が設置され、「仮設0」などを踏まえながら改革案が作成された。
大学改革委員会は、昭和四五年九月に「研究・教育体制改革の基本構想(仮設Ⅰ-その1)」、「教育体制改革の構想(仮設Ⅰ-その2)」を公表した(なお、「研究体制改革の構想(仮設Ⅰ-その3)」は、翌四六年三月に公表)。このうち「仮説Ⅰ-その1」は、つぎのような目標や方針を盛り込んだものであった。
①広島大学を適正規模の総合大学として再編成する。医・歯・薬学系、教員養成過程系部局の分離、独立を考えることなく、相互扶助姉妹型の関係を持つ固有の位置づけを行う。
②旧大学廃止・新大学設置という方式によらず、現在の組織を基礎に漸進的に移行させる。
③広島市近郊にキャンパス用地を入手し、キャンパス統合移転と並行して、大学都市-都市大学の組み合わせによる大学を建設する。
④移行はまず教育組織の改革から着手し、ついでこれと相即する研究組織の改革へと進む。
⑤新キャンパスに作られる大学都市と現キャンパスの一部を用いる都市大学を結んで地域社会との協力を密接にし、市民社会への奉仕の機能を果たす大学を建設する。
⑥新キャンパス移転の際に厚生施設を抜本的に充実させ、大学を「生活の場」として再編する。
⑦中四国の近隣大学との交流を密にし、大学間の連帯を強化する。
⑧研究・教育体制整備の前提として、まず全分野に大学院博士過程を設置する。
⑨前項と同じ目的のために現行の教養部を中心に教養学部を設置する。
評議会は、あいついで作成・提出されたこれらの改革案や建議の具体化を検討するため、昭和四四年一一月一一日に将来計画特別委員会を設けていたが、翌四五年一二月一五日には、この委員会の下に、「一般教育・教養部問題」・「教員要請系問題」・「大学院・研究体制問題」・「キャンパス問題小委員会」を設置し、検討作業を行わせた。
改革案や建議は、具体化の可能なものから具体化が進められた。大学問題調査室の設置(昭和四五年二月)、開放講座の開設(四五年)、大学教育研究センターの設置(四七年五月)、総合コース開講数の増加といった一般教育の改革、学長や学生部長選考規程の改正(四八年)、教養部の総合科学部への改組(四九年)などは、それぞれ、紛争を契機に始まった大学改革の成果と言えるものであった。
第2節 いつ誰がどのように大学移転を決定したのか?
-統合移転構想の出現と西条移転の決定-
広島大学は、昭和二四年(一九四九)五月三一日、原爆被災によって壊滅的被害を被った広島の地に、明治期以後軍都として発展してきた歴史を反省し、国際平和を希求する新しい文化都市を建設したいという広島県民や大学関係者の熱い期待に支えられ、その核たるべき総合大学として誕生した。
これは、同日に公布された国立学校設置法(法律第一五〇号)に基づく措置であり、広島大学のほかに六八校の新制の国立大学が創設されている。新制国立大学の創設に当たっては、同一地域にある官立学校を合併して一大学とする方針が採られた。このため、全国的に創設当初の新制大学は、いわゆる「たこ足大学」となっているものが多かった。広島大学もその例外ではなかった。
広島大学は、広島文理科大学・広島高等学校・広島工業専門学校・広島高等師範学校・広島女子高等師範学校・広島師範学校・広島青年師範学校および広島市立工業専門学校の七校を包括・合併して創設されたものであり、大学の部局は、附属施設を除いても六市町村一一か所に分散していた。しかし、創設前の計画では、学部・分校の「分散的配置」は、「総合大学としての管理運営、およびその機能発揮になんら支障がないばかりでなく、かえって、文化の地方的普及の趣旨に合致するもの」(『国立総合大学設置計画書』昭和二三年)とされていた。
発足時の大学の組織は、本部と六学部(文学部・教育学部・政経学部・理学部・工学部・水畜産学部)、四分校(教育学部東雲分校・三原分校・安浦分校、教養部皆実分校)、一研究所(理論物理学研究所)、附属図書館の一三部局であった。その後、大学の整備・充実が、森戸辰男初代学長を中心に進められた。医学部(昭和二八年八月)・原爆放射能医学研究所(昭和三六年四月)・歯学部(昭和四〇年四月)が設置される一方で、教育学部安浦分校の同学部福山分校への改称(昭和二五年五月)、三原分校の廃止と東雲分校への統合(昭和三七年三月)などがおこなわれた。
キャンパスの統合は、当初からの主要な課題であった。発足時、広島市の東千田町キャンパスには、本部・文学部・理学部および教育学部(広島高等師範学校)附属学校が置かれていたが、昭和二八年八月からは教育学部が、三二年四月には政経学部が、さらに、三十六年三月には皆実分校(教養部)が教育学部附属学校と入れ替わることにより、同キャンパスに移転・統合された。また、呉市にあった医学部が、昭和三二年に広島市霞町に移転された。
広島県内五市四町一九地区への大学敷地の分散は、教育・研究の面のみならず、管理・運営上に、不利・不便を強いていた。中でも主要機能の集中が図られた東千田キャンパスには、狭隘さは、だれの目にも明かな状態であった。昭和四一年三月、理学部動物学教室のある講座の集まりで、「東千田町キャンパスの狭さが、理学部の発展にとって、物理的に一つの障害になっている」ことが嘆かれ、「大学の総合移転」の必要性が話題となったと伝えられている(西岡みどり「大学移転の一面」)。また、同じような事情にある他大学が移転統合を実現する中で、統合移転の問題が評議会の話題になったこともあり、昭和四三年度の概算要求の際、文部省側から移転統合について大学全体の統一見解を求められたといわれる。しかし、大学でこの問題が公式に取り組まれることはなかった。
広島大学の統合移転の問題を全学的な課題としてクローズアップさせたのは、大学紛争であった。紛争を契機に始まった改革論議では、当初からこの問題が取り上げられ、紛争の終息後には大学改革の重要な柱として位置づけられるようになった。
昭和四四年五月の「大学問題検討委員会準備委員会答申」は、キャンパス問題を取り上げ、キャンパスの統合と移転、分散する各キャンパスの活用方法についての検討を求めた。この答申を受けた大学改革委員会は、「仮設0」(四四年七月)において、「広島大学の将来を決定する最大の岐路は、われわれが総合大学として新たに脱皮するか、姉妹型の連合体となるか、分散してそれぞれ独立するかにかかっている」と問いかけ、委員会としては総合大学の道を志向するとし、さらに、「総合大学・姉妹型大学のいずれに向かうにしても、広大なキャンパスの入手には、早急に着手すべきである」と述べた。また、「当面の改革に関する建議-第一次」(昭和四四年九月)では、「総合キャンパス問題を含めた将来計画への着手」のための特別委員会設置を提案した。飯島学長自身も、昭和四五年四月に新入生向けに編集された「学生通信」の中で、「広島大学の未来像」について、「広島の郊外のひろびろとした、樹木と芝生の多いキャンパスに、ゆとりと機能性を備えて配置された大学の建物」を挙げ、そうした大学を作りつくる自らの願いを披瀝している。
昭和四四年一〇月に大学改革委員会が全構成員を対象として実施した「仮設0」に対する意見調査調査の結果が翌四五年一月に明らかにされた。学部・分校・教養部の改組再編のための方策として「キャンパス統合」・「研究条件の低下防止」・「学生数/教員数の比の減少」・「全教員の業績審査」・「研究・教育の適正分担」という五つの選択肢が設けられていたが、意見は分かれ、それぞれ二〇%前後という結果が出ている。「キャンパス統合」は、目前の改革課題としての比重は必ずしも高いものではなかった。また、学長や大学改革委員会・将来計画特別委員会により進められているキャンパス統合への模索について、学内では、さまざまな疑問や心配が生まれてきた。当時、政府の中に「筑波学園都市構想」が生まれていたが、広島大学もその例を倣うのではないかという声があった。また、広島大学改革の中で統合移転の持つ意味が問題となった。
大学改革委員会が昭和四五年九月に「仮設Ⅰ」をまとめるが、その中では、「仮設0」の公表からから一四か月の間に、学内に生まれたこうした疑問・心配に対する委員会としての見解が述べられた。「筑波学園都市構想」については、筑波新大学のように、東京教育大学の廃止による新大学の設置という方式は取らず、「漸進的な移行の方式」を提案した。また、大学改革と統合移転の関連については、つぎのような見解を表明した。
①分散したキャンパスの統合は、真に「総合」大学としての実質を備えた大学への研究・教育組織再編のための、必須の前提条件である。
②郊外への移転は、大学の「大衆化」などから生じた、いわゆる「人間疎外」の状況を克服するため、厚生施設を抜本的に充実し新しい「生活の場」としての大学を建設する前提条件である。
③統合移転は、都市大学と大学都市を結んで地域社会へ奉仕の機能を果たし、「地方大学」としての新しいあり方を追及する基礎条件である。
(大学改革委員会「仮設Ⅰ(その1・その2)の公表に当たって」)
キャンパス候補地については、将来計画特別委員会の専門委員会により昭和四四年七月ごろから資料収集が始められ、その作業は、昭和四五年一二月に改組されたキャンパス問題小委員会に引き継がれた。昭和四五年には候補地の視察も行われるようになっていた。小委員会は、広島市近郊を中心にキャンパス候補地を独自に取り上げて検討するとともに、広島県・広島市の関係者ともしばしば情報交換を行った。また、学長は、大学改革・整備拡充、キャンパス問題について文部省との意見交換を行い、広島県知事・広島市長・福山市長との懇談の機会を持った。この中で、学長が述べたキャンパスについての構想はつぎのようなものであった。
(一)新キャンパスはおよそ三〇〇平方米を予定し、さしあたり医・歯・薬・病院および附属学校などを除く大部分の部局が集中する。
(二)改革委員会仮設Ⅰに示されたキャンパス概念図では研究・教育・厚生空間一三〇平方米、運動場・農場など一〇〇万平方米、学生宿舎、職員宿舎用地七〇万平方米と見込まれ、なお、居住コロニーの構想がある。主キャンパスの建築および環境は従来の基準にとらわれることなく高度かつ新鮮なものを設計する。
(三)医・歯・薬は病院を中心にさしあたり現キャンパスにとどまり、メディカルセンターを形成する。
(四)広島市・福山市内のキャンパスの一部は保有し、夜間部の教育・開放講座その他地域市民のための大学センターを構想する。
学長は、昭和四六年五月一一日の評議会に「キャンパス問題に関する覚書(1)」を提出し、その中で、こうした経緯を明らかにするとともに、広島市近郊での土地開発の急速な進展や地価高騰などの事情から、「現実的な推進をはかるべき必要性」が生じたとして、各部局での検討を要請した。五月二五日の評議会は、各部局での検討結果を踏まえ、「適当な用地を確保・入手し、大学の自主的な改革がそこに実現するという方向でキャンパス問題に関し必要な外部に対する諸手続きをすすめる」ことを決定、六月二五日には、昭和四七年度新規概算の中に統合整備についての調査費を要求することとした。この予算要求は、昭和四七年度政府予算において、研究体制の整備、教養部及び一般教育の改革、教育系の研究・教育体制改革の諸問題と合わせて「広島大学改革総合調査費」として認められ、約三七〇万円が計上された。
一方、対外的手続き面では、一二月九日に、広島大学統合整備推進協議会が設立された。これは、キャンパス問題が、広島県・広島市の将来計画との関係など地域社会の発展に密接に関連するものであり、大学としてもあらゆる点で地域社会の協力を必要とするところから、地域社会の内部および地域社会と大学の連絡調整の場として、大学側から設定を求めていたものであった。設立総会は、広島商工会議所で開催され、会長に永野県知事、副会長に山田広島市長、顧問に県選出の国会議員が選出された。文部省・政府による「調査費」計上が、政府・文部省による「大学改革の一環としてのキャンパス移転」の容認とすれば、この委員会の設立は、それが、地域社会により受け入れられたことを意味するものであった。
キャンパス問題小委員会は、昭和四六年一二月に広島市周辺約三〇キロメートルの範囲内のキャンパス候補地に関する第一次的な基本調査を終了した。昭和四七年一月一八日の評議会は、キャンパス用地を全学的に調査検討するためこの小委員会を解消し、全部局から選出された委員と専門委員からなる「キャンパス用地調査委員会」を設置した。
キャンパス用地調査委員会は、昭和四七年六月、候補地を、キャンパス問題小委員会が選定した二四か所のうちから西条町・可部町・五日市町の三地区にしぼり、地形・地質・土質・給排水関係・農場用地関係などの調査を行い、九月に「広島大学キャンパス候補地の自然的条件に関する調査書」をまとめた。
一方、大学改革委員会(第四次)も、キャンパス移転問題が急速な決断を必要とする時期にさしかかっているとの判断から、これに対応するため、昭和四七年七月に、生活環境専門委員会と継続教育・生涯教育専門委員会を設置した。生活環境専門委員会は、教官のみでなく教職員組合や学生諸団体などの代表も加わった組織で、同月に教職員組合とともに候補地を視察した。また、八月三〇日には、部局長が候補地を視察している。
学長は、こうした学内におけるキャンパス問題についての検討作業の進展を踏まえ、昭和四七年九月一二日、キャンパス用地調査委員会の調査報告書に「キャンパス問題に関する覚書(2)」を付して、評議会に提出し、全学に公表し検討することを求めた。「覚書(2)」は、「覚書(1)」以後の学内外でのキャンパス問題をめぐる経過を述べ、①統合移転の確認をおこなう、②移転先の用地の選択については学内における意見の分布を明らかにする、③ただし最終的かつ形式的な用地の選定は学長に一任する、④移転および用地の学長への注文は充分つける、という今後の意志決定のあり方を提起したものであった。
「覚書(2)」の公表以後、大学のさまざまな組織が、統合移転の学内意志の統一に向けた試みを行った。広報委員会は、「学内通信」の九月二五日号をキャンパス問題の特集にあて、「覚書(2)」ととともに「統合移転に関する経緯」や「広島大学キャンパス候補地選定資料」などの参考資料を掲載した。また、学内に存在する移転に対する不安や疑問について学長へのインタビュー(一〇月三日、一六日)を行い「学内通信」に掲載(一〇月二〇日、一一月四日号)する一方で、統合移転についての意見募集を行い、一一月七日号を特集「統合移転問題について私はこう思う」に当てた。
キャンパス用地調査委員会は、一〇月には「広島大学キャンパス候補地の社会的条件に関する調査書」をまとめた。また、生活環境専門委員会は、一〇月には、新キャンパスに期待される生活環境に関する試案を「教職員・学生の生活環境について(中間報告)」として公表した。試案は、新キャンパスに対する委員の期待をそのまま集約した一種の「バラ色プラン」であった。例えば、その中には、都市部から離れていることから、文化レジャー施設を求め、三〇〇〇人収容の公会堂、劇場や野外音楽ホール、二〇〇〇席の大図書館、ショッピングセンター、ボウリングやコンパのためのレジャーセンターなどが盛り込まれていた。
一一月四日には、学長など大学当局者八人が、学生の意見を汲み上げるため、移転問題をめぐる学生との討論会(大学祭の一環として東千田町の大学会館で開催)に出席した。しかし、この会に参加した学生は一五〇人あまりであった。理学部院生協議会・生協事務局・「大学を考える研究者の会」などによる統合移転反対の意思表示がみられたが、学生や職員の間では、移転問題に対する関心に大きな盛り上がりは見られなかった。教職員組合が同月上旬に全組合員(一八八六人)を対象とした移転に関するアンケート調査(回答数一三四一人)の結果では、移転に関する論議が「十分行われた」と答えたのはわずかに五%、四九%が「十分でない」でないとの回答であった。
一方、各部局においては、「覚書(2)」から二か月余の間、統合移転についてのアンケート調査を含むさまざまな検討が行われた。その結果、つぎのような統合移転についての意見が明らかになった。
文学部 | 消極的賛成を含めると六二%の賛成、三八%の反対。 |
教育学部 | 条件つきで賛成が多数。 |
東雲分校 | 全員賛成。 |
福山分校 | 教職員ともに大多数が賛成。 |
政経学部 | 教授会では反対。事務職員は、賛否半々。 |
理学部 | 賛成多数。 |
医学部 | 統合に反対という意見はない。事務系は、生活問題に条件をつけて賛成意見が多数。 |
医学部付属病院 | 医師・技師・看護婦・事務職員各層ごとのアンケート調査の結果、条件つきを含めて各層、六〇~八〇%が賛成。 |
歯学部 | 賛成八五名、反対一四名、どちらとも言えぬ三名。 |
歯学部付属病院 | 教官は学部の調査に同調。事務系は三分の一が賛成、三分の二が大学の決定に従うという意見。 |
工学部 | 賛成三六名、反対二名。 |
水畜産学部 | 賛成八九名、反対二二名、その他七名。 |
教養部 | 条件つきを含めて賛成約七五%、反対一〇%。 |
理論物理学研究所 | 大部分が賛成。 |
原爆放射能医学研究所 | 大体賛成。 |
図書館 | 条件つきを含めて賛成。 |
大学教育研究センター | 条件つき賛成。 |
事務局・学生部 | 条件つきを含めて賛成六〇%、反対一三%、その他どちらともいえぬという意見。 |
(一一月二四日の臨時評議会での報告による)
部局の大半が統合移転を支持している中で、政経学部だけが反対の意志表示を行っているが、①社会科学部門の充実、②第二部は現状どおり存置して学部教職員を増員する、③管理運営は筑波型にしない(移転前に自主的改革案の完成)など五つの条件が満たされるなら敢えて反対はしない、としていた。
こうした作業を経て、評議会としての結論をまとまるため、一一月二四日に臨時評議会が開催された。評議会では、各部局での検討結果の報告後、つぎのような決定がなされた。
一、評議会は、統合移転の意志を決定する。
二、評議会は、各部局から提案された統合移転に当っての諸条件を確認し、記録にとどめる。
三、評議会は、用地の決定に関しては、学長に一任する。
四、評議会は、統合移転意志決定に当って別紙の事項を申合わせる。
決定第四項にある別紙の中では、「統合移転の目的」を「理想的な大学の創造」とし、つぎの点を最も重要な要件とすることが申合わされた。
イ、学問思想の自由、大学の自治をまもり、統合移転の遂行にあたって大学の自主性をつらぬくこと。
ロ、全学の合意にもとづく、大学の改革・整備・充実の実現をはかること。
ハ、教職員・学生の生活条件の改善・確保に特に力をつくすこと。
移転決定に至る論議の中で、教職員からさまざまな意見・疑問・心配が表明されていたが、決定事項第二項および申合わせの各項目は、それらに対する評議会としての回答とでも言えるものであった。なお、決定事項第二項については、一二月一二日の評議会で、各部局からの統合移転に関する条件を文章化したものが正式に受理され、確認された。
昭和四七年六月の評議会は、学内の委員会における調査が進行中であったことから、四八年度概算要求には、移転地購入予算は要求せず、再度調査費を要求することを決めた。ただし、文部省には、大学の意志決定がなされ、四八年度における財政措置が必要と見込まれた場合には、その実現を流動的かつ積極的に考慮してくれるよう申し入れていた。昭和四八年一月、統合移転のための用地購入経費として、文部省関係の財政投融資の枠の中から初年度分として一七億円(約五〇万坪=一六五万平方メートルの用地取得財源)が支出される見込みとなり、二月八日、学長は移転統合地を賀茂郡西条町御薗宇地区とすることを決定した。
第3節 なぜ移転先は西条(東広島市)になったか?
広島大学将来計画特別委員会の「キャンパス問題小委員会」は、昭和四六年一二月までにキャンパス用地の候補地として二四か所の資料を収集していた。マスコミでは、学長が昭和四六年一二月の広島大学統合整備推進協議会の設立総会の席上で、候補地を一五カ所と説明したことや、昭和四七年六月一三日の第二回協議会において、五~六カ所に絞ったと報告したことなどが報道された。また、西条町・可部町・五日市町・安芸町(安芸郡)・廿日市町(佐伯郡)などの誘致の動向が新聞紙上を賑わせた。しかし、こうした候補地に関する情報が、大学から学内に公表されることはなかった。それが初めてなされたのは、昭和四七年九月一二日に公表された学長の「キャンパス問題に関する覚書(2)」においてであった。学内には、統合移転の意志確認を行った上で用地調査に入るべきだとする意見があったが、学長は、この「覚書(2)」において、学内構成員に、統合移転の賛否を問うと同時に、キャンパス用地の候補地として西条地区・可部地区・五日市地区の三カ所を提示し選択を求めた。
キャンパス候補地の選択にあたっては、いくつかの条件が設けられていた。統合移転を求める理由の一つに現キャンパスの狭隘・過密があったことから、広大な敷地が確保できることが必要であった。具体的には、三三〇ヘクタール(一〇〇万坪)が要望された。キャンパス用地調査委員会の調査では、整地後の有効利用面積は、西条=約四〇〇ヘクタール)、可部=二七二ヘクタール、五日市=三五五ヘクタールであり、可部では敷地が確保されないことが判明した。候補地は、広島市近郊とされており、キャンパス問題小委員会は広島市周辺約三〇キロメートル圏内に候補地を求めた。広島大学本部からの距離から見れば、五日市(=八キロメートル)、可部(=二〇キロメートル)、西条(=二五キロメートル)と遠ざかっていた。
移転は、大学の意向だけでなし得ることではない。地域社会の受け入れ態勢も重要な条件であった。広島大学の誘致に一番早く乗りだしたのは西条地区であった。昭和四六月一九日に賀茂地区開発協議会として陳情書を提出されたのをはじめ、西条町(一一月二二日)・国立広島大学誘致西条町期成同盟会(四七年昭和四月一四日)・西条町・八本松町・高屋町(五月一二日)の名前でも提出されている。可部町では、昭和四五年末から広島大学誘致のために候補地の選定作業を始めていた。昭和四六年九月の町議会で「可部町広島大学誘致特別委員会」を設置し、一一月に陳情書を提出した。また、翌四七年三月には町長を中心に町の有識者一一人が「広島大学誘致世話人会」を結成した。佐伯郡五日市町でも、昭和四六年九月に県立高等学校と広島大学の誘致を含む「五日市町振興開発長期基本計画」を作成し、翌四七年二月に町長や町議会議長が広島大学に陳情を行った。
昭和四七年九月一二日に、学長の「覚書(2)」とともに公表されたキャンパス用地調査委員会の報告書には、三か所の候補地のついてのこうした基本情報が含まれていた。これらをもとに各部局での検討が行われている最中の一一月一九日、マスコミが、県の策定班がまとめた「学園都市の整備に関する報告書」の内容を一斉に報道した。広島県は、昭和四七年六月、企画部内に学園都市整備計画策定班を組織し、広島大学の移転先の検討を独自に初めていた。報道された報告書は、策定班が八月にまとめたもので、そこでは、「絶対的優位性を示す候補地はみられないけれども、次のような理由から、賀茂郡西条町御薗宇地区を中心に学園都市を建設することが適当と認められる」と結論づけられていた。
報告書によれば、広島県が考えた広島大学の移転先の立地条件はつぎのようなものであった。
a、広島広域都市圏の教育文化機能を分担するために、広島市の都心部からほぼ一時間圏内にあること。
b、現在の通勤・通学者の流れを逆にする上で役立つことが望まれるために、市街地外縁部に立地させるべきであること。
c、東京、大阪などの大都市、松山、松江などの中四国主要都市、および都市圏内の主要都市と、既存および計画中の交通施設によって結ばれること。
d、用地取得が容易で、造成費が安く、災害などの被害の少ない場所であること。
e、周囲の眺望がよく、大学のもつ潜在エネルギーが地域発展に活用される可能性をもつこと。
f、上・下水道などの施設が地域整備計画などと一体であること。
また、西条町を選んだ理由としては、つぎの点があげられている。
a、広島地区の補完的機能を有し、賀茂地区開発協議会の総合開発協議会の総合開発計画では研究学園都市の形成を意図している。
b、数百ヘクタールの用地確保が可能で、オープンスペースに恵まれている。
c、人口が増加しているので、公共投資により、スプロール化を防ぎ、計画的な都市づくりが可能である。
d、国鉄、国道、県道で周辺主要都市と結ばれているが、新たに建設される山陽自動車道、国鉄二号線バイパスにより、さらに交通が密になる。
広島大学では、まだ、候補地の決定を検討中のことであり、学内では反発も見られた。これに対し、一〇月に県からこの資料の提供を受けていた学長は、「県が広島移転について調査研究をしているのは前から知っていた」、「県・市などがそれぞれの立場でデータをつくり検討してくれることは大学としてもありがたい」と述べる一方で、「大学側としてはあくまで大学各層の最多意見をまとめて自主的に態度を決める基本線を守るだけだ」と語っている。
キャンパス候補地についての学内の意見の集約は、昭和四七年一一月二四日の臨時評議会において行われた。ここで明らかにされた部局ごとの意見は、つぎのようなものであった。
文学部 | 西条が最も多く、五日市・可部の順。 |
教育学部 | 五日市・西条を希望する意見が圧倒的に多かった。 |
東雲分校 | 西条・五日市が大多数、可部は少数。 |
福山分校 | 西条が大多数、五日市が少数。 |
理学部 | 五日市・西条はほぼ同数で可部はゼロ。 |
医学部付属病院 | 各層とも西条が多い。 |
歯学部 | 西条・五日市・可部の順。 |
歯学部付属病院 | 西条・五日市がやや多い。 |
工学部 | 用地は学長一任(組合のアンケートでは、西条・五日市・可部の順) |
水畜産学部 | 西条が圧倒的に多くついで五日市、可部は少数。 |
教養部 | 約半数が西条を希望し、ついで五日市、可部の順。 |
理論物理学研究所 | 西条が圧倒的多数。 |
原爆放射能医学研究所 | 学長一任。 |
図書館 | 西条が約半数、五日市と可部がほぼ同数づつ。 |
政経学部、医学部、大学教育研究センター、事務局・学生部は、意見を述べていないが、表明された限りでは、新キャンパスとして西条を求める意見が圧倒的に多く、可部は敬遠されていることが明らかになった。
教職員組合が一一月上旬に実施した調査結果も、西条(二四%)、五日市(一七%)、可部(一〇%)の順であり、同様の傾向を示してした。
昭和四八年二月八日、学長は統合移転用地を西条町と決定したが、その理由はつぎのように述べられている。
西条町を選択したのは、学内における意見分布を基本として、自然的・社会的条件ならびに地域社会の受入れ態勢を勘案した結果であり、なかんずく評議会決定にあたって各部局から提案された諸条件の主要なものを実現しうる見通しに重点をおいて考慮しました。西条とともに学内で多くの関心が寄せられた五日市地区についても積極的に検討しましたが、いわゆる虫食い状況の急激な進行、諸種の事情による地価の高騰、広島市との合併計画の遅延などの諸理由から用地取得の確信がえられず、また可部地区からはかさねて招致の要望がありましたが、これも具体的諸条件の打開に見通しを確保しうるに至りませんでした。(飯島宗一「統合移転用地の決定にあたって」)