ピカ資料研究所(ピカ研)田原幻吉(所長)
関係年表(出典:原爆被災資料広島研究会『原爆被災資料総目録』第4集)
1967.10.02 | ピカ資料研究所(ピカ研)が「原爆資料の調査・研究」について提言。全井利博賛同して、「ピカ研を母体」で合意、以後具体化をめぐって七回会談。 |
1968.01.16 | 結成準備会五回開く。出席、今堀誠二、金井、山崎与三郎、ピカ研。 |
1968.02.15 | 『原爆被災資科広島研究会』発足。 |
1968.07.30 | 役員会 人事、企画、運営方針を決定。 |
1968.12.06 | 金井利博事務所開設。所内に原災研「編集部室」設置。(1970.3.28閉所) |
1969.08.06 | 原爆被災資料総目録第一集を発刊。 |
1970.03.04 | ピカ研 原災研「編集部室」を長崎に移設。 |
1970.08.06 | 総目録第二集を発刊。 |
1970.11.24 | 編集部会文沢隆一、ピカ研が第三集専任。 |
1972.10.25 | 総目録第三集を発刊。 |
1974.06.16 | 金井利博死去。 |
1975.04.30 | ピカ研・長崎「第一~三集」の作成による累積債務で一時閉鎖。 |
1977.12.17 | 役員会 企画、運営をめぐり討議。分裂決定。 |
1980.08.25 | 編集部会 編集企画会議。 |
1982.07.23 | ピカ研・長崎書庫冠水害 |
続刊=第五集以降企画編集進行占領下の文献解説・占領下の新聞・著作選集録・原爆史詳細年表・写真、映像・長崎の手記・広島の手記・教育児童文学・社会科学評論…(順不同) |
関係年表(宇吹メモ・資料・報道)
年月日 | 事項 |
197107 | 「平岡敬(中国新聞社)に会い,「ヒロシマの記録」取材当時ののことを聞く.参考になったもの-今堀・浅野・県立・田原伯・金井」(宇吹メモ) |
19710818 | 「金井利博(中国)より教示.田原伯のことを聞く」(宇吹メモ) |
19720107 | 田原伯、長崎より帰り来室。(宇吹メモ) |
197302 | 宇吹暁(広島県史編さん室)宛田原幻吉(ピカ資料研究所 長崎市万才町** **ビル)葉書「ピカ資料研究所を一時閉鎖」 |
19770316 | 田原伯来所。文献の売却について。(宇吹メモ) |
19770620 | 田原伯来所。内田と3人で8時半まで話す。(宇吹メモ) |
19770803 | 田原伯と平和文化センタ-で会う。「地域と被爆者」の原稿について抗議を受ける。(宇吹メモ) |
19770710 | 現代と広島の会発足準備の話合い。於朝日会館屋上。木村、石踊、今田夫妻、田原、安藤、藤原、宇吹。(宇吹メモ) |
19780710 | 田原幻吉(ピカ資料研究所代表)を囲む会「現代と広島の会」、発足。 |
19830715 | 『資料’82反核』(「ひろしまをよむ」会編・渓水社発行) |
19840616 | 原爆被災資料総目録第4集、刊行。紹介記事 |
19860630 | ヒロシマの「史点」 占領下の原爆文献考<『中国新聞』19860630~0812、30回連載、担当:冨沢佐一郎記者)。「メモ(抜粋)この企画は、30年間にわたって原爆文献を収集、調査してきた「 ピカ資料研究所」( 田原幻吉(ピカ資料研究所代表))の資料を中心に構成した」> |
19860710 | ピカ資料研究所の提言で「碑の会」スタート。 |
ピカから15706日 | 『資料・広島平和記念公園』(ピカ資料研究所編集委員会編、ピカ資料研究所刊、19880926<宇吹宛て「ピカ研・幻吉」書留の日付>) |
19890805 | 『資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑』(企画:ピカ資料研究所、編集:「全国在日朝鮮人教育研究協議会・広島」有志(加藤陽祐・多賀俊介・豊永恵一郎)、「ピカ資料研究所」(田原幻吉・中川幹朗)刊行:「碑の会」(全朝教有志・ピカ研)) |
19891103 | 宇吹宛て祝電(発信:ピカ研内せせらぎ、りょう) |
19920725 | 『ヒロシマはどう伝えられたか―ジャーナリストと教師が追いかけた45年目の「原爆」』(90原爆の会編、日本評論社発行) |
19930414 | 田原幻吉(ピカ資料研究所代表=竹原市)「文化 GHQに日本訳規制されたJ・ハーシー著『ヒロシマ』 原爆報道一切禁止は「神話」」(『中国新聞』19930414) |