『ふるさとよしうら 18号』(吉浦郷土史研究会、19820430)
近況報告(1982年)
私ごとですが、学生時代には日本中世史を専攻し、若狭国太良庄(東寺の庄園)の農民の生活を卒業論文にまとめました。このことにより、私は、千年余り前の文書に浸る楽しみを垣間みることができました。広島県史編さん室勤務(一九七〇年四月~七六年四月)中には、広島県内を資料を求めて歩き回り、アカデミズムの中には無かった「生きた歴史」に触れる機会にめぐまれました。そして、いま、広島大学原爆放射能医学研究所での六年
間が過ぎようとしています。
歴史学を職業とできる人間は、そう多く存在するわけではありません。なかでも現代史・戦後史ということになると、なおさら限られてきます。原爆問題という限定付ではあっても、歴史を研究できる立場を最大限活用しなくては、と原医研に就職以来、常に自分自身にいいきかせてきました。
一昨年九月から昨年二月にかけての十ヵ月間は、一橋大学への内地留学の機会に恵まれました。その間、大学で現代史の方法論について研讃するかたわら、国立国会図書館に通って、原爆問題に関する資料収集に努めました。収集した資料のコピーは、一万六千枚を超えます。
帰広以来一年近く経った今日も、まだ整理がついていませんが、収集作業中に気付いたことの一つは、日本政府や国会が、戦後一貫して原爆被害を国レベルの被害として取り上げていることです。たとえば、広島市が一九四七年(昭和二二)以降開催している八月六日の平和式典には、総理大臣が、メッセージを寄せるとか、代理を派遣するとか、また本人自ら出席するとか、何らかの形で、すべて関与しています。また、「被爆国」という表現は、原爆被害を、個人レベル、一地方レベルの被害としてではなく、国レベルの被害としてとらえた表現ですが、これも国会議事録には被爆直後から見ることができます。
これらの事実は、原爆被害が戦後の社会にもつ意味の大きさを示すものですが、具体的にどのような意味を持ってきたのか、原爆被害者にとってどうなのか、広島市や県の政治にとっては、日本政府の外交政策にとってはなどなど、多くの問題が解明される必要があります。
一方、原爆被害は、単に過去の問題ということにとどまりません。原爆は、三十七年後の被爆者の身体にどう影響しているのか、被爆者に対する国の施策は、いまのままでよいのか、三月二十一日に全国から二十万人近い人々が集って開かれた集会は、ヨーロッパの反核運動とどのような関連があるのか、など、さまざまな疑問が起ってきます。
何をどのように手をつけて良いのかわからず、試行錯誤の積み重ねですが、これも、「現代史」が抱える課題と割り切って、一つ一つ解決してゆくつもりです。