【資料】原爆第1号吉川清の試み
『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。
『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。