私のヒジヤマメイト

私のヒジヤマメイト

私は、この9年間、雨の降っていない限り毎日、昼休みに比治山を散策している。比治山は、本学の霞キャンパスに勤務・在学した人には、桜や紅葉名所として馴染みが深いはずである。一度も登ったことのない人は、おそらくいないのではなかろうか。しかし、私のように日常的に歩き、その魅力を満喫しているものは数少ないのではないか、と秘かに自負している。

比治山は、二つの丘が南北に連なっており、それぞれの丘に登るいくつかの小道が用意されている。当初、さまざまな道を登ってみたが、まもなく定着したのは、南東の急勾配の坂から南の丘に登り、東側の道から北側の丘の西側、東側、南の丘の西側という「8」の字のコースである。これで、所要時間は約40分、歩数は「5000歩弱」。これだけ昼休みに歩いていれば、大抵の人は「1日1万歩」が達成できる。

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「最新大広島市街地図」(広文館、昭和8年1月15日発行)より

歩き始めた直後に、現代美術館が北側の丘の頂に完成(1989年)、今年(97年)には、その北側にあった青空図書館がまんが図書館に生まれ変わった。春秋には、これらの利用者や、遠足・修学旅行生などで、比治山は賑わいをしめす。また、日々、放射線影響研究所(旧ABCC)や丘周辺に所在する企業の関係者のマラソン姿に出会う。その一方で、真夏や雪降りの日には、人影を見ることはまれである。

この丘には多くの動物が棲んでいる。道ばたの蛇に驚いて飛び上がったことがあった。深い斜面の下にたぬきを確認したこともあった。小鳥たちは、毎日目にすることができる。職場の野鳥の会の会員に同行してもらったことがあったが、その時、しじゅうから・めじろ・ひよどり・やまがら・つぐみ・しろはら・えながなどがいることを知った。また、桜以外にも多くの木々・草花が花を咲かせ、実を付けている。名前は何回聞いても忘れてしまうが、それぞれの区別は付くようになった。

HJFYR01 さくら
HJFYR02  ふじ
HJFYR03 にせあかしあ

この9年間は、丘の東側に位置する段原地域が、再開発により急激に変貌した時期であった。歩き始めた当初は、丘の陰に隠れて原爆に耐えることのできた段原の街並みがまだ残っていた。これらが壊され新しい街に生まれ変わる様子を、毎日丘の上から眺めてきた。また、週に1回は、北の丘から段原に降りるコースを取り、この変貌を近くから観察した。西側の眺望からは、NTTクレド基町ビル(1994年竣工)など市街地の高層ビルの建設や己斐の山の造成の過程を知ることができた。

デスクワークが中心の人間にとって、昼休みに身体を動かすことは、健康維持のために大いに役立つはずである。そう信じてきた私は、就職以来、昼休みに、エスキーテニスや卓球を楽しんできた。しかし、これらは、最高で数ヶ月続いたことはあったものの、年間を通じての習慣となることはなかった。

私の比治山散策の直接の契機は、A君の糖尿病による入院であった。彼は、私の小学校時代からの友人である。霞キャンパスから数キロほどの地域に住んでいる彼は、それまでにもしばしば、私の職場を訪ねてくれていた。しかし、退院後、彼は、昼になると必ず私を訪ねるようになった。それは、医師から「毎日1万歩」を厳命された彼に、私が、昼休みに一緒に比治山を歩くことを提案したからであった。

入院中、糖尿病により失明の可能性があることを知ったA君は、真剣に医師の指示を守ろうとしていた。雨や雪模様の日もやってきた。止むのを待って歩こうとしたのである。一方の私は、軽い気持ちで言ったつもりはないが、毎日歩くことにそれほど執着してはいなかった。テニスや卓球をしたいと思うこともあった。仕事が途中で途切れることを嫌い、彼だけに歩いて貰ったこともあった。また、彼が仕事の関係で来ることのできない時に、私が一人で歩くことはなかった。

まもなく、この散策が私にとっても欠かすことのできないものとなった。私は、若い頃から血圧が高めであり、20年ほど前から健康診断のたびごとに高血圧の判定が下されていた。それが高じ、数年前には心筋梗塞の疑いが指摘された。薬を飲め、というのが医師の忠告であった。しかし、私は、A君のように医師の指示に忠実にはなれず、勝手に、激しい運動は避け、適度の運動を行うことで乗り切ることを心に決めた。こうして、以前には体力増進に役立つとは思えなかった散策が、私の健康にちょうど良い運動となったのである。それからは、昼休みにかかる来客があれば、A君一人で歩いてもらうのではなく、来客を誘って一緒に歩くようになった。

広島で社会科学の専門書を扱える数少ない古書店主であるA君は、散策を始める前から、私の研究上の良き協力者であった。しかし、散策を始めてからは、この関係はより深いものとなった。彼は、私が欲しい本を話せば、大抵の場合は数日中に、また、稀少なものでも数ヶ月中には入手してくれた。彼は、単に私が依頼した本を探してくれるだけではない。被爆40周年を契機に原爆手記に関心を持った私は、つぎつぎに出版される手記の確認とその収集・分析をおこなってきた。その結果、被爆直後から50周年までに3500冊余の原爆手記が出版されたことを確認することができた。このうちの彼が確認し、入手してくれた本は、100冊を下らないはずである。

二人の散策が始まった当初、私の中には、「私の言い出したことであるから断ることはできない」という気持があったように思う。しかし、今では、比治山散策は、私の健康維持と研究のために欠くことのできないものである。それを支えてくれているA君に感謝するとともに、これからもヒジヤマメイト(職場の若い女性が付けてくれた愛称)としての関係が続くことを願っている。