国際連合訪問の経緯(1975~76年 )
出典:『国連訪問レポート-1976 ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請 』(広島市・長崎市編 ・刊、19770331 ) |
概要 昭和50年、ちょうど原爆投下後30年目の記念にあたり、広島と長崎両市は、姉妹都市の提携を結び、しっかり手を組んで核兵器のもたらす悲劇を進んで世界に知らせることを誓い合った。 その第一歩として昭和51年度に、まず現存する国際機構のもっとも確立されている国際連合に、核兵器の廃絶と全面軍縮を訴えることを決意した。 両市とも広く市民の賛同を得、市議会の賛同を得て、国連事務総長に会う準備を始めたが、この事業を進めるに当って考えなくてはならないことは、国連という場へ地方自治体が臨めるかどうかという点であった。 もともと国際連合は、世界146力国が加盟している組織で、日本もその加盟組織の一単位に過ぎない。各都市は、国連に対しては直接的には関係がない存在である。 そこで両市は、まず外務省の国連局を通じて手続きを始めるのが順序となる。そのためには十分な根まわしが必要で、外務省の指導と自治省の了解を求める必要があった。 つぎに国連側の事務局との連絡は、東京の出先機関として東京に駐在している国際連合広報センターと折衝した。 幸いなことに国連事務次長で、事務総長の下で広報活動をする部の長である赤谷源一氏(外務省から出向している大使級で、国連広報センターの直接上司)が、たまたま、神戸に帰国した機会をとらえて、ワルトハイム事務総長との連絡を依頼した。 赤谷氏の好意的な尽力により、事務総長との会見日が12月1日と決定されたのは8月23日であった。 この段階で、訪問の今一つの大きな内容である主要国代表部の大使との会見、すなわち核保有国、核保有の可能性のある国および核反対を表明している国の大使こ直接訴えることが考えられた。そこで、会見の希望を伝える書簡を14カ国に送った。また、現地での日時設定は、ニューヨークの日本政府国連代表部に依頼した。 |
1975(昭和50年)8月1日
国際連合に対するアピールについて審議 荒木市長は昭和50年度第2回平和文化推進審議会(広島市平和文化センター所管)で「平和宣言の精神を基調として具体的行動を考えたい。それにはまずヒロシマを世界に広めるため、国連にアピールすることを思っている が、これについて各委員の意見を伺いたい。」と発言した。 同審議会は小委員会を設置して検討を始めることとなった。 小委員会の委員はつぎの通りである。 今堀誠二(広島大学総合科学部長) 岡崎怒一(弁護士)[岡咲恕一] 小谷鶴次(広島大学教授) 坂田修一(元広島市助役) 原田東岷(原田外科病院院長) 丸山益輝(広臭大学教授) 森脇幸次(中国地方経済連合会専務理事) |
1975(昭和50年)9月2日
平和文化推進審議会小委員会の各委員に対し、ヒロシマ・アピールに関する意見書の提出を依頼した。 各委員の意見の要点はつぎのとおりである<以下未入力> |
1975(昭和50年)9月9日
平和文化推進審議会小委員会の開催 協議要旨は、つぎのとおりである。 <以下未入力> |
1975(昭和50年)10月31日
<未入力> |
1976(昭和51年)2月4日
<未入力> |
1976(昭和51年)2月19日
<未入力> |
1976(昭和51年)2月27日
1976(昭和51年)3月8日
1976(昭和51年)3月17日
1976(昭和51年)3月30日
1976(昭和51年)4月1日
広島市平和文化センター局、財団法人広島平和文化センターとして発足する。 |
1976(昭和51年)4月16日
1976(昭和51年)4月26日
1976(昭和51年)4月28日
1976(昭和51年)5月8日
1976(昭和51年)5月10日
1976(昭和51年)5月11日
1976(昭和51年)5月12日
国連訪問支持決議<内容未入力>
広島憩いの家原爆被災者の会一同(代表 田辺耕一郎) |
1976(昭和51年)5月10日
1976(昭和51年)5月13日
1976(昭和51年)5月15日
1976(昭和51年)5月21日
1976(昭和51年)5月27日
1976(昭和51年)5月29日
1976(昭和51年)5月31日
国連訪問支持決議<内容未入力>
広島県原爆被害者団体協議会 理事長 森滝市郎 |
1976(昭和51年)6月1日
1976(昭和51年)6月9日
1976(昭和51年)6月14日
1976(昭和51年)6月16日
1976(昭和51年)6月17日
1976(昭和51年)6月24日
国連訪問支持決議<内容未入力>
明るい釈迦づくり広島県民大会 宮沢弘 |
1976(昭和51年)6月25日
第5回6月定例長崎市議会において、ナガサキーヒロシマ国連アピール準備委員会に対する負担金220万円を予算計上する。 |
1976(昭和51年)6月26日
林田国際文化会館館長 広島市へ出張する。 (広島市側国連アピール資料編集専門委員会委員選定の件、広島市長国連訪問支持決議の件) |
1976(昭和51年)6月29日
佐野外務省事務次官、同政治課長らに国連訪問の主旨および折衝経過等を説明し、協力を要請する。(荒木市長、諸谷市長、広島・長崎両東京事務所長ほか) |
1976(昭和51年)6月30日
第1回国連アピール市民懇談会の開催(世話人=岡咲恕一、小谷鶴次、原田東岷、広瀬ハマコ、丸山益輝、森脇幸次の在広各氏) 市長への要望事項 1、核兵器と戦争廃絶のために世論の流れを変える努力をして来てほしい。 2、核兵器を過少評価する動きがある。広島の生の声をぶっつけて来てほしい。 3、在米市民運動団体にも働きかけてほしい。 |
1976(昭和51年)7月1日
長崎市国連アピール資料編集専門委員会委員を選任する。 |
1976(昭和51年)7月3日
国連アピール資料編集専門委員会初会合協議内容 アピール内容は、事務総長へ要請する事項と被害資料とする。被害資料は物理的破壊、身体的障害、社会的破壊および今後の課題の4部とし、すべて歴史的事実に基づいて執筆することを申し合わせた。 構成メンバーは、つぎのとおりである。 顧問 飯島宗一 広島大学学長 貝島兼三郎 長崎大学学長委員長 今堀誠二 広島大学総合科学部長 〔広島側〕 副委員長 原田東岷 原田外科病院々長 委員 石田定 広島原爆病院内科部長 岡本直正 広島大学原爆放射能医学研究所長 庄野直美 広島女学院大学教授 湯崎稔 広島大学原爆放射能医学研究所助教授 〔長崎側〕 副委員長 秋月辰一郎 聖フランシスコ病院医長 委員 市丸道人 長崎大学医学部教授 岡島俊三 長崎大学医学部教授 島内八郎 長崎原爆資料協議会副会長 西森一正 長崎大学医学部教授 宮城重信 長崎原子爆弾被爆者対策協議会医療部会長 国連訪問医師 大内五良広島県医師会長 |
参考資料:『ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請』(広島市・長崎市 1976年10月)』 |
<上記の抄録> 専門委員会は,今年7月上旬に発足以来,今回の問題に関心ある諸方面と連絡をとりながら、熱心な討議を重ね短期日の間にこの要請書並びに資料編を作成し。国連事務総長への要請項目の起草は、当初から,広島・長崎の被爆者を中心とする市民とくに被爆者団体と平和運動団体の代表者の意見を受けてまとめられた。またこれには財団法人・ 広島平和文化センター」の理事会の意見も反映されている。 特にその資科編『原爆被害の実態-広島・長崎』の作成にあたっては、「原爆による物理的破壊」および「原爆による身体的障害に閔する原案を、庄野直美氏が石田田定氏の協力で起草し、また、「原爆による社会的破壊」の原案は湯崎稔氏が起草し宇吹暁氏(広島大学助手)の協力を得た。これらの原案に基づき.専門委員全体で検討を加えて資料編が完成された。 この要請書並びに責料編の英文翻訳にあたっては、「財団法人・放射線影響研究所(旧ABCC)の協力を得た。 |
1976(昭和51年)8月24日(宇吹メモ) |
1976(昭和51年)7月5日
国連訪問支持決議<内容未入力>
日本原水爆被害者団体協議会 代表委員 行宗一 |
1976(昭和51年)7月13日
1976(昭和51年)7月19日
1976(昭和51年)7月16日
1976(昭和51年)7月22日
1976(昭和51年)8月2日
外務省政治課長と打ち合せる。(広島市東京事務所長) 国連広報センターと打ち合せる。(同) |
1976(昭和51年)8月3日
広島市側国連アピール資料編集専門委員会第一回会合の資料の送付を受け、長崎市国連アピール資料編集専門委員に配布する |
1976(昭和51年)8月6日
広島三十一年目の「原爆記念日」 参拝した三木内閣総理大臣に対し、「国際連合訪問に関する要望書」を提出(荒木市長) 提出した要望書の全内容 人類史上初の被爆体験をした広島市民は、この凄惨な体験をみつめながら、ひとたび核戦争がはじまれば人類の滅亡と文明の終えんは明らかであることを予見し、一切の悲しみと憎しみを越えて、ヒロシマを再び繰り返さないよう、全世界に訴え続けてきました。 しかしながら、世界における核軍備の情勢は、全人類をせん滅して余りある巨大な量の核兵器が蓄積されつつあり、人類の安全にとって危険な兆候にあります。 広島市民は、こうした危険な事態を憂慮し、このうえは国際連合に対し、核兵器の廃絶を訴えなければならないとする機運が盛りあがってまいりました。 もちろん、国際連合および政府における核軍縮へのご努力は、広島市民としてまことに喜ばしいことではありますが、この際、ヒロシマーナガサキの立場において、国際連合総会が議決した核兵器の使用禁止・核拡散防止・核実験停止に関する諸決議の目ざす核兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう要請いたしたく、広島市民の総意と支持のもとに、長崎市長と共に、今秋国際連合に赴くことを決意した次第であります。 国際連合訪問計画および要請事項等については、現在、外務省当局のご指導を得ながら進めておりますが、政府におかれても、非核三原則の国是に立脚され、別添の要望事項について絶大なご指導とご協力を賜わりたく、お願い申しあげます。 昭和五十一年八月六日 広島市長 荒木武 内閣総理大臣 三木武夫殿 (別紙)国際連合訪問に関する要望事項(未入力) |
1976(昭和51年)8月9日
長崎三十一回目の「原爆記念日」 参拝した三木総理大臣に対し、広島市長が提出したように「国際連合訪問に関する要望書」を提出する。(諸谷市長) 内容は広島市とほぼ同一のため省略 |
1976(昭和51年)8月10日
1976(昭和51年)8月11日
1976(昭和51年)8月13日
1976(昭和51年)8月16日
1976(昭和51年)8月18日
1976(昭和51年)8月21日
1976(昭和51年)8月23日
1976(昭和51年)8月24日
1976(昭和51年)8月26日
1976(昭和51年)8月27日
1976(昭和51年)8月31日
1976(昭和51年)9月3日
1976(昭和51年)9月4日
1976(昭和51年)9月6日
1976(昭和51年)9月8日
1976(昭和51年)9月10日
1976(昭和51年)9月13日
1976(昭和51年)9月14日
1976(昭和51年)9月15日
1976(昭和51年)9月16日
国連訪問支持決議<内容未入力>
日本ペンクラブ会長 石川達三 |
1976(昭和51年)9月18日
1976(昭和51年)9月24日
1976(昭和51年)9月27日
1976(昭和51年)9月29日
1976(昭和51年)9月30日
1976(昭和51年)10月1日
1976(昭和51年)10月2日
1976(昭和51年)10月4日
1976(昭和51年)10月5日
1976(昭和51年)10月7日
1976(昭和51年)10月15日
国連訪問支持決議<内容未入力>
財団法人広島市連合母子会長 栗栖ミツヨ、財団法人安佐連合未亡人会長 西山春子 |
1976(昭和51年)10月24日
国連訪問支持決議<内容未入力>
第25回広島市民生委員・児童委員大会会長 宮本福松 |
1976(昭和51年)10月25日
国連訪問支持決議<内容未入力>
広島市地域婦人団体連絡協議会会長 藤野考子 |
1976(昭和51年)10月30日
1976(昭和51年)11月1日
国連訪問支持決議<内容未入力>
日本自動車産業労働組合連合会日産プリンス販売労働組合(中国・四国地区長沖実) |
1976(昭和51年)11月4日
1976(昭和51年)11月5日
1976(昭和51年)11月8日
1976(昭和51年)11月9日
1976(昭和51年)11月10日
1976(昭和51年)11月13日
国連訪問支持決議<内容未入力>
(長崎)世界平和祈念旬間行事実行委員会 |
1976(昭和51年)11月14日
1976(昭和51年)11月15日
1976(昭和51年)11月17日
国連訪問支持決議<内容未入力>
広島ユネスコ協会総会 |
1976(昭和51年)11月19日
広島市渉外課長先発する。 同日 外務省および国連広報センターに渡米あいさつ回りをする。(広島市渉外課長) 同日 外人記者クラブに英文資料を提供する。(同) |
1976(昭和51年)11月23日
荒木市長、大内県医師会長は渡米報告のため慰霊碑に参拝。同日夕刻、荒木市長広島を新幹線で出発。出発に先立ち、広島駅で壮行会を開催する。 511123(昭和51年11月23日) 諸谷市長一行は、杉本長崎原爆遺族会長、宮城原対協医療部会長、江角原爆老人ホーム理事長ら関係者多数の見送りと激励を受けこれに対し市長は「核廃絶の声が、国際世論となるよう全力を挙げて来たい」と決意をひ歴し、出発する。 |
1976(昭和51年)11月24日
大内県医師会長は広島空港から上京する。 |
1976(昭和51年)11月25日
両市長は、「スタジオ102」に出演したのち、東京を発ち、ニューヨーク経由でワシントンに到着した。 511125(昭和51年11月25日) ブリュセルで開かれた第六回国際自由労連執行委員会は、両市長の国連に対するアピールをとりあげ、これを支持することを決定し、つぎのようにワルトハイム事務総長に打電した。 |
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