『ヒロシマの証言 平和を考える』 (広島平和文化図書刊行会編、日本評論社、19690806)内容
編- | ||
山田節男(広島市長) | 序 | |
森脇幸次(編集委員長) 庄野直美(執筆総括者) |
『ヒロシマの証言』刊行にあたって | |
1 | 被爆体験 | |
1-1 | 原爆が落ちた時 | 原子雲の外から/原子雲の下で |
1-2 | 生きながらの地獄図 | 炎と雨の中で/炎の街にはいる |
1-3 | 廃墟と屍の街 | |
1-4 | 原爆投下の状況 | 予想もできなかった/原爆投下は警告されていたか/なぜ原爆は投下されたか |
1-5 | 平和のねがい | 被爆者の声 /被爆体験をどう受けとめるか |
2 | 被爆者と市民の生活史 | |
2-1 | 原爆孤児 | 0年ぶりの茶の間/原爆直後の孤児/孤児の生活/アメリカの精神養子運動/広島子どもを守る会 |
2-2 | 原爆障害に悩む人びと | 広島の涙 /ピカドン傷/きのこ雲の下より |
2-3 | 原爆孤老 | 行くところなし/さかさごと /現実の対策 |
2-4 | 原爆を作品に書いた人たち | 原民喜/大田洋子 /阿川弘之/原子爆弾特集号 /正田篠枝/詩の発表 /峠三吉 /反戦詩歌集/「歌集・広島」と「句集・広島」/原爆と小説/ |
2-5 | 立ち上がった人びと | 木片を探す少年 /晴れたある日 /愛の手 |
2-6 | 報道関係の努力 | 報道と権力 /平和運動と報道/原点をさぐる |
2-7 | 身近で遠い被爆者たち | 核の島・沖縄の273人/被爆した朝鮮人 |
2-8 | 平和教育への道程 | 驚くほど空白な平和教育 /平和教育の初期 /平和教育の窒息/広島の平和教育/教室での平和教育/「現代っ子」の平和意識 /平和教育への立ち上がり |
3 | 被爆者救援と平和への努力 | |
原爆タブーの時代・それでも広島は屈しなかった | ||
1945年(昭20) | 原爆投下/被爆後の応急措置/付記 | |
1946年(昭21) | 平和復興祭/広島市青年連合会/付記 | |
1947年(昭22) | 平和祭と平和記念式典/ABCC/付記 | |
1948年(昭23) | ヒロシマ・ピース・センター/付記 | |
1949年(昭24) | 平和擁護広島大会/世界連邦運動/平和記念都市建設法/シュモー・ハウス/付記 | |
1950年(昭25) | ストックホルム・アピールの反響/付記 | |
1951年(昭26) | 作文集「原爆の子」/原爆問題研究発表の活発化/付記 原水禁運動興隆の時代・みんなが願った原水爆禁止 |
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1952年(昭27) | 原爆被害者の会/世界仏教徒会議/付記 | |
1953年(昭28) | 広島原対協/大学人の会/付記 | |
1954年(昭29) | 反核の叫び全国に広がる/広島県原水協/ドイツから平和の鐘 | |
1955年(昭30) | 第1回原水禁世界大会(広島)/広島の原点・原爆資料館/平和美術展/皆実原爆被害者の会/付記 | |
1956年(昭31) | 広島県被団協/日本被団協/原爆の子の像/広島原爆障害研究会/付記 | |
1957年(昭32) | 被爆者医療法/広島憩いの家/付記 | |
1958年(昭33) | ヨット「フェニックス」号/折鶴の会/付記 | |
混迷の時代・努力を続ける人びと | ||
1959年(昭34) | 第5回原水禁世界大会(広島)/付記 | |
1960年(昭35) | 第6回原水禁世界大会(東京)/原水禁広島母の会/付記 | |
1961年(昭36) | 広島キリスト者平和の会/付記 | |
1962年(昭37) | ||
1963年(昭38) | 第9回原水禁世界大会(広島)/原爆裁判の判決/付記 | |
1964年(昭39) | 世界平和巡礼/「原水爆被災白書」運動/付記 | |
1965年(昭40) | ワールド・フレンドシップ・センター/広島通信/付記 | |
1966年(昭41) | 原爆ドームの保存/付記 | |
1967年(昭42) | 広島平和文化センター/ベトナム戦傷孤児の救援/ヒロシマ研究の会/市民対話の会/付記 | |
1968年(昭43) | 原爆被災資料の収集/原爆被災全体像調査/被爆者特別措置法/付記 | |
わたくしたちは何をしたらよいのか | ||