原水爆禁止運動の開始

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

 

2.原水爆禁止運動の開始

 

平和擁護日本委員会など平和団体は,1954年の年頭から,6月開催予定の世界平和大集会の準備を進めていた。その準備組織である世界平和大集会日本連絡会は,ビキニ被災事件の報道から1か月後の4月18-20日,東京で「ジュネーブ会議,世界平和大集会のための集り」を開催し,「原水爆禁止のため国民に対する訴え」とともに「原水爆禁止について世界の人々への訴え」を発表した。後者では,全世界に「今後の平和運動は原水爆禁止に向ってこそ,その努力が集中されてゆくものだと考える」と訴えている。

つづいて,この会議の中で設置された世界平和大集会日本準備会は,6月7-9日に,日本平和大集会を東京で開催した。会議は,「当面の平和運動の目標は国際緊張緩和のために,原水爆禁止,アジアの安全保障.経済文化の交流.再軍備,軍事基地化反対,憲法擁護等にあるが,この中で原水爆禁止の運動を圧倒的に押し進め,平和運動を全国民的なものに統一していく」との日本の平和運動の任務を明らかにし,そのために原水爆禁止の中央センターを設けること,8月15日を目標に原水爆禁止の運動を中心とする平和月間を計画するとの方針を決定した。

世界平和大集会には,日本から,自由・改進・日自等の保守党議員を含む41名の代表か参加した(1)。

憲法擁護国民連合は,1954年1月15日,「保守反動勢力の憲法改悪計画に対応し,党派・主義・主張を超越し,平和憲法を守ろうとする広汎な国民的世論を喚起結集」(同連合運動方針より)することを目約に,総評・社会党(両派)・労農党などが中心となって結成した団体である(2)。同連合は,ビキニ被災事件後の状勢に対応するため,原子力特別委員会を設け,4月19日の第1回会合で,l,000万獲得を目標に原水爆禁止署名運動を展開することを決めた(3)。また,この構成団体である総評は,同月24日の第18回幹事会で原水爆兵器禁止署名4,000万目標を決定している(4)。

 

宗教団体では,世界連邦運動を推進していた人類愛善会が,署名運動の口火を切った。同会は,4月5日.緊急会員大会を開き、原子力兵器の禁止を求める決議を発表するとともに,大会席上に於て,署名運動の実行を決定した。署名運動は,期間を4月25日から5月25日の1カ月に限って行われたが,その理由は.「好事魔多くこの人道上の運動に対しても思想上の運動に之を利用せんとするものも輩出するに至り,此のまま運動を継続せんか,或は人道上の理念を域脱したる思想運動の蚕食するところとなり大に純度がいがめらるるに至るやも計り難きに至った」からであった(5)。

婦人団体では,4月3日の婦人月間中央集会が,原水爆禁止運動の展開を決議した。16日には,決議にもとづき実行委員会の代表が,外務省を訪れ,原水爆禁止の要求をアメリカにするよう申し入れるとともに(6)、翌17日には,婦団連傘下やその他の婦人団体,労組の婦人が,都内各所で署名運動に立った(7)。

一方,主婦連・地婦連・生活協同組合婦人部・日本婦人平和協会・婦人有権者同盟の5団体も.4月6日,”原子マグロ対策打合会”を開いている。この場で,原水爆禁止の決議がなされ,それを国連や在日各国大使館および各国婦人団体に送付することか決定された(8)。

広島では,「4月21日の第6回婦人会議閉会直後,全参加者により,強い希望」が出され.広島県地域婦人団体連絡協議会会長,矯風会広島支部長,国鉄労組広島支部婦人部長など10人の婦人が発起人として「水爆禁止広島大会」の開催を呼びかけている(9)。

一方,学生団体は,5月25日,東京で.全日本学生平和会議を開催した。この会議には,全学連,学生YMCA,同YWCA・ユネスコ学連、仏教学生会,わだつみ会などの代表1,600人が参加したが、平和の問題での学生の統一行動は,はじめてのことであった(10)。 会議では,思想・信条の異なる各学生団体間で一致できる点として,「再軍備に反対する」,「原水爆の製造・実験・使用に反対する」の2点を確認した(11)。

また,東大五月祭が,5月22-23日に行われたか,五月祭を”原・水爆禁止のための五月祭に”と多くのサークル・自治会がとりくみ,当日の展示の中でも圧倒的に原水爆を扱ったものか多かった。また,この中で,署名運動が展開され,20,192の署名が集められている(12)。

このように,既存の諸団体が.ビキニ被災事件を契機に,原水爆禁止を中心としたさまざまな運動を展開するようになった。次表のように,署名運動を早期に手がけた団体の多くは既存の平和団体であった。また,ある意味では平和運動あるいは原水爆禁止運動の一つの運動形態にすぎない署名運動が,次第に運動の中心となり,6月以降には,署名運動の実行団体が広汎に結成されるようになってきた。

署名運動の開始状況

4月 5月 6月 7月
平和団体 14
労働組合 13
原水禁団体 17
学生組織 10
その他 12
12 21 25 66

出典:『ビキニ水爆被災資料集」520-521頁。

1)労働省編,前掲書,1312-1313頁。
2)法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑第28集」700頁(時事通信社、1955年)。
3)労働省編,前掲書,1311頁。
4)法政大学大原社会問題研究所編,前掲書,606頁。
5)藤原勇造「原水爆署名運動を終りて」(『世界国家』1954年9月号)。
6)「社会タイムス」1954年4月19日。
7)『航路二十年-婦人民主クラブの記録』155頁(婦人民主クラブ、1967年)。
8)「日本経済新聞」1954年4月7日。
9)4月22日付「水爆禁止広島市民大会準備会御案内」。
0)全学連書記局「全学連第七回全国大会・一般方針」(三一書房編集部編『資料戦後学生運動3』、1969年)。
11)「連盟通信」(全日本学生新聞連盟)1954年5月10日。
12)「都学連情報号外・原水爆禁止特集」1954年5月23日,(三一書房編,前掲書)。