今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)
内容
章 | キーワード(人物・著書・団体など) | 備考 |
3 | ||
バーバラ・レイノルズ | 広島・長崎世界平和巡礼団 | |
アメリカのピッツバーグを訪れたとき、市民の中から原爆被災資料がアメリカに持ち帰られていることが話題にされ、二ユーヨークタイムスがこれをスクープとしてとりあげようとした。事実関係がもう一つはっきりしなかった為に不発に終ったが、アメリカにある資料の返還は、在米の被爆者調査とともに、将来の宿題だと言える。 | ||
ウ・タント | ||
巡礼団はニューヨークの国連本部でウ・タント事務総長に会い、 国連が被災白書を作るように要請。 1966年12月、国連総会はウ総長が「核兵器影響に関する 国連事務総長報告」をまとめるよう、満場一致で決議し、 翌年10月ウ報告は提出。 |
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この基礎データとなる広島・長崎の被災事実が明らかでなく、例えば死亡者の数なども終戦直後の県警報告78000が採用され、それが今後の災害を推定する基礎数字になっているという有様であるから、全体としてウ・タント報告の信頼度を弱める結果となったことは、まことに残念である。猶、広島・長崎の被爆者には、相当数の中国・朝鮮・東南アジア・ロシア・アメリカ人がいることを付言しておく。 | ||
金井利博 | 中国新聞社論説委員。 | |
1940年代から原爆関係文献の収集を行ない、その方面の開拓者の一人。 早い時期から被災白書の作成を中国新聞の紙上で提唱。 1964年8月、総評社会党系原水禁世界大会に出席、提案。 |
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談和会 | 広島・山口の大学人で組織する平和のための研究団体 | |
被災白書を具体的なプランにまとめて発表、とくに国勢調査で被災者総数を明らかにして研究上の「分母」となる数字をつかむべきことを、政府に要求するとともに、広く全国民の協力をよびかけた。 | ||
<以下未入力、要作業> | ||
世界平和アピール七人委員会 | ||
愛知揆一 | 文部大臣 | |
佐藤栄作 | 首相 | |
中山 | 文部大臣 | |
原爆被災学術資料標本センター | ||
予算も計上されたが、一部の保守系市議の積極的な妨害工作があって、結局、この予算案は、大蔵省査定を通ったあとで政治的につぶされ、資料館は実らなかった。 | ||
原爆被災資料収集協力委員会 | 日本被団協。日高六郎・大江健三郎氏らの協力 | |
近藤泰夫 | ||
原爆ドーム保存 | ||
広島折鶴の会 | ||
浜井広島市長 | ||
市会内部の保守系議員の妨害にも拘らず、42年8月までに、200万人の寄付者が、計画予算を5割も上廻る6500万円の浄財が寄せ、工事も美事に完成した。 | ||
原爆被災白書推進委員会 | ||
原爆被災白書 をすすめる市民の会 |
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日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書 | ||
茅誠司 | 原爆被災白書推進委員会委員長 | |
今堀が、文部省在外研究員となって訪米した機会にアメリカ国務省に働きかけたことも契機となって、67年5月、アメリカは返還をほのめかすに到った。 | ||
原爆被災映画返還運動 | ||
談和会 | ||
学術会議 | ||
中国新聞 | 新聞協会賞 | |
朝日新聞 | 「原爆500人の証言-被爆者追跡調査レポート」 | |
NHK広島 | ||
原爆地図の復元運動 | ||
平和文化センター | ||
山崎輿三郎 | ||
原爆被災資料広島研究会 | ||
田原伯 | ||
佐々木雄一郎 | ||
1968年の夏は、原爆被災資料ブームとよばれる程、多くの新資料が再発見された。広島東署がもっていた約二万人分の検視調書をはじめ、被災直後に臨時病院となっていた近郊の学校・公民館・役場などから、当時の日誌などが続々出て来た。広島県動員学徒犠牲者の会は各学校に紹介して、8月6日に各作業場で倒れた学生・生徒の記録をあつめ、「動員学徒誌」(68年5月刊)を出版したが、原爆資料館が小堺吉光氏を中心に、数年の歳月を費してまとめた「広島原爆戦災誌」も、完成を間近にひかえて最後のミガキをかけている。 | ||