平和式典の参列者
(1) 参列者数
中国新聞は、1949年(昭和24年)8月6日に広島市外から市内に入り込んだ人の数を、広島駅の4万人、横川駅の8,000人、己斐駅の3,500人の利用者数から、約7万人と推定した。また、当日の市内の模様を、「平和式典終了後アミューズメント・タウン、本通り、流川通り、駅付近や繁華街は100度[華氏]を超える炎暑にもめげず人の波はあとをたたず、正午をすぎたころからは劇場、各催し場は超満員のいも洗いぶり」と報じている(「中国新聞」49年8月7日)。しかし、この年の平和式典の参列者数は、市発表によれば約3,000人であった。こうした参加者数の落差は、参加者の関心が、式典以外の平和祭関連の諸種の催しに向いていたことを示すものであろう。
その後の式典の参列者数は、中国新聞の報道によれば、1951年約2,000人、52年約1,000人、53年約3,000人となっている。51年10月19日に児童文化会館前広場(49年の平和式典会場)で開催された戦後初めての広島県戦没者合同慰霊祭(広島県遺族厚生連盟主催)には、県内約7万の戦没者を追悼するため1万2,000人が参列し、翌52年5月2日に同所で開催された独立後初の戦没者追悼式(広島県・市主催)には約1万人、呉市で開催された追悼式(呉市主催)には、5,000人が参列している。これらと比較すれば、広島市の平和式典は、参列者の規模からみて、県レベルのものとは言えず、広島市の行事にすぎないものであった。
ある市民は、1952年8月6日の平和記念公園には、四つの群が存在したと書き残している。
第1の群=「慈仙寺鼻の仮の堂や、その周辺に設けられていた様々な供養碑の前に、線香の束をたき、花をそなえて、あの日に死んで行った人達の霊をとむらう老若男女が数百人、引きも切らず夫々の思いをこめて頭を垂れていた。」
第2の群=第1の群から200メートルほど離れた位置に設営された平和記念式典会場。「一杯入れば4、5万人は収容出来ると云われる緑の芝生の上に参会した市民の数は僅かにほぼ200名」。
第3の群=「之を傍観する数百人である。広い芝生の周囲には鉄条網がはりめぐらされ通路の正面が一カ所開いているだけであるが、見物人はこれをとりまいて遠くから眺めるのである。」
第4の群=広島平和市民大会への参加者。
(朝野明夫「四つの群」、『広島平和問題懇話会会誌創刊号』1952年12月)
1953年の状況については、森戸辰男広島大学長(元文相)の証言がある。8月6日午前10時35分から20分間、読売新聞社の飛行機上から広島市内を観察した森戸は、その印象をつぎのように記した。
眼をうつすと慰霊碑に参拝する人々の列が長く続いている。その北方の児童文化会館広場では働く人たちの集い、総評主催の広島平和大会が開かれている。そして先ほど終了した平和まつり[平和式典=筆者注]と合せて三様の人波がそれぞれ特色をもってこの日の広島を表現していた。
(「読売新聞」1953年8月7日)
ところが、1954年には、式典への参列者数は2万人となった。この年3月1日に南太平洋ビキニ環礁で発生した日本のまぐろ漁船第五福龍丸の水爆被災事件を契機に、全国各地で原水爆禁止の運動が沸き起こった。広島県内でも婦人団体、労組、民主団体などが、7月2日に原・水爆禁止広島県民運動本部を発足させ、原水爆禁止を求める100万人の署名運動を展開した。8月6日には、同本部が、平和式典に引き続いて、原爆・水爆禁止広島平和大会を開催することを計画した。また、広島県労会議(正式名称:広島県労働組合会議)が中心となって結成した8・6平和週間実行委員会も、8月3日の会合で、6日には「広島市・広島平和協会共催の平和式典、県民運動本部主催の原・水爆禁止広島平和大会には約4万名が家族連れで参加する」ことを決定している(「中国新聞」54年8月5日)。参列者数が、数千台から数万台へ飛躍したのは、これらへの参加者が式典に参列したためであった。52年、53年の状況と比較すれば、52年の第3・第4の群や53年の平和大会の「人波」が、平和式典に合流したと考えることができる。
1955年には、8月6日から3日間、広島市を舞台に原水爆禁止世界大会(第1回)が開催され、平和式典への参列者数は5万人を数えた。54年の式典の基盤が、全県レベルのものであるとすれば、55年のそれは、全国レベルあるいは国際レベルのものであった。
その後、式典の参列者数は、2万から5万人の間で推移し、85年以降は5万人台で定着している。91年の参列者数は、広島市の発表によれば5万5,000人であった。