平和宣言
(11) 平和宣言の普及
1948年(昭和43年)の宣言は、世界160都市に浜井市長のメッセージとともに送付された。宣言の海外への送付は、これ以後も続けられ、54年には、世界主要都市市長へ98通、平和団体へ29通、計127通を原水爆禁止決議文とともに郵送されている。この年には、初めて共産圏に13通が送られたが、これは、占領解除の翌年にあたる前年に計画されながら中止となっていたものであった。その後の海外への送付総数は、新聞報道によれば、55年には151通、56年179通、58年300通、59年258通、60年265通、61年275通、66年170通、69年257通、71年281通、72年257通、74年236通、75年250通、76年247通、77年362通となっている。また、国別では、56年には、アメリカ64通、イギリス15通、ドイツ11通、フランス・カナダ・南米各8通、オーストラリア6通などであり、61年には、アメリカ81通、西独28、イギリス21通、フランス15通、オーストラリア10通、カナダ9通、東独8通などとなっている。
海外への送付先は、都市長や平和団体、個人あてであったが、1974年には初めてインドを含む核保有国を始め、19か国の首相、大統領が送付先に加えられた。さらに、翌75年には、在日大使館、領事館や在日海外特派員(100人)など国内の海外機関・個人への送付とともにニューヨークタイムス、ルモンド、BBC、プラウダ、人民日報など海外の新聞、放送通信社108社への送付が行なわれた。その後、国連加盟国161国の国連代表部への送付も加えられ、82年には英文の宣言の送付数は、国内外合わせて1,170通にものぼっている。
一方、国内への送付数も、次第に増加してきた。1955年420通、72年422通、75年926通、76年1,335通、77年1,918通と報じられている。76年から77年にかけての送付先の増加は、送付先をそれまでの広島・長崎両県選出の衆・参両院議員から全議員(723人)に拡大したためであった。77年には、海外送付分も115通増加し、国内外合わせて2,280通が送られた。
1975年には、平和宣言を印刷したパンフレットが5万部が印刷され、そのうちの約2万5,000枚が、「ひろしま平和の歌」のパンフレットとともに、平和式典開式前にボーイスカウトによって配布された。また、76年からは1枚のパンフレットに作成された「平和宣言・平和の歌・式次第」が、会場で配布されるようになり、78年からは、英文のパンフレットも作成され、会場で参列の外国人に配布されるようになった。このほかに広島市による宣言普及の努力は、平和宣言文パネルの設置という形でも行なわれている。83年12月28日、広島市は市役所本庁や市議会棟の玄関、広島平和記念資料館の展示ロビー、市内7区役所の計10か所に、平和宣言文のパネル板を設置した(91年には12か所)。
最近では、平和宣言普及が、市民の奉仕活動としても行われるようになった。
広島市視力障害者福祉協議会は、87年の宣言から、点訳を行い、会員と日本盲人会連合に加盟している56団体に送るようになった。また、88年からは、国際青少年友好センタ-主宰のコンピュ-タ-・ネットワーク「カモメ」が、平和宣言を日英2か国語で発信している。