政府、議会関係者(平和式典の参列者)

平和式典の参列者

(3) 政府、議会関係者

総理大臣は、初期の段階では、式典にメッセージを寄せたり、広島県選出の国会議員や閣僚を総理代理として派遣した。広島県に地縁関係のない閣僚が、総理代理として出席したのは、1960年(昭和35年)の中山マサ厚生大臣が最初であった。この年には、広島県議会と自民党広島県連が、各政党党首への出席を強力に働きかけた結果、一時、池田総理大臣の出席の可能性も取り沙汰されたが、結局、中山厚相の代理出席となった。
広島市が、総理大臣本人の出席を強く働きかけるようになるのは、1965年以降のことである。この年6月23日、浜井広島市長は、「ことしは被爆20周年に当たるので、来賓としてよりも、例年市長が読上げている平和宣言を佐藤首相にやってほしい」という意向を明らかにし、永野広島県知事を通じて出席を強く要請することを発表した。この年、総理の出席は実現しなかったが、初めて閣議で取り上げられ、橋本登美三郎内閣官房長官が代理として出席した。この後、66年と67年、総理府総務副長官、68年、内閣官房副長官、69年、床次徳二総務長官、70年、内田常雄厚生大臣と、広島県と地縁関係のない閣僚が派遣され、71年には、佐藤栄作総理大臣が、歴代総理の中で初めて式典に参列した。
山田市長は、1968年以降、佐藤総理大臣に会い、直接出席を要請していた。これに対し、総理は出席の意向を示していたが、国務の多忙が理由で実現しなかった。しかし、71年には、5月11日に首相官邸を訪ねた山田市長に、万難を排して出席することを約束した。こうした決意の背景について、佐藤総理は、山田市長に「天皇・皇后両陛下も慰霊碑を参拝されたことであり、どうしても行きたい」と語っている。これ以後、表7のように、三木、鈴木、中曽根、宇野、海部の各総理の参列が実現している。91年の海部総理の式典への参列は、総理大臣自身のものとしては、9回目に当たるものであった。
衆参両院議長についても、初期には、広島県選出の国会議員の代理出席であった。当初、総理大臣、衆参両院議長の「あいさつ」や「献花」が、本人と代理の参列の区別なく、常に式次に設けられていた。しかし、1972年からは、代理の「あいさつ」や「献花」は、内閣総理大臣のみとし、衆参両院議長については廃止された。清瀬一郎衆議院議長が、60年に皇太子とともに参列したが、これが議長本人が出席した最初である。その後、ふたたび広島県選出の議員の代理出席が続いていたが、70年には衆参両院の副議長(荒船清十郎、安井謙)が参列した。71年以降の衆参両院議長の参列状況は、表7のとおりである。
この外の国会関係者としては、国際軍縮促進議員連盟の代表が、1981年と82年の式典に参列している。同連盟は、ライシャワー発言を契機に目だちはじめた「非核三原則見直し論」に危機感を感じた議員が81年5月13日に超党派で発足させたもので、被爆体験を持つ日本の立場を改めて内外に示す目的から広島・長崎の式典への参列を決定した(「毎日新聞」1981年6月2日)。