平和行進(1958~63年)

平和行進(1958~63年)

日本原水協は,1958年6月16日に開催した「核武装と核実験停止を要求する請願大会」において,第4回世界大会にむけて6月20日から広島-東京をむすぶ1,000キロ平和行進を行うことを決定した。同年4月,アメリカのペンシルベニア州など5州の都市や村からニューヨークの国連本部まで百数十キロ,5日間の平和行進が行われ,また,イギリスでもロンドンからオルダマストンの原子兵器研究所まで80キロ,4れて,世界中に大きな反響を呼んでいた(「朝日新聞」1958年6月22日)。日本原水協の決定は,こうした欧米に生まれた原水爆禁止行動の形態を日本に取り入れようとしたものであった。

平和行進は,6月20日午前10時,森滝広島原水協理事長の出発宣言,渡辺広島市長の激励の言葉を受愛けて平和公園内の原爆慰霊碑前を出発した。この行進の県内での状況は,次のようであった。

広島市(6月20日)
150名が行進に参加,スーダン代表ママドウ氏,森滝広島原水協理事長もこの行進に参加,呉市へ向かった。
呉市(6月21日)
市長夫人以下10数名が吉浦まで出迎え,21日は約100名が市中行進を行った。市では宣伝カーを出し,市内に宣伝,市長を始め多数が歓迎に協力した。一行は,安浦町,竹原を通過し,23日三原市に到着した。
三原市(6月24日)
三原では労組中心に約300名が行進し,市長も歓迎に出向いた。
尾道市(6月25日)
尾道では,300名が出迎え共に行進に参加した。地区労・婦人団体・遺族会・被害者団体が積極的に協力した。市では助役以下が出迎え,夜は一行を囲んで懇談会を開いた。尾道-福山間は降雨にも不拘,20名が行進に参加した。
(日本原水協「第27回常任理事会議事及決定」)

こうして始まった日本の平和行進は,その後欧米とは比較にならないほどの規模と動員力を持つものに成長した。次表は,1963年までの平和行進の概要をまとめたものであるが,最大の盛り上がりを示した1961年の規模は,延べ距離数2万km,参加人員2億5千万人,歓迎集会への参加著者2万人であった。

表1 平和行進の概要

回大会 距離(延べkm) 参加人員(万人) コース
1956月20日)⇒東京(8月12日) 20日)⇒東京(8月12日)
1959 5 6383 1032 東京(6.1),新潟(6.10),沖縄(6.16)
1960 6  10000 2200 与論島平和島(4.12),北海道沖縄(6.4),北海道稚内(6.14),青森(6.14),
(6.4),北海道稚内(6.14),青森(6.14),
1962 8 高松(5.1),沖縄(6.22),北海道稚内(7.10)
1963 9 24000 1200

出典:『原水爆禁止世界大会宣言・決議集 第1回~第20回』

表1 平和行進歓迎集会の概要

開催年月日 概要
1959.8.4 原水爆禁止・核武装阻止・6,000キロ国民平和大行進,国際平和巡礼歓迎集会。於広島平和公園。20,000人参加。
1960.8.5 国民平和大行進歓迎集会。於東京日比谷野外音楽堂。15,000人参加。
1961.8.12 平和行進歓迎中央集会。於東京江東区猿江公園。21,000人参加。
1962.8.4 核戦争阻止・原水爆禁止国民平和大行進歓迎集会。於東京台東区隅田公園野球場。15,000人参加。
1962.8.4 原水爆禁止・被爆者救援国民平和大行進歓迎集会。於広島平和公園。10,000人参加。

出典:各大会『議事録』

平和行進は,このような動員力において世界大会の大衆的基盤を確保するとともに,その他多くの成果を生んだ。たとえば1961年の平和行進の成果は,次のように総括されている。

一、行進は,原水爆禁止運動の当面の基本的スローガンを普及し,国民的な大結集をうち出し,第七回大会の成功を用意した。
二、行進は,地方・地域の平和のたたかいを,国民運動に発展させる上で,重要な役割を果した。
三、行進は,原水禁運動に対するひぼう,中傷,最近とくに著しくなった原水協の分裂策動を封じ込め,運動と組織の統一のために貢献した。
四、行進は,全国に網の目のような支線をくみ,今までの「空白」地帯に大きな足跡を残し,運動の拡大のために重要な教訓をもたらした。
五、行進は,原水爆禁止運動・平和運動の未来を担う,若い世代を大きなよりどころとし,同時にその世代に深い影響力をおよぽした。
六、行進は,地域に原水協運動・平和運動の新しい組織を生み出し,運動のマンネリズムを克服する,いきいきとした問題意識を提示した。
(『原水爆禁止・国民平和大行進報告』)