「三沢大集会に万余の人々結集」
出典: 青森県史デジタルアーカイブス
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第02章 日米安保体制下の青森県 第3節 「同盟」の深化と自衛隊 1 基地と装備の拡充 資料番号62 三沢大集会に万余の人々結集 ページ 105~107 |
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核兵器廃絶、F16くるな!! 三沢大集会に万余の人々結集/日米両政府に抗議文核攻撃機F16の三沢米軍基地配備に反対する大集会は五月二十六日正午から三沢市中央公園で、北は北海道から南は沖縄県、二十六都道府県から一万人を超す参加者によって開かれました。 大集会の中央舞台には大きく、核戦争阻止、核兵器全面禁止、日米安保条約廃棄、F16核攻撃機配備反対、三沢基地撤去、5・26三沢大集会とくっきり書かれ、文化行事にはじまり、きたがわてつ、のオープニング演奏、各県のうたごえ集団の賛助出演で集会は開始されました。 大集会の主催団体は、原水爆禁止日本協議会、日本平和委員会、基地対策全国連絡会議、安保破棄諸要求貫徹中央実行委員会と東北六県のF16・トマホークくるな連絡センター。四月二日三沢基地にF16が三機配備されてから初の全国的な規模の反対集会です。F16配備で最前線基地に 文化行事のあと、青森県原水爆禁止協議会大塚英五郎理事長が主催者を代表してあいさつに立ち「F16配備で三沢米軍の部隊名は第四三一戦術戦闘航空団という。これが彼等の名前、いかにも対ソ核戦争の最前線部隊であることが、名称によっても表われているではありませんか。 津軽海峡封鎖作戦演習もふくめ日米合同軍事演習はヒンパンに行われており、もし米ソ戦となれば中曽根の言う日本は、不沈空母になることを如実に物語っています。 我々は人類絶滅の核爆弾廃絶のため、F16反対運動を続けると同時に、広島、長崎からのアピールを支持する署名を国民の過半数から集めることに全力をあげながら今年の原水爆禁止世界大会を成功させましよう」と力強く述べましした〔ママ〕。 立木参議員〔立木参院議員〕のあいさつ 千歳・沖縄各代表が決意表明 政府への抗議文 抗議書 レーガン米大統領へ抗議文 |
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(資料年月日)1985年5月30日 (出典)『北奥民報 第184号』三沢市立図書館所蔵 | |
(解説) 資料51は1962(昭和37)年3月刊行の『米軍三沢基地の実態』に掲載された米軍三沢基地の現状報告である。同年2月にはアメリカ大統領ケネディがベトナム戦争を拡大し、戦略村と称する農耕集落を建設して農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。B52戦略爆撃機の三沢飛来が確認され、三沢基地がベトナム戦争に組み入れられていることが強調されている。三沢基地はソ連と対峙するばかりでなく、アジア全体の米軍戦略上の拠点となっていた。 資料52は1970年の日米安全保障条約の改定を翌年に控えた1969年6月に刊行された『青森県下の軍事基地』のうち天ヶ森射爆場と基地関連労働の部分を収録したものである。天ヶ森射爆場は旧海軍航空隊の射爆場を1949年に米軍が接収したもので、天ヶ森の740万平方メートルが演習場で、海側は46.6平方キロメートルが漁業制限区域となっている。 また、基地で働く労働者3000人のほか、国鉄・日本電信電話公社など基地に附帯する事業で働く労働者の概要を知ることができる。労組の反戦・基地撤去の方針と基地撤去が自らの生活手段を奪うことの矛盾の中に生きる基地労働者について言及している。 防衛施設庁による在日米軍基地の実態調査が資料53である。調査は1970年3月から5月上旬までで、当然沖縄の基地は含まれていない(沖縄返還は1972年)。青森県の施設数は7か所で、神奈川・東京・福岡・長崎に次いで、北海道と同数の5位である。 |
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使用条件:改変可能・営利目的可能です。 | |
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