長崎原爆被災者協議会
1953年6月 原爆乙女の会(長崎)
一九五五年七月二十日 原爆乙女の会(長崎)、機関紙「原爆だより」第一号を発行。
一九五五年十月一日 原爆青年会
一九五五年五月三日 長崎原爆青年乙女の会
1956年6月 長崎原爆被害者協議会(原対協の総合診断名簿による7000人)
長崎原爆青年乙女の会編『原爆体験記もういやだ-原爆の生きている証人たち』(あゆみ出版社、一九五六年)
渡辺千恵子「十一年目の証言」
「毎年、夏が訪れるたびにいろんな原爆記念行事がくりかえされてきました。しかし肝心の私たち被爆者はいつも焦点の外におかれていました。ところが広島大会では私たち被爆者の救援がはじめて大きくとりあげられたのです。大会の模様が電波に乗って、世界の隅々まで伝わって行きました。
”ああ、生きていてよかった”
これは一人私だけでなく、生残りの被爆者の誰もがそう心から思ったにちがいありません。
「あとがき」
「長崎における原爆被害者の大衆活動は過去一年間唯一の被害者組織として歩みを続けた原爆青年乙女の会の呼びかけで、この六月やっと長崎原爆被害者協議会が発足したばかりである。しかもこれは原対協の総合診断名簿による被害者七千人が自動的に会員となった。さらに労働組合、民主団体など平和の力の総体的な弱さが被爆十一年後今なお被爆地としての問題点を明確にし得なかった根本原因であった。」
『中国新聞(夕刊)』一九五五年八月十日
「原爆殉難者慰霊祭奉賛会主催の被災者大会は八日午後七時から長崎市原口町国際文化会館で約五百名の被災者が集まって開かれ、直接恐怖の原爆を体験した人人が、原子爆弾に対する激しい怒りの声をあげたのち
一、原爆被害者に年金制度をつくれ。
二、原爆死亡者の遺族に扶助を与えよ。
三、財産上の損害を補償せよ。
など五項目を決議した。
『長崎日日新聞』一九五五年八月九日
「援護の不備を訴う 被爆者大会で悲痛の叫び
夜に入って原爆奉賛会主催の比婆宇社大会はきのう八日夜七時二十分から長崎国際文化会館講堂で開催、被爆者の悲痛な叫びをあげた。約一千名の被爆者が出席、開会の辞についで議長団に小佐々八郎(長崎市議)梶山清美両氏を選出して来賓のあいさつに入った。西岡知事、田川長崎市長、脇山市議会議長、矢野重俊氏らが原爆犠牲者のめい福と被爆者、犠牲者遺族の労苦をねぎらってあいさつを述べた。終わって意見発表に移り杉本亀吉氏(市内城山町)古瀬益司氏(同町)ら約十名の被爆者が援護の手の不備と被爆者の悲痛な叫びを訴えた。
ついで△原爆傷害者の国費による完全治療を実施するため①研究治療費の増額②傷害者はすべて健康管理下におき年金の支給△原爆犠牲者遺家族の範囲拡大と援護措置をはかるため①被爆者の遺族にも弔慰金の支給②被爆による財産の損害を国家で補償△原子兵器の製造実験および使用禁止の措置の三項の決議文を満場拍手のうちに採択、被爆者代表(後日選定)が政府、国会をはじめ各国大使館に手渡すことを決定した。
最後に”世界最初の原爆犠牲者であるわれわれに政府は責任と義務において万全の援護措置を構ずべきである。れわれは被爆者の権利をもって政府に訴える”との宣言文を高らかに宣言して大会を終った。このあと映画”陽のあたる家”を上映して午後十時過ぎ散会した。
山口仙二『115、500㎡の皮膚-被爆43年の自分史』(みずち書房、一九八八年)
六一頁
この入院生活では、私はその後の生き方にかかわる大きな収穫があった。調外科には、外傷をもつ多くの被爆者がいた。私は調先生から、追跡調査のため患者の組織づくりをしてくれるよう頼まれ、患者会をみんなで結成した。 何年??
->被爆者約一万名のリスト作り
->長崎原爆青年会の結成(十月一日) 七六頁
六八頁
第一回世界大会直後、辻幸江・江頭千代子と長野へ。
六九頁
この土地の、原爆への関心の高さには驚かされた。十三カ所の会場で、私たちの話をきいてくれた人びとはおよそ三万人。善光寺の半田孝海大僧正も会場にみえられ、のちに寺をあげての接待をして下さった。
七〇頁
長野から帰った直後、第一回原爆被害者救援委員会に出席
七七頁
(中国からの原爆被害者慰問金五万円をたずさえて)安井氏と私とで県庁へ相談に行った
。(安井がそのまま持ち帰る)。
第二回原水爆禁止世界大会長崎実行委員会『長崎における被爆者に関する調査資料』(一九五六年八月一日)
止