資料年表:パール・バックとヒロシマ(主な出典『中国新聞』)
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19461120 | 『アジヤの友へ アメリカ人の生活と国民性について』(翻訳者:石川欣一、発行所:毎日新聞社、配給元:日本出版配給株式会社) |
1949/1/– | 米講演旅行中の広島流川教会の谷本清牧師から近況報告。「ワシントンでメソジスト教会などの協力の下に『広島を世界平和のメッカに』の運動を始めた。パール・バック氏、ジョン・ハーシー氏らの協力も得ている」 |
1949/3/23 | ニューヨークでヒロシマ・ピース・センター協力会が結成。「土曜文学評論」のノーマン・カズンズ主筆、パール・バック氏、スタンレー・ハイ氏(リーダーズ・ダイジェスト主筆)、ハリー・カーン氏(ニューズ・ウィーク主筆)らが中心(「広島原爆とアメリカ人」) |
1951/5/5 | 米の作家パール・バック女史が中国新聞社の創立60周年を祝い祝辞。「広島の記憶はアメリカ民衆の良心から永久に消え去ることはないでしょう。広島という名称は平和をもたらすための私たちのシンボルとなりつつあります」 |
1952/8/6 | 中国新聞を通じ8月6日メッセージ。ノーマン・カズンズ、マービン・グリーン、パール・バック、アルフレッド・パーカー、フロイド・シュモー、エメリー・アンドリュース、ウィリアム・デビン、メアリー・ジョーンズの各氏 |
1952/12/– | 米国整形外科学会からABCCテーラー所長を通じ広島県医師会に、「広島、長崎に原爆症治療班を1年の予定で送りたい。受け入れ態勢はどうか」との非公式問い合わせ。真杉静江さんら東京の作家グループがパール・バック女史を介し故ルーズベルト大統領夫人に働き掛けた結果 |
1955/6/19 | 原水爆禁止世界大会広島準備会がパール・バック女史、ジョン・ハーシー氏、キュリー夫人、アラゴン氏、サルトル氏、郭沫若氏ら70人に大会招請状を発送 |
1955/12/10 | パール・バック、バートランド・ラッセル氏らで構成するスイスの人権アカデミー(本部ジュネーブ=1950年6月発足)が広島、長崎両市へ「原爆被災が平和運動の発端になった」とメダルを贈呈 |
1958/4/11 | 米核政策健全化委員会がニューヨーク・タイムズに著名47人の連名で、「太平洋上の核実験を停止させるためアイゼンハワー大統領に訴願書を提出する。国会議員、編集者、放送機関にも訴える」との意見広告。同委員会は前年11月、作家、牧師、教育者などの有志で結成、ノーマン・カズンズ氏が臨時議長に就任。その後、参加者はルーズベルト夫人、パール・バック女史、仏の作家アルベール・カミュ氏など多彩に |
1965/10/3 | 広島市宇品町の広島「憩いの家」で、「被爆者の集い」1,000回記念祝賀会。参加人員延べ5万3,000人。1964年、パール・バック女史、バートランド・ラッセル博士ら国際的文化人約2,000人をメンバーとする国際協力委員会広島ハウス財団(事務局ニューヨーク)が発足、2カ月に1度の割で被爆者救援の定期便 |
1967/12/23 | ニューヨークの「広島憩いの家国際協力委員会」から広島市宇品町の広島「憩いの家」に被爆者救援金10万円が届く。「憩いの家」設立者のアイラ・モリス夫妻、バートランド・ラッセル卿、パール・バック女史ら |
1973/3/6 | パール・バック女史が米バーモント州ダンビーの自宅で死去。80歳。 |
小説「大地」で知られる米作家でノーベル文学賞受賞者のヒロシマ・ピース・センター運動、精神養子運動などを支援