広島平和委員会(1958年 )

広島平和委員会

昭和33年9月27日,広島市内の光道会館で広島平和委員会の結成総会が開かれた。

これは,在広の日本平和委員会々員十余名の集まりであった広島平和協議会が原水爆問題に限定されがちな広島県原水協の制約を越えて、原水爆問題のみならず、民主主義の確保、憲法擁護,基地撤廃など広範な平和運動を進めるための組織として準備したものであった。(広島平和協議会「広島平和協議会へ参加のお願い」昭和33年9月)。

成総会には県内から50人が参加(総会当日の入会者は60人)し,日中関係・勤評問題・国際続一行動の点について討議を行った。また,当日,会長(佐久間澄)・幹事(佐久間・板倉静夫・三宅登・石井金一郎・村中好穂・石田千鶴子・松江澄)を決定している(「広島平和ニュース」No.1)。

広島平和委は,10月末に労働者を中心とした部会を開いたが,40人近く参加した。この時の討議で岩国基地行進を成功させようということが強く主張された。この行進というのは,10月16日に広島で開催された日本原水協中国ブロック山陽側会議で決定されたものである。この時,11・1国際共同行動デーの取り組みとして,広島・山口両県原水協共催で,核武装阻止岩国墓地平和大行進と岩国市における大衆集会を開催することとなった(「広島原水協情報」No.1 昭和33年10月30日)。

11月8日から9日にかけて広島から岩国まで40人近くの人々が徒歩行進を行ったが,その半数以上は広島平和委の労働者部会に参加した者かあるいはその働きかけによる参加者であった。広島平和委員会が結成後初めて取り組んだ続一行動である岩国基地行進の成功は,その後の平和運動に少なくない影響力を与えた(「広島大学人会会報」N。.22)。同会自身の総括によれば,その意義は次のようである。

①平和委員会グルーブによる目的意識的な活動によって基本的に成功した。労働者部会の果した役割はこの成功を決定づけた。

②運動の目標の面で,不充分ながらも警職法闘争を平和を守る運動の一環としてとらえ,この闘争に組織された力を意識的な行動方向をうちだすことによって,民主主義と平和の闘争を統一的に発展させた。

③運動の方法の面で,従来くりかえされた官僚的な上からの動員方法を打破し下からの自主的参加とそのための活動を強調し,それは基本的に実現され,今回の「行進」の重要な特徴としてその成功を保障する主要な原因となった。

④この「行進」は従来の一般的,抽象的な原水禁運動を,昨年の美保基地闘争から発展させ,具体的な基地反対の行動にたかめ広島の平和運動を前進させた。

⑤さらにこの「行進」は国鉄第二支部の経験にみられるように,行動を通じて活動家をつくりだし,今後の平和活動の一層の発展を保障した。

昭和33年12月初めには,会員数は100人を越え,各地・各職域に,平和委員会結成の動きが生まれた。