旧陸軍被服倉庫(広島市基町)消滅過程に見る原爆遺跡存廃論議

問題の発端

『中国新聞(夕刊)』1970年6月11日

広島市教委は、同市基町地区の再開発事業によって破壊される恐れがある旧陸軍輜重(しちょう)隊倉庫などいわゆる〃原爆遺跡〃を保存するよう、このほど市に文書で要請した。史跡として保存するとなれば、再開発計画を一部手直ししなければならず、保存か取りこわしかをめぐって論議は〃原爆遺跡〃にまで及んできた。

市教委が保存を要請したのは、輜重隊倉庫(第二基町バス停前)、陸軍病院門柱(第五基町バス停前)、陸軍病院の由来を記した石碑(県営アパートわきの不法住宅地内)の三件。(中略)

三つの〃遺跡〃のうち、門柱と石碑は場所を移すなどすれば保存も可能だが倉庫は延べ二百六十二平方メートルもあって移転は困難。しかも被爆後二十五年もたって荒れ方がひどく、ブロックもくずれ落ちている。この付近は、市の基町再開発計画で中央公園の芝生広場に予定され、近くに市立図書館や野外音楽堂を建てることになっている。

計画通り工事が進められるとなると、倉庫は取りこわしの運命にある。このため市教委は、先に開かれた市文化財審議会にはかり「補修して現位置に保存するのが望ましい」との結論を得た。

市教委の要請に、対して基町再開発事業を進めている都市計画局では、門柱と石碑の保存には問題ないとしながらも、倉庫については公園計画との関連で慎重な態度をとっている。公園計画を担当する市建設公園緑地課の浅地課長は「史実を後世に伝える意味で保存は必要だと思う。しかし史実を伝える場合、建て物跡を表示する方法もある」と言っている。(後略)

 

存廃論議

年表:1976~78(昭和51~53)年の動向

 動向
76 01 24 中国新聞「30年ぶりに全容-旧陸軍”被爆倉庫”-広島市が周辺取り壊し-惨状伝える壁・ガレキ-”第2のドーム”-関係者ら保存訴える」
76 02 04 中国新聞(夕刊)「水曜グラフ:姿消す”戦争と被爆の遺跡群”-再開発進む広島市基町地区-旧軍の施設が次々」
76 04 30 広島市基町の住民有志で作る「基町明治会」の代表5人、基町公園内の旧第5師団経理部倉庫と県立体育館裏の柳の木3本(樹齢60年以上)を保存するよう求めた要望書を広島市に提出。
76 06 23 広島市、基町の被爆倉庫の保存の検討作業を始める。
76 06 24 広島ユネスコ協会、例会と理事会を開催。基町の陸軍被服倉庫の保存について協議。運動を始めた「基町明治会」を支援する方針を決定。
76 06 29? 広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動に乗り出すことを決める。
76 07 04 広島県被団協(森滝市郎理事長)、日本被団協総会で広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動を全国的に広げるよう提案。
76 07 07 広島市基町の旧陸軍被服倉庫の保存運動を進める「基町明治会」、写真家佐々木雄一郎が昭和26年当時に同倉庫を撮影した写真を入手。
76 07 07 フリーの映画監督楠木徳男、広島市基町の旧陸軍被服倉庫をテーマにした映画のロケを開始。
76 07 07 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存を広島市に要望。
76 07 13 読売新聞「保存に賛否両論-広島の旧陸軍被服倉庫-「被爆のあかし」地元老人らが運動-意義に疑問も「ドームだけで十分」
77 01 13 広島市、基町の旧軍被服倉庫を撤去することを決定。
77 01 17 中国新聞「記者ノート:原爆遺跡の保護対策を」
77 07 13 中国新聞(夕刊)「消え行く原爆遺跡<広島>-実態つかめず風化-問われる市の保存行政」
78 05 10 広島市、庁内関係課長等12人で構成する原爆遺跡選定調査会議を設置(広島市資料)。原爆に関係のある155件の建物・橋梁などが候補にのぼるが、そのうち重要なものとして41件を選ぶ。
78 06 01 広島市基町の旧軍被服倉庫の取り壊し開始。

 

『中国新聞』1976年1月24日

原爆資料保存会などの関係者=都心部でこれだけの施設がいまだに残っているのはまれだ。都市化で原爆資料が年々姿を消しており、被爆を伝える生きた証言として残すべきだ。

この建物の隣に住む高野千都子=被爆直後の広島の面影です。このガレキの上で下で、たくさんの人が死んだのだろう、とここを見ると手を合わせたくなる思いです。

原爆資料保存会の横田工会長=外国の平和運動家からもなぜもっと原爆の惨状を残さなかったのかと言われる。原爆の継承の意味からも保存するよう市に働きかけたい。

『読売新聞』1976年5月1日

基町明治会が広島市に提出した要望書=レンガ造りの被服倉庫は崩れ落ち、柳も被爆したため幹の半分近くが枯れているが、いずれも原爆を知らない戦後生まれの若い人たちのために残すべき資料。

『毎日新聞』1976年6月18日

片島薫(元同盟通信記者で基町明治会の会員)=被爆の事実が忘れられてゆくなかで、被爆したままの姿で出てきた倉庫は、どうしても残しておくべきだ。撤去せず公園の一部に、歴史の資料としてとどめておくのが、ヒロシマの願いでもあり、義務だと思う。

『毎日新聞』1976年6月19日

いぬいとみこ(東京在住の児童文学者)=ドームは、現在、単なる観光の象徴となってきている。ヒロシマをとどめておく意味でも被服倉庫跡を保存することは重要な意味を持つ。

田中千禾夫(作家)=原爆ドームにしろ被爆の痛ましい残がいは、すべて残しておくべきだ。残がいは生きている。現実に平和を訴える”証”として現代に息づいている。半永久的にドームを保護した広島市は、ぜひ残しておくべきだ。

栗原貞子(地元の詩人)=ヒロシマのありのままの歴史を伝える建築物がどんどん姿を消している。原爆ドームは今や観光のトレードマーク。原爆のツメ跡がくっきり残った残がいはきちんと保存しておくべきだ。

竹内武広島県被団協事務局員=私有地で見つかった残がいならば買い取るといった問題があると思う。しかし、今回のケースはそれと違い国有地の中。ぜひとも保存してとどめておくべきだろう。

広島市建設局公園緑地部=あの残がいは、公園予定地(5ヘクタール)のちょうど真ん中にあたる。あれが残っていると支障があることは事実。また、建設省の最初の指導指針でも、一切の建物を建てず、広場だけの公園を作るようにといっている。しかし、爆心地にあれほど近く、原爆の惨状を生々しく伝える貴重な残がいであるということは十分認識している。

『毎日新聞』1976年6月24日

野村哲夫基町明治会会長=この倉庫が当時どうなったのかを、こうした証人の人の話を集めれば、原爆で空白になった部分を解明できる。この倉庫は軍隊の施設だったから残すという考えではなく、原爆の悲惨さを訴え、平和のために残したい。

広島ユネスコ協会=被爆体験の継承に役立つ貴重な被爆建築物。

『毎日新聞』1976年6月24日