刊行の経過
「第5巻-資料編」より
年 | 月日 | 事項 |
1960 | 0202 | 新修広島市史編集委員会(昭和二十五年設置)において、同市史全七巻の刊行終了後、なるべく速やかに「広島原爆戦災誌」を編集刊行する必要性が話しあわれる。 |
1962 | 0330 | 最終の新修広島市史編集委員会において、戦災誌編集事業の大綱が審議される。 |
0401 | 新修広島市史編集委員会の解散後、企画調査室(室長向井一貫)が戦災誌編集を受持つことになり、同室次長森弘助治が基礎資科の収集方法について検討をはじめる。 | |
05 | 企画調査室主事平砂唯嗣が編集事務を補助することになり、被爆前後の精密な状況を記入する「広島原爆戦災誌資料表」の作成に着手すると共に、市内を広島市福祉協議会の区割による三六地区(ほぼ学区別と同じ)に分け、各地区に調査担当の地区委員八〇人(主として被爆者)が選定される。後に二人追加する。 | |
07~09 | 市内地区のほか、主要官公庁・事業所・各学校・関連市町村に対して、各部門別の「広島原爆戦災誌資料表」を送付する。この間、各地区委員に対して説明会を開催、調査協方を依願する。 | |
0901 | 広島平和記念資科館館長長岡省吾の退職にともない、森弘助治が同館長兼務となり、企画調査室と資料館の双方において、編集業務を続行する。 | |
1207 | 企画調査室主事平砂唯嗣が、広島平和記念資料館主査となり、戦災誌編集に関する一切の業務を、同資料館においておこなうこととなる。主事川本義隆(昭和三八年三月末まで)が、編集業務を補助する。 | |
1963 | 08 | 各部門別に依頼した前記資料表による回答が思わしくなく、編集作業が渋滞しはじめ、広島市公報、及び報道機関を通じて、一般への協力を呼びかける。 |
1209 | 加藤助役・広島大学教授その他一般の有識者の参集を求め、編集方針を検討する。三か年計画で約八〇〇ペーシ内外のもの一冊にとりまとめることとする。 | |
1964 | 0401 | 主事Aが資料館勤務、編集業務を補助する。 |
1965 | 0401 | 編集担当主査平砂唯嗣が、同資料館の庶務担当主任となる。 |
1101 | 福利課同和係長小堺吉光が、広島平和記念資料館主査となり、戦災誌編集業務を担当する。だだちに資料の収集状況を点検し、編集作業の積極的推進をはかる。 | |
1118 | 主事Aが転出、主事Bが後任にきまり、編集作業を補助する。 | |
1966 | 0201 | 広島原爆戦災誌の編集目的・編集内容・編集方法などについて、市長(浜井信三)の決裁を得る。 |
02~07末 | 各種資料表を精査する。すなわち、既集資料表において、無記入、あるいは不明確で再調査の必要なもの、未回収資料表の記入督促、新規に資料を必要とするものなど、各部門別に分類整備するというそれぞれの作業を進め、執筆準備をおこなう。 | |
08~ | 第二編各説の市内各地区--幟町地区から執筆に入る。主事Bが退き、Cが後任に決る。四三年七月末までに、一応全原稿を書きおろす。 | |
1968 | 0801 | 戦災誌の監修委員として、広島大学教授後藤陽一・同今堀誠二・日本基督教団広島教会牧師四竈一郎を委嘱し、順次に原稿を送付して閲読を受ける。 |
09~ | 随時、監修委員会を開催し、執筆事項の疑問・不備・追加・削除その他についての指摘により諸事項の再吟味、再調査を行ない、出版予定の巻数・ぺ-ジ数にこだわることなくひたすら内容の充実につとめる。 これらの作業遂行中に、広島市内は勿論、全国から各種の貴重な資料の提供や情報があり、監修委員の指摘事項以外にも、実に多くの事がらを書きあらため、書き加える。 |
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1969 | 0401 | 編集作業の増大にともない、新しく主事Dが加わり、原稿の浄書、諸資料の整備を進める。Cは主として、現地調査の補助、及び、各種の図表・一覧表の作成補助にあたる。 |
0801 | 第二編各説に、新たに「主要神社・寺院・教会」の一章を加えることにする。また、資料編一巻を加えることにする。 | |
1970 | 0401 | 広島平和記念資料館長森弘助治が退職、後任に広島平和文化センター主幹小倉磐が発令される。 |
09初 | 各巻の体裁を整え、印刷準備に入る。すなわち当初の編集計画を大きく変え、本論四巻・資料編一巻、計五巻とする。 | |
1007 | 最後の監修委員会を開催し、全巻の原稿完成を確認する。掲載写真など細部点検を重ねる。 | |
1971 | 06初 | 印刷所を中本総合印刷株式会社に決定する。発行部数二、七○○部。 |