慰霊式・平和記念式典(1951年)
1951年(昭和26年)5月10日、第1回と第2回平和祭の式典会場となった平和広場の平和塔の除去作業が始まった。直接の理由は、「都市美観上と同地が記念公園となるため」(「中国新聞」1951年5月12日)であったが、平和祭の終幕を象徴するできごとであった。
1951年7月25日、浜井広島市長は、各国主要都市200、国内各市300へメッセージを送付し、そこで原爆6周年の平和式典を開催することを明らかにしている。しかし、この年の平和祭の準備は、スムーズには進んでいなかった。平和祭分担金45万円の追加予算案が可決したのは8月4日の定例広島市会においてであった。
8月3日、広島市警と同公安委員会は、平和祭典委員会、平和擁護委員会などが許可申請を出していた市民広場と荒神小学校での平和大会を禁止するとともに、市民に向けてつぎのような声明を発表した。
平和祭は認めるが、これは同日を市民の厳粛な祈りとする建前であって、平和運動の美名にかくれて反占領軍的あるいは反日本的行動は断じて許されぬ。市民はこのことを十分了解されて、不用意にこの種集会などに参加して政令第325号違反あるいは公安条例など違反に問われることのないよう注意していただきたい。(「中国新聞」1951年8月4日)
この年の式典は、8月6日7時30分から10時まで戦災供養塔前広場で開催された。その式次第はつぎのようなものであり、平和祭というより広島平和協会主催の慰霊祭と言ってもよいようなものであった。
開会の辞 (吉田平和協会事務局長)
慰霊祭 修祓(教派神道)、献花祈祷(キリスト教)、□[判読不能]辞(神社庁)、敬白文奏上、読経回向(仏教)、玉串奉献(教派神道)、賛美歌
献花(浜井平和協会会長)、焼香(藤田供養会長)、玉串拝礼(森保、長岡遺族代表)
黙とう(サイレン)
記念式典
あいさつ 浜井市長
メッセージ 吉田首相、林衆議院議長、佐藤参議院議長、大原広島県知事
平和の歌
閉会の辞
中国新聞社と広島県・市は、アメリカ空軍岩国基地の要請により、朝鮮戦争に50回以上出撃したパイロット20数名を式典に招待していた。また、岩国基地所属の飛行機から花輪が投下され、霊前に供えられた。
この年は、原爆死没者の7回忌に当り、さまざまな団体によって8月6日に向けて多くの慰霊祭が開催された。