平和宣言
(3) 原水爆禁止
宣言は、当初、人類破滅観にもとづいて絶対平和の創造や戦争放棄を訴えた。しかし、原爆の禁止を訴えることはなかった。ビキニ水爆被災事件の発生した1954年(昭和29年)においても、「一切の戦争排除と原子力の適当なる管理を全世界に訴える」という表現にとどまっていた。ところが、57年の宣言では、「原水爆の保有と実験を理由づける力による平和が愚かなまぼろしにすぎない」と指摘し、翌58年には、「われわれは更に声を大にして世論を喚起し、核兵器の製造と使用を全面的に禁止する国際協定の成立に努力を傾注し、もって人類を滅亡の危機から救わなければならない」と初めて明確に原水爆禁止を主張した。68年には、「核兵器を戦争抑止力とみることは、核力競争をあおる以外のなにものでもなく、むしろ、この競争の極まるところに人類の破滅は結びついている」という明確な核抑止論批判に発展した。さらに、73年には、「全世界の強い抗議を無視して、南太平洋において核実験を強行したフランス政府をはじめ、いまもなお核実験を続ける米・ソ・中国など、国家主権を楯として、自国の安全のためにのみ、核実験を正当化しようとしていることは、まさに時代錯誤であり、全人 類に対する犯罪行為でもある」と、名指しで核保有国を厳しく非難するまでになった。
1973年の宣言は、「核兵器の速やかなる廃絶と核実験の即時全面禁止」という表現で、核兵器廃絶の課題のうちまず核実験禁止を要請している。それまでにも、「核実験停止決議や査察専門家会議開催」(1958年)、「米、英、ソ3国による部分的核実験停止条約の締結」(63年と64年)など核実験の制限、管理をめぐる国際動向に歓迎の意を表していたが、核実験禁止を緊急の課題として要請したのは、この時が初めてである。その後、79年には、「相次ぐ核実験の強行」が新たに提起した「放射能被曝の問題」を指摘し、「すべての核実験はただちに停止し、これ以上新たな被曝者をつくってはならない」と強く訴えた。また、82年以降、核実験の即時停止を求め続けている。
1965年の宣言は、核兵器の「保有国が漸次その数を増して、事態をいよいよ混乱させている」ことに憂慮を表明した。その後、宣言が、核拡散の問題を独自に取り上げることはなかったが、74年になって、宣言の中心テーマを、核拡散防止にあてた。この年の宣言は、米ソ両大国が、核の拡散を助長していることを指摘し、核拡散の阻止を国連に期待するとともに、日本政府へも「核拡散防止条約の速やかなる批准」を求めている。この後、核拡散についての言及は、75年、76年、80年、88年の宣言でもなされた。
1974年の宣言は、政府の外交政策に対して具体的要請を表明した最初のものである。同年の宣言は、日本政府に対し「核拡散防止条約の速やかなる批准を求め」た。以後、政府に対し、核軍縮に積極的な役割を果たすよう求め続けている。78年には、つぎのように政府に要請した。
いまこそ唯一の被爆国であるわが国は、国際社会における平和の先覚者として国際世論の喚起に努め、核兵器の廃絶と戦争放棄への国際的合意の達成を目ざして、全精力を傾注すべきときである。
こうした核兵器廃絶への日本政府のイニシアティブの要望は、1980年の宣言でも現れ、81年には、「平和国家の理念を掲げ、非核三原則を国是とするわが国がその先導者となることを期待する」と、その根拠として「非核三原則」に触れた。81年の宣言に初めて言及された「非核三原則」は、以後、90年まで毎年宣言の中に現れており、83年からは、政府に、その堅持あるいは厳守を要望するようになった。なお、89年と90年の宣言は、政府に「非核三原則の厳守」とともに、「アジア・太平洋地域の国際的非核化の実現」に向けての外交努力も要望している。